可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『旅と日々』

映画『旅と日々』を鑑賞しての備忘録
2025年、日本製作。
89分。
監督・脚本は、三宅唱
原作は、つげ義春の漫画「海辺の叙景」及び「ほんやら洞のべんさん」。
企画は、中沢敏明。
撮影は、月永雄太。
照明は、秋山恵二郎。
録音は、川井崇満。
美術は、布部雅人。
装飾は、大原清孝。
衣装は、立花文乃。
ヘアメイクは、百瀬広美と荒井智美。
編集は、大川景子。
音楽は、Hi'Spec。

 

建物の林立する街。アパルトマンの1室。脚本家の李(シム・ウンギョン[심은경])が机に向かう。机の上にノートを開き、右手に鉛筆を握る。時折目を瞑り想像を膨らませる。「S#1 바닷가」とノートに記したところで鉛筆が止まる。考える。右手、左手を動かしているうち、思わず笑い出す。李が鉛筆を走らせる。막다른 길에 1대의 차. 후방 좌석의 여자가 깨어납니다.
波の音が聞える。海岸に停まる車。ガラスに流れる雲が映る。後部座席で眠っていた渚(河合優実)が目を覚ます。起き上がって窓越しに周囲を見渡す。渚の左手の中指には包帯が巻かれている。車から離れていた男が運転席に戻る。女は口を開かない。男はエンジンをかけると、ウォッシャーを作動させ、フロントガラスでワイパーが作動する。女がシートに凭れる。車は岩が露出した急崖沿いの道を走り抜ける。女がぼんやりと車窓を眺める。
仰向けで海面に浮かぶ女性。砂浜でビーチバレーをするグループ。岩場で海に飛び込む男たち。夏男(髙田万作)は砂浜に腰を降ろし文庫本を読んでいる。Ciao! Ciao! 夏男はビキニ姿の女性に声をかけられているのが自分だと気付く。Studio fotografia. Posso farti una foto? どうやら写真を撮りたがっているらしい。どうぞ。夏男が姿勢を正そうとする。Resta seduto, bene. 起ち上がろうとしたのを制される。Sii più naturale. Togliti gli occhiali da sole. 夏男はサングラスを外す。写真を撮り終えたところへ彼女の連れの男たちがやって来る。レジャーシートに腰を降ろす。
李がノートに記す。청년은 아늑하고 해변을 떠난다. 반면 그때...
湾を望む斜面に拡がる住宅街。長い坂道を渚が1人で登る。途中の分かれ道で立ち止る。
商店からアイスキャンディを買った夏男が出て来る。店先には老婆が坐っている。
渚が郷土資料館を訪れる。漁撈の道具や民芸品などが並ぶ展示室内。男たちが漁に出ると女たちが無事と豊漁を祈ったこと、帰らなかった男たちを石仏に祀ったことなどのナレーションが流れる。渚は、籠を頭に担ぎ運ぶ女たち、魚や海藻を商う男たちなどの写真を見て廻る。岩壁が切り立つ島の全景を捉えた写真の前で立ち止る。
渚が強い風の吹き付ける中、斜面の高台の道路を歩く。規制線のロープを潜り抜け木立を抜ける小径に入る。ハマカンゾウが所々に生える山道を降り、コンクリートの構造物を抜けると、海岸に出た。渚が煙草を取りだした所で、浜辺に青年が1人でいるのに気付く。こんにちは。どうも。地元の方ですか? 渚が尋ねる。親戚の家がこっちにあって。今度は夏男が渚に聴く。いつ来たんですか? 4日前、5日? 死ぬほど退屈じゃないですか? 1人で来るとこじゃないですよ。何にもしたくなくて。何でですか? いいです。余計なこと言うなってよく怒られるんです。でも、良い所。こんな所あるなんて知らなかった。薄暗いアパートで生活してたから、生き返ったって感じです。こんな気持ちがいつまでも続くといいんですけど。渚は煙草を取り出す。吸う? 要りません。夏男が立ち上がる。潮溜まりに死んだ魚が浮いていた。この島で母親が生まれたんです。小さい頃1年ほど住んでました。じゃ、懐かしい? ちょっと怖い話しても大丈夫ですか? 何? 漁船の網に土左衛門が引っ掛かったんです。ドザエモンって? 死体です。真っ白になっていました。漁師さん? 女の人だったんです。子供を抱いていて。怖かったなあ。子供は半分骨で。タコがいるとすぐ骨になってしまうんです。怖い話っていうより、悲しい話だと思う。確かに。
波打際で遊ぶ母子。砂浜に佇む3人組。波間に浮かぶ男。オレンジ色の光が辺りを包む。斜面の小径を渚と夏男が歩く。僕は何をやっても上手くいかないことばかりです。自分より不幸な人はいないと思う? 自分の知ってる範囲内では。浮気ってしたことあるの? 何でですか、急に。雑談。浮気の定義によります。楽になるかなって思ってたんだけどね。
すっかり陽が落ちる。湾とその周囲に拡がる町明りを見晴らす高台の柵に渚と夏男が腰掛ける。母親は退屈は創造を育むと言っていました。でも違うと思うんです。人は暇になるといろんなことを考えて病むんです。何も考えられないくらい忙しく生きるっていうのがいいんじゃないかと。忙しくても悩むよ。どうしたらいいんですかね? 美味しいもの、食べるとか。旅行に出たまま帰らないとか。全然別の人のフリしてやり直すとか。生まれ変わって全然別の人になるとか。そんな真剣に考えないでいいです。今のままがいいと思いますよ。えっ? 今のままが素敵だと思います。いい人だね。

 

韓国出身の脚本家・李(シム・ウンギョン[심은경])が、つげ義春の漫画を原作とした映画『海辺の叙景』の脚本を自宅で執筆する。鬱屈した日々を送る夏男(髙田万作)が、夏休みに母親の故郷・神津島を訪れ、海辺でアンニュイな雰囲気の渚(河合優実)に出遭う。日が落ちるまで語り合い、翌日の正午に再会を期して別れる。台風接近の影響で大雨の中、夏男が律儀に海辺で待っていると、果たして渚が訪れた。現役の海女である夏男の祖母手製の蜜豆を2人で食べる。渚が海に入るので夏男も泳ぐことに。渚は大きな魚を見たと言い、夏男が魚を沖に追いかける。映画『海辺の叙景』を大学の講義で上映し、教授(斉藤陽一郎)の司会で質疑応答の場が設けられた。まずは映画評論家の魚沼(佐野史郎)からエロティックな作品だとの評価をもらい、続いて学生たちの質問に移った。脚本と映画との差異を問われた李は、自分にはあまり才能がないと思ったと吐露する。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

李は『海辺の叙景』のキャラクター、鬱屈する夏男に自らを投映している。李は日本に来た当初に感じていた恐怖とも言える新鮮さを失い、全てが言葉に呑み込まれてしまったと嘆く。言葉にできなかった模糊とした感覚が、いつしか言葉という既存の概念・内容に絡め取られる。だから李は夏男を此岸=日常から沖へ向かって泳がせる。しかし日常とは紋切り型の言葉によって構成されるものだ。一々喫驚していては日々生活は成り立たないからだ。李は魚沼の弟から兄の遺品のカメラを譲り受け、写真を撮るよう勧められる。日常を異なる視点で捉えるためである。その延長線上に旅がある。李は日常から離れることで新鮮さを手に入れようとするのだ。
夜の自室の闇。窓の前を通る列車。李は暗闇から鉄道に導かれる。川端康成の「雪国」よろしく、長いトンネルを抜けて雪国へ向かう(劇中劇である映画『海辺の叙景』で渚がトンネルを抜けると海岸に出るモティーフの変奏でもある)。
行き当たりばったりの旅をする李は温泉宿に泊まることができない。旅館で紹介された人里離れた民宿を紹介される。竈や囲炉裏のある古い農家で1人民宿を営むのがべん造(堤真一)である。
ところで、エドワード・ケイシーは、人間の住み方をヘスティア的なものとヘルメス的なものに二分する。

 ヘスティアとは、ギリシャ神話におけるかまどの女神であり、家と家族的生活の中心である炉端を象徴する。それは、家族を養う家政(オイコス)の神でもある。(略)ギリシャでは、かまどは家や寺院の真ん中になり、ヘスティアは家庭と国家の統一の象徴であった。
 よって、ヘスティア的住み方とは、佇むことであり、留まることであり、最終的に宿ることである。それは、同じ場所に停留することであり、内在することであり、滞在することであり、共に居つづけることである。この居住形態は、その中心に家を持たねばならず、内側へと閉じていく傾向を持つ。(略)
 (略)
 他方で、ヘルメスは、その韋駄天で知られるギリシャの神である。彼はとても素早く走れるために、ギリシャの神々のメッセンジャー役であった。ヘルメスは、開かれた、公共の場所を移動する。それで、かれは、道路、旅行者、横断の神であり、国境の守り手であり、それを渡る旅行者、羊飼いと牛飼いの庇護者である。またヘルメスは、盗賊と嘘つきと悪知恵の庇護者である。ヘルメスは、運動とコミュニケーション、みずさきあんない、交換と商業の神である。
 ヘルメスの能力は、つねに外に出る住み方、境界の外へと移動する経験に結びついている。ヘルメスの住み方は、放浪という住み方である。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.127-129)

竈のある家に住まうべん造がヘスティア、旅人の李がヘルメスであるのは明らかだ。べん造は妻子に捨てられて鬱屈した暮らしを続けている。べん造が手に入れた鯉が氷付けなのは、べん造自身の象徴だ。

 他方、ヘルメス的住み方では、時間と空間は切り離されない。経験や知識は、つねに特定の場所に結びついており、他の場所でも同じ経験や知識が役立つかは分からない。経験と知識は場所に結びついており、他の場所でも同じ経験や知識が役に立つかは分からない。経験と知識は局所的なものにすぎず、初めての場所や場面ではかつての知識は通用しないことがしばしばだ。同じ場所で得られるアイデンティティや、その場所での変遷の積み重ねとしての歴史や文化は、移動する者には重んじられない。そうした合いティンティティや歴史、文化などは、他の場所では役に立たないことも多いし、そんなものは持ち運べないからである。ポータブルであること、転調可能であること、交換可能だること。これらが貴重なものの特徴である。ヘルメスにとって精神とは移動できるもののことである。重くて動かないものは、むしろ物質的なもの、生命や精神を持たない死物の特徴である。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.130-131)

李は地元の警察官(足立智充)に名所は見て廻ったかと尋ねられる。李は雪に覆われた村を見ただけだ。何故か。名所の確認作業では日常≒言葉から離れる旅を実現できないからである。

 (略)人びとは自分の物語を求めて、ハッシュタグのついた実空間に動員されていった。もちろん、人間はそこで何ものにも出会うことはない。あらかじめ、ハッシュタグによって自覚された予定調和の事物にしか出会えない。街を歩いても、目当てのハッシュタグのついたもの以外目に入らなくなる。名所旧跡の前でセルフィーを撮る観光客が何ものにも出会えていないように。代わりに、彼らは相互評価のゲームに閉じこめられる。ハッシュタグとは、すでに多くの人びとが話題にしている事物を可視化する装置だ。彼らが触れているのは、事物ではなく人気のハッシュタグ=他のプレイヤーたちの発信の生んだタイムラインの潮流でしかないのだ。(宇野常寛『庭の話』講談社/2024/p.43)

新雪を踏んでよろけながら歩く李は、言葉になる前の真っ新な世界を確かに踏みしめている。言葉に追いかけられながら、李は再び鉛筆を手に取るだろう。

劇中劇たる映画『海辺の叙景』の舞台を神津島に置いたのは、朝鮮出身のジュリアおたあの流刑地だったことから、韓国出身の脚本家・李と関連性が認められるからではないか(郷土資料館のシーンでは、「ジュリア祭」のポスターが映し込まれる)。