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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『柚木沙弥郎 永遠のいま』

展覧会『柚木沙弥郎 永遠のいま』を鑑賞しての備忘録
東京オペラシティ アートギャラリーにて、2025年10月24日~12月21日。

染色を中心に版画、絵本、空間デザインまで手掛けた柚木沙弥郎(1922-2024)の回顧展。「民藝はずっと僕の根っこにある」、「ワクワクしなくちゃ、つまらない」、「今日も明日は昨日になる」のおおよそ年代順の3章に、岡山、長野、静岡、岩手、島根及び海外でのエピソードを紹介する「旅の歓び」を加えた4章で構成。

【第1章:民藝はずっと僕の根っこにある】
父で洋画家の柚木久太はパリ留学から帰朝後、「文士村」と呼ばれた田端に居を構え、芥川龍之介室生犀星、小杉放庵らと交流した。柚木沙弥郎はその地で生を受けた。松本高等学校(第3章の「長野:柚木沙弥郎の青春」に詳細)を経て東京帝大で美術を学び、学徒動員される。復員後は父の郷里・倉敷で大原美術館に勤務。館長の武内潔真の薫陶を受け、柳宗悦の民藝に傾倒(柚木沙弥郎旧蔵の『工藝の道』[006]には柳宗悦のサイン)。型染カレンダー[003]の「数字と模様が絡み合うなんともいえない美しさ」に衝撃を受け、芹沢銈介に師事。静岡で修行を積み、染織家となる(第3章の「静岡:柚木沙弥郎と静岡、そして芹沢銈介の青春」に詳細)。型染めの一種で手拭いなどの染めに用いられていた「注染技法」を幅の広い布に応用した「広幅注染」を開発する。
《注染たすき文布》[017]《注染幾何文布》[012]・《注染布「大気」》[018]、《注染柳葉文布》[034]・《注染幾何文布》[047]・《注染縞文布》[035]・《注染三色うねうね文布》[041]・《注染布》[048]など初期作品かどうかに拘わらず、デザインにより組み合わせた生地が吊り下げられる。軽やかで華やかながら落ち着いた世界が拡がる。「染料が浸透し、布と一体になる」染物の魅力が堪能できるが、その一体化のために大変な手間と労力が必要なことが、柚木沙弥郎がかつて指導した女子美術大学での「広幅注染」の紹介映像で分かる。

【第2章:ワクワクしなくちゃ、つまらない】
家庭で洋裁する人が減少し洋服生地としての広幅布の需要は減少する。日々の生活の中で興味を抱いたモティーフを元にデザインし、アートワークとしての染物を手掛けていく。既に1960年の個展に出展した《幕》[019]において、住空間における染物の可能性を探っている。「これ以上同じ仕事を続けることは、自分自身の模倣となり、作るものは抜け殻にすぎない」との思いにより様々なジャンルの仕事に駆り立てられる。1983年にリトグラフ工房「アトリエMMG」の益田祐作と出会い、2014年まで断続的に400点もの版画を手掛ける。1994年には初めての絵本『魔法のことば』を出版する。
《信号Ⅱ》[063]、《田園》[061]、《型染布「春を待つ」》[059]など作品としての染織に続き、絵本『トコとグーグーとキキ』の原画[095]や登場キャラクターの立体作品《トコ》[096]と《グーグー》[097]と《キキ》[098]など、絵本との関わりが紹介される。続いて、「アトリエMMG」で制作された作品が紹介される。最初期作品の《交わる流れ》[073]は緑と青とその重なりを表す、染織でも見られるモティーフが選ばれているが、ゴーフラージュのマスク[081]など多彩な作品を手掛けている。1996年にはギャラリーMMGで初個展、1998年と2003年にはパリで開催された国際版画展に出品した。奇しくも本展会期中に早稲田大学會津八一記念博物館で『リトグラフで辿るアトリエMMGの33年』が開催されている(2025年10月10日~12月16日)。

【第3章:旅の歓び】
「岡山:柚木沙弥郎と大原家」では、倉敷紡績・倉敷絹織など大原財閥の大原孫三郎・大原總一郎が、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)や大原美術館を設立するなど幅広く社会事業を手掛けた他、民藝の支援者でもあったことが紹介される。大原總一郎は民藝の理解には流通が肝要と岡山県民藝侵攻株式会社を設立した。柚木沙弥郎は大原美術館ロゴマーク[153]、『倉敷レイヨン月報』や『高梁川』の表紙やカット[154-162]、さらに倉敷中央病院の小児科外来を飾るコミッションワーク《サーカス》(下絵[167])を手掛けた。
「岩手:柚木沙弥郎と光原社」では、盛岡高等農林学校で宮澤賢治の1年後輩であった及川四郎が設立し『注文の多い料理店』を刊行した光原社は、柳宗悦との知遇を得て以来、民藝作家たちのサロンの役割を果たしていたことが紹介される。柚木沙弥郎は1969年に『注文の多い料理店』の絵葉書制作を依頼され、1975年からは展覧会を開催してきた。2006年には新マヂエル館に柚木沙弥郎の型染絵が常設展示されている。
「島根:柚木沙弥郎と舩木研兒 2人の交友」では、柚木沙弥郎が「家の中画何となく愉快で豊かな感じがする」と最初に購入した器が舩木道忠の《黄釉角鉢》[172]であったことから舩木窯との付き合いが始まり、道忠の子でスリップウェアで知られる舩木研兒とも親しくなったことが紹介される。研兒の妻・新沼玲子は女子美工芸科卒で沙弥郎の教え子だった。
染織の修行の地である静岡、青春の舞台である松本、父・久太の留学や師・芹沢銈介の欧州旅行から触発されて度々行った海外旅行についても紹介される。

【第4章:今日も明日は昨日になる】
1950年代から商業デザインを手掛けていたが、2014年にインテリアショップのイデーで自作の布を展示したことことをきっかけに、カフェやホテルのアートワークなど生活を豊かにする室内装飾に取り込む。
染織は、いのちの源である衣食住をテーマとした《まゆ玉 黒》[201]、《とうもろこしの旗じるし》[205]、《工事場》[203]や、抽象度の高いアルファベット《型染布 2018》[215]、エクスクラメーションマーク《びっくりマーク》[195]、円の羅列《点線》[187]・《半玉》[188]などのデザインが採用される。
自宅近くの代々木公園で目にした樹齢250年のサイカチの木をモティーフとした《いのちの樹》[214]や《木もれ陽》[217]が力強く印象深い。亡くなる2ヶ月前に手掛けたコラージュ7点[251]が掉尾を飾る。

「染料が浸透し、布と一体になる」染織と、生きることの基盤である衣食住とを旗印に掲げ続けた柚木沙弥郎の作品は、泥臭さがありながら洒脱、ユーモアとともにどこか悲愴感を湛える。その影響源は、滞欧経験のある洋画家の父、学業を中断させた戦争、柳宗悦・芹沢銈介らの民藝にある。宮澤賢治に共鳴するのも尤もだと納得させられる。
飄飄とした人物を表した染物《人型》[068]や絵画《白い帽子の男》[238]、呪術性を感じさせるマスク《神性》[082]、植物に生と死を見詰める染物《とうもろこし かぜ》[197]、《誇り高きひまわり》[224]・《去りゆくひまわり》[225]、《いのちの樹》[214]などが取り分け印象に残った。抽象的なデザインの染物が生み出す自然な環境に馴染んでしまう結果、具象的な作品が浮上したのかもしれない。