展覧会『唐仁原希「星の影をさがして」』を鑑賞しての備忘録
MITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYにて、2025年10月29日~11月10日。
近世ヨーロッパのような世界を舞台に展開するファンタジーに登場するアニメーション・キャラクターのような少年・少女の肖像画で構成される、唐仁原希の個展。
《もういいかい》(1620mm×1940mm)は、バンビの下半身(四肢)を持つ少女と触れ合う少年を描いた作品。半獣の少女は少年の腕に手を添え、目を閉じて少年の顔に唇を寄せる。半ズボンのポケットにサクマドロップスの缶を覗かせ、左膝を擦り剥いた少年は顔の半分もの大きさの目を見開いて少女の顔を見上げる。2人の頭上には心臓が浮いている。バンビの腰には4羽の鳩が身を寄せて留まる。別の1羽は絨毯にいる。少年の背後には垂直に立てられた棺桶が3つ並び、それぞれ白いカップ、ハンカチ、白いチューリップ(折れた茎が布で縛られている)が載る。少女の背後には、少年の背丈よりも低い扉を持つレプリカの家が立つ。赤い屋根に燕が訪れている。真っ暗な窓の下には漫画誌『ジャンプ』の束がある。背景には草原が拡がり、暗い空に虹が架かる。騎馬の人物が鹿を狩っている。鹿狩りは男性が女性を求めるメタファーであろう。少年は性的に目覚めたのだ。故に少女は以前とは異なった姿を少年の前に現わす。だから少女はバンビの下半身という異形なのだ。少年の心臓は激しく鼓動する。背丈の低い少年期に暮らしていたレプリカの家には戻れない。少女との関係で家族が後景に退いたことが、日用品と結び付いた棺桶により示される。注目すべきは、絨毯に表された鹿狩りのデザインが背景の鹿狩りの景観に転じていることである。平面は立体となり、空想は現実となる。実は、本作自体が異世界へのポータル[Portals]なのだ。《もういいかい》の左手の壁面には、赤い屋根の家を描いた《家(レプリカ)》(273mm×220mm)が飾られ、なおかつ後述の作品に《家(レプリカ)》が登場する。作家は絵画と展示空間、空想と現実との入れ籠の状態を企図しているのである。
《ナイフを持つ少年》(1620mm×1303mm)には、炎を上げる薪が食み出した暖炉の前でナイフを手に佇む少年が描かれる。彼の左膝には絆創膏が見える。左手に持つ鞘から抜かれたナイフを右手で腹の前辺りに持つ。前方を見据えるものの、ナイフは横向きに自傷行為に及ぶとも取れる位置に構える。少年の隣で黒猫が行儀良く坐る。少年と猫との背後の壁には円鏡が掛かり、少年の前にある扉を映す。鏡の下にはテーブルがあり、開封された封筒が載る。暖炉の上には《家(レプリカ)》が架かる。少年の背後の通路は暗闇である。自立を促す通知が届いたものの何をすべきか分からず少年は戸惑うのかもしれない。その少年の心もまた容易には窺い知ることができない。
《トリックスターの肖像》(1620mm×1303mm)は、円形の襞襟の着いた絹の白いシャツに金色のベスト、白いパンツ、白いタイツに金色の靴という出立の少年が、青い座面の金色の椅子に腰掛ける姿を表した作品。少年の頭髪は白髪で赤、黄、青が差す。左目の下には水滴の化粧が施され、道化師の扮装に見せる。脇にあるテーブルの上には鴉が留まり、嘴にキャンディーのいちごみるくを咥える。深紅のビロードのカーテンが半ば掛かった壁面には、レオナルド・ダヴィンチ《アンギアーリの戦い》の模写が架かる(展示作品に《願いごとのあと(レオナルド・ダヴィンチ《アンギアーリの戦い》に基づく》(1303mm×1620mm)があるが、同作はモノクロームである)。争闘の絵画とキャンディーとに挟まれた少年は、トリックスターとしての両義性を象徴する。
《星の少女》(1620mm×1303mm)には、白い絹のドレスを身につけた少女がピンク色に輝く星を戴いたステッキを手に中空に浮遊する様が描かれる。暗闇を背景に、少女の衣装と肌の白さと、胸の赤いハートが眩しい。左右の三つ編みやスカートの裾の拡がりと、また左足よりもやや高い位置にある右脚とが、少女が着地しようとする瞬間であることを示す。間もなく彼女は幻想から現実へと足を踏み入れるのだ。
《きみを知らない》(1620mm×1303mm)は、王冠を被った少年の坐像。赤いビロードの座面を持つ金色の椅子に、王冠を被り、白い円形の襞襟の着いたタイトな黒い衣装の上に毛皮のローブを纏った少年が坐る。左の肘掛けにはミルキーを抱えた鴉が留まる。椅子の手前の絨毯の上を剣士が3つの棺桶を背後に従えた人形が並ぶ。椅子の傍らの卓には花を活けた花瓶にドラゴンボールの漫画本が立て掛けてある。背後は赤いカーテンに閉ざされる。《トリックスターの肖像》にも登場したキャンディを咥えた鴉は、鳴くことができない。作家エドガー・アラン・ポー[Edgar Allan Poe]の詩「大鴉[The Raven]」を踏まえれば、鴉が(恋人を失った同作の)主人公に対し「もう二度と[Nevermore]」と叫ぶことはないことになる。それもそのはず本作の主人公は未だ「きみを知らない」からである。少年の眼差しは未だ知らない「きみ」に向かって見開かれるのである。それは、例えば、長椅子に横たわって王子の夢を見る人魚である。《きみを知らない》の向かいの壁面には、長椅子に寝そべる人魚――《もういいかい》のバンビの下半身を持つ少女同様、異形の少女――を描いた《ソファの上の人魚》(970mm×1445mm))が飾られている。
《ghost》(1940mm×1620mm)は暗闇の中に佇む少年を描いた作品。屋内の闇を強調しているとはいえ衣装や調度などの鮮やかな油彩画が並ぶ会場で、クレパスとオイルパステルによるモノクロームの画面は霊をまさに浮かび上がらせる。闇の中に佇む幽霊[ghost]の少年。それは、少年の孤独を表現する。
孤独とは自己欺瞞のことである。
おそらくそう述べたほうがいい。あるいは自己とはこの自己欺瞞のことであり、そういう自己というものの在り方がつまり孤独なのだといったほうがいい。あるいは、自己欺瞞ではなく自己認識というもう少し穏当な言葉を使うべきかもしれない。孤独とはこの自己認識にともなう感情の一揃いなのだ、と。
だが、いずれにせよ、思索の起点が私という自己欺瞞に置かれていることに違いはない。人は、その自己がほんとうは他者によってもたらされたものであるにもかかわらず、それ以前がまるで空無であったかのような自己から出発しているかのように、自己自身に対して装うのである。そして深い孤独を感じる。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.487-488)
自らを俯瞰する眼差しを少年は手に入れる。自己認識の芽生えである。俯瞰とは、自らを死者の領域から眼差すことに他ならない。故に私とはおよそ幽霊なのだ。
言語革命が人間にもたらした最大のものは、死の領域、死者たちの広大な領域である。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.479)