可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『視える』

映画『視える』を鑑賞しての備忘録
2024年、アイルランド制作。
98分。
監督・脚本は、ダミアン・マッカーシー[Damian McCarthy]。
撮影は、コルム・ホーガン[Colm Hogan]。
美術は、ローレン・ケリー[Lauren Kelly]。
衣装は、スザンヌ・キーオ[Suzanne Keogh]。
編集は、ブライアン・フィリップデイビス[Brian Philip Davis]。
音楽は、リチャード・ミッチェル[Richard G. Mitchell]。
原題は、"Oddity"。

 

森の中に立つ歴史ある屋敷。ダニー・オデロ=ティミス(Carolyn Bracken)が音楽を流しながら吹き抜けを跨ぐ通路に作られた穴を覆う床板を補修している。階下に降りる。まだ家具の入っていない広間にキャンプ用のテントが立つ。部屋の隅のダニーのカメラはタイマー設定により定期的にシャッターを切る。ダニーが中庭に駐めた車から上着を取り出して戻ると、スマートフォンが鳴った。
精神病院の非常階段。デクラン・バレット(Jonathan French)が絵を描いているのを職員のアイヴァン(Steve Wall)に見咎められる。何してる。戻れ。
病棟には全身を拘束された男や徘徊する男がいる。
医師のテッド・ティミス(Gwilym Lee)が執務室でバーニー・キング(Joe Rooney)のカルテに目を通していると電話が鳴る。ティミス先生? 妻よ。新居にいるんじゃなかったのか? いるわ。新居からよ。電波が届くところがあったの。どこに? 2階の通路の突き当たり。今晩は泊まるのか? ええ。もう少ししたら食事に出るわ。戻ったら止めたくなるまで作業するつもり。あんまり根を詰めるなよ。明日の晩、妹を食事に呼んでもいい? 心配なの。ダーシーなら大丈夫。定期健診受けなきゃいけないのに、私が言うと怒るのよ。じゃあ、僕が話してみるよ。お願いできる? 僕が悪者になるよ。私にとっては英雄よ。仕事に戻るよ。また明日。愛してるわ。電話を切ると、カチカチ音がする。いつの間にか執務室に入院患者が入り込んでいて、ニュートンのゆりかごを鳴らした。少し歩こうか。テッドが彼を部屋の外に連れ出す。
ダニーが妹のダーシーに電話を入れる。ダーシー・オデロです。発信音の後にメッセージをどうぞ。聞いてよ。やっと繋がったわ。
夜。ダニーが中庭の車で物を探していると物音がする。懐中電灯で周囲を確認するが何の影もない。建物に入って鍵をかけると扉で音がした。ダニーが覗き窓を開けると、右目が義眼の男(Tadhg Murphy)がドアを開けてくれないかと言う。何故? 助けたい。家から出たろ、車に何か取りに。扉開けっ放しで。誰かが入った。何ですって? 車に行ったろ、扉を開けっ放しで。誰かが入り込んだんだ。中にいる。誰も見なかったわ。背中を向けてたからだ。あなたは家の前で何を? 夫が戻ってくるわ。ティミス先生は夜勤だ。テッドの患者なの? 壁伝いに聞いた。それで来た。誰かいた。開けてくれないか? 助けたいんだ。男が興奮の度を増す。ダニーは大声で尋ねる。誰かいる? 応える訳ない。誰かいる? 私以外にいないわ。あなたの勘違いよ。すぐに立ち去って。警察を呼ぶわよ。そうだ、警察を呼べ! 電話が見つからないの。車に置き忘れたみたい。電話を持ってる? ない。本当に誰か見たの? さっきからそう言ってるだろ! 扉を開けたらどうするつもり? 中を調べる。誰もいなかったら? 帰る。何か家の中で物音がする。ダニーが鍵に手をかける。いいぞ。
精神病棟のデクランの部屋。壁はデクランの描いたスケッチでいっぱいだ。ラジオから音楽を流しながらデクランが机に向かい絵を描いていると隣室で物音がする。呻き声のようなものも聞えた。デクランはドアを開けて様子を窺う。デクランは驚き慌ててベッドの下に隠れる。音がしなくなって改めて部屋を出て隣室を確認する。血塗れの床に頭部を砕かれた遺体が横たわっていた。デクランは義眼を拾い上げる。
オデロ骨董品店。盲目の店主ダーシー・オデロ(Carolyn Bracken)が店に持ち込まれた呼び鈴を確認していると、テッドが現われた。

 

ダニー・オデロ=ティミス(Carolyn Bracken)が森の中の屋敷で1人改修作業に当たる。夫で精神病院に勤める医師テッド・ティミス(Gwilym Lee)との新居になるがまだ家具も入っておらずテントに寝泊まりする必要があった。夜、電話を探しに中庭に駐めた車を確認するが見付からない。家に戻ったところでドアが叩かれる。右目が義眼の男(Tadhg Murphy)が何者かが家に侵入したのを見たから中を調べさせて欲しいと必死に訴えた。夫の病院で偶然情報を掴み助けに来たと言う。ダニーは男を入れるべきか迷う。ダニー殺害から1年近くが経って、テッドがオデロ骨董品店を訪ねる。ダニーの双子の妹である盲目の店主ダーシー・オデロ(Carolyn Bracken)に、亡くなった入院患者デクラン・バレット(Jonathan French)が隠し持っていたオーリン・ブールの義眼を届けるためだ。間もなく1周忌だから洋館で食事をしたいと頼まれるが、既に恋人ヤナ(Caroline Menton)との生活を始めていたテッドは躊躇う。ダーシーは義眼に触れてオーリンの残留思念を読み取ると、母の遺品の箱を「結婚祝い」に送るとともにテッドの屋敷を訪れた。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

冒頭、ダニーのダーシーに送った生前最後のメッセージ「やっと繋がったわ[We are connected]」ことが強調され、双子の2人の絆が表現される(いつでも一緒という意味合いではなく完了と捉えられているのは、電波を拾えたという文脈だけでなくconnectに変化を見ているためだろう)。
ダニー殺害事件の担当捜査官がオーリンを被疑者とする証拠を確保しており事件は決着した。だがダーシーはオーリンの義眼に触れることで覆面の人物を視る。真相を解明するためダーシーはテッドの屋敷を訪れるのだ。
精神病院に隔離された患者は医師や看護師に管理される。精神を病む患者の意見は封殺される。まして精神病院は密室で、権力の濫用の危険が付き纏う。盲人のダーシーが司法的に片の付いた事件を覆そうとする試みは、精神異常者が医師や看護師に楯突くのとパラレルである。
異常として排除される弱者と、健全な社会維持を名目に肥大化する厚生権力。所有者の記憶を所持品に読むサイコメトラーなどオカルトは、科学は万能であるという素朴な誤解や晴眼者の見えているとの思い込みを照射するための表現である。珍品や変人を意味する"Oddity"という原題と異なる邦題「視える」は作品の内容を的確に捉えている。

(前半で秘匿されている内容についても言及する。)

ダーシーがテッドの屋敷に送る箱(ダーシーの母の遺品)の中身は中盤まで明らかにされない。はっきり話題にされることなく徐々に画面に姿を現わす。それは人形、ゴーレムである。

 (略)『創造の書』は人間によって書かれたものとはいえ、それを理解すればゴーレムという擬似人間を造ることができるという意味で、それは神の行為をまねることを目的とした本だとも言える。荷に弦を創造することは神にしかできないが、擬似人間なら、一定の修練を経た人間でも造り出すことができる。神がアダムを造ったのなら、〈アダム様のもの〉を造ることを介して、神の創造行為を模倣するというわけだ。そうやって、擬似人間を造り上げることで、人間は改めて神の創造行為の偉大さを知り、真正で完璧な創造主は神以外にはないということを再確認できる。なぜなら擬似人間ゴーレムは話すことができず、完全なものとは言いがたいからである。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010/p.36)

ダーシーはテッドの屋敷を訪問し、テッドが仕事に出た後、内縁関係にあるヤナと話す。テッドの患者が訪れてこないか不安だというヤナに対し扉を開けるよう求められたら入れるかダーシーが尋ねる。私が馬鹿に見えるとヤナは返答する。ダーシーは目が見えないので馬鹿に聞えると返答する。その上でダニーと双子の自分が馬鹿に見えないのならダニーが見知らぬ男を家の中に招き入れるはずがないと、オーリン・ブールがダニー殺害犯であることを否定する。

 (略)私は次のような主旨のことを書いた。もしアダムがわれわれ人間の祖先だとするなら、われわれすべてがかつては土くれだったと述べてもいいのだ、と。われわれは、誰もが、かつてゴーレム段階を経てきた。それは、われわれの内部にはかつてゴーレムだったという記憶、またはその痕跡が残っているということを意味しうる。
 〈人間圏〉の中に当然棲まうはずのわれわれ全員が、その内部に〈人外〉の成分を入れている。先に私は〈人間圏の境界〉について語った。だがそれは、〈人間圏〉には純粋な中央部があり、そこには〈人間の人間性〉の確固たる中核が控えているということを反照的に指示するわけではない。つまり、確固たる中核があるからこそ境界が語れる、とは必ずしも言えない。むしろ境界は、〈周縁部〉にあるはずだという通念を破り、〈人間圏〉の内部をいわば彷徨して歩く。誰がいつ、どのような意味で〈人外〉になってもおかしくない。われわれは、仮にゴーレムそのものではないにしても、多少なりとも〈ゴーレム的なもの〉を抱えながら生きているのだ。
 だが、より具体的には、たとえばそれはどのようなことなのだろうか。
 まずは〈人間圏〉の内部での対人関係、他者関係の中に潜在し、折に触れて浮上する〈ゴーレム的なもの〉がある。
 空腹で身をふらつかせ、襤褸を着た見知らぬ他人のことを、衣食満ち足りた私は〈ゴーレム〉として見る。
 充分巧みな言葉を操ることができず、時に言いよどみ、時に放埒な逸脱をする他人のことを、冷静で冷酷な私は〈ゴーレム〉として見る。
 外観から充分巧みな言葉を話しているらしいとはいえ、その意味がまるで分からない言葉を話す他者集団を前にしたとき、彼らが激昂し、声を高めて何かを訴えようとすればするほど、私は身をひきながら彼らのことを〈ゴーレム〉として見る。彼らの言葉は、言葉ではなく、〈鴃舌〉になる。
 (略)
 要するに、他者に対して、(略)より俊敏で自在だと自認する部分が相手を〈ゴーレム化〉して捉えるという態様のことが問題となっている。(略)
 〈他者のゴーレム化〉の場合、それをする〈私〉は、特定の他者(単数)、または他者集団(複数)に対して眼に見えない境界線を引き、他者(たち)を向こう側に追いやる(もっとも、それは逆方向からみれば、ただの退却・引退・消失にみえるかもしれない)。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010/p.200-203)

本作は、他者を見くびり、他者を道具として使う人物、すなわち〈他者のゴーレム化〉を図る人物が自らゴーレム化する物語と捉えることが可能である。