展覧会『立ち止まり振り返る、そして前を向く vol.3 百瀬文「ガイアの逃亡」』を鑑賞しての備忘録
gallery αMにて、2025年10月4日~11月29日。
鑑賞者が社会に対する問いを作品から触発される「美術のための場所」を起ち上げることを目論む大槻晃実キュレーションによる展覧会シリーズ「立ち止まり振り返る、そして前を向く」。百瀬文をフィーチャーする第3回展は、南フランスで行った女性の身体をテーマとするワークショップの記録に、再生する豊饒な大地に擬えられた女性とは実は収奪され声を上げられなくなった女性の隠喩でもあると問う映像を組み合わせた30分間のヴィデオインスタレーション《ガイアの逃亡》が展示される。
冒頭では、ヘシオドス[Ἡσίοδος]の『神統記[θεογονία]』における地母神ガイア[Γαῖα]に関する記述が引用される。ワークショップに参加した3名の女性カリン、マリーヌ、リモの議論の中で、女性を豊饒な大地に擬えるのは本質主義的なステレオタイプであり、むしろ女性は搾取の結果、声を上げられなくなるに至るまで疲弊してしまったのではないかと指摘される。
自らの身体を所有・支配していると言えるかという問いが投げ掛けられると、身体の素晴らしさを十全に理解することなどできないし、大切に扱えているか自信がないと吐露される。
「わたしの身体」を人はどのように生きているか、経験しているかを考えるときに、わたしの向こうにある物体の経験の様式とは大きく異なる特徴がいくつか指摘できる。
いちばんに挙げたいのは、身体として適切にはたらいているときには身体はむしろそれとして現われてこないということである。わたしの意識は向こうにある対象にじかに向かっており、身体はいわば素通りされる透明な存在としてある。(略)一方、身体の存在がことさらにそれとして意識されるのは、逆にそれが適切に機能していないとき、たとえば疲労や病態にあるときである。(略)要するに、身体がすぐれて身体であるときには、身体はそれとして現象しないということなのである。身体が主体の器官でありながら、同時に、わたしの外なる事物とおなじく探索の対象でもあるというのは、そういうことである。
くわえてその探索は、一般の事物の場合ほどには首尾よくいかない。(略)鏡に対象として映すことはできなくても、顔が顔として他者に向けられているときのその解は絶対に見ることができない。つまり、身体は十全たるかたちではわたしの知覚の対象とはなりえていないのである。とすれば、「わたしの身体」というのは第一義的には知覚対象の経験ではなくて、むしろ〈像〉として経験されるもの、すなわち想像の対象であるいうことになる。しかもその〈像〉は、身体の実態に完全に重なりあうものではなく、いつもどこかずれがあり、だからこそ折りにふれて修正していかないといけないもの、毀れやすいものである。(略)
(略)
以上のように、「わたしの身体」の〈両義性〉は、たんに、わたしという主体の器官であるとともに、(たとえば医療機関で診察を受けるときのように)他の物と異なるところのない純然たる物質体であるという二義性にとどまらず、さまざまな特異な現象の仕方をする。そして、所有論という文脈からしてここでもっとも重要なことは、わたしの身体が「プロパティ(わたしのもの)」であるにしてもだからといってけっしてわたしが「意のままにできる」ものではないということである。(鷲田清一『所有論』講談社/2024/p.119-121)
続いて宮地尚子の『環状島=トラウマの地政学』の一節(フランス語に翻訳されたテキスト)が朗読され、トラウマとなる出来事と人々との関わり及び人々の声の大きさを捉えるための環状島に擬える手法が紹介される。
(略)トラウマのまっただ中にいる者は声を出せないし、生き延びることのできなかった死者が証言することはできない。アレントはすでに「忘却の穴」という言葉を提出しているし(ハナ・アーレント/大久保和郎・大島かおり訳『全体主義の起原3 全体主義』みすず書房、1981)、スピヴァックは「サバルタンは語れるか?」という問いを反語的に放った(G.C.スピヴァク/上村忠男訳『サバルタンは語ることがdきるか』みすず書房、1998)。「忘却の穴」は確実にあるし、サバルタンは、少なくとも「あなた」の理解できる言語では語れない。
けれどもそのことを必ずしも否定的に捉える必要はない。そこに穴があるということ、近寄れないもの、理解できないものがあるということを知っておくことには、はかりしれない価値がある。見えないもの、聞えないものがあることに気づけば、そこから逆にたくさんのことが見え、聞えてくる。トラウマをより深く肌で感じ、受け止める手がかりがつかめる。(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』みすず書房/2018/p,9)
トラウマの環状島モデルでは、内海の中心から外界への隔たりによりトラウマとの関係の程度が、水底から尾根という高さにより発言力の大きさが、それぞれ表される。ワークショップ参加者の3人は、環状島のジオラマを目にし、あるいは女性の身体(裸体)に触れながら思いを巡らせ、環状島の内海を隔てた対岸への架橋、あるいは内海・外海の波による影響・変化について語る。ワークショップの話し合いの場面には、2つの映像が組み込まれる。1つは、白い旗を掲げて水辺を歩く女性のイメージである。もう1つは、横たわる女性から島≒ガイアのイメージを生成し、呼吸するばかりで身動きできない島≒ガイアが這い出し、遂には立ち上がる様である。
環状島モデルは多様なトラウマの問題を考察する際の見取り図を提示する。《ガイアの逃亡》では、大地のメタファーに用いられる女性の身体をモティーフとして、性暴力と地球環境問題とを結び合わせている。作家は「常に自分自身が、女性でありながら征服者としての人間でもあることの二重性に引き裂かれる」と表白している。
ワークショップに参加するのは女性たちであり、組み合わされるのも女性の身体のイメージである。男性は登場しない。それでは、男性はどこにいるのか。
(略)環状島は被ったトラウマについて発話する者たちの島なのだから、原理的いにって加害者はそこにはいないはずである。(略)
加害者はどこにいるのか。答えを先に述べるならば、加害者は〈内海〉の中心部である〈ゼロ地点〉の真上にかつていたし、今もそこにいる。「幻影」としてだが、臨在感をもってそこに君臨している。〈ゼロ地点〉とは爆心地であり、その真上というのは、いうまでもなくエノラ・ゲイが広島に原爆を落とした位置にあたる。また〈ゼロ地点〉の真上は、真夏の太陽の位置とも考えうる。地上に影がほとんどできず、どこにいても焼け付く日差しから逃れがたい配置。そして〈内海〉の中心部の、ブラックホールのように深い海底にまでも透徹できる瞬間的な光の位置でもある。(宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』みすず書房/2018/p153)
作品の中の女性たちからすれば、男性は「「幻影」としてだが、臨在感をもってそこに君臨している」。すなわち、男性は、スクリーンの外部にいて、女性たちを眼差す特権的な地位にいる。作中の女性の裸体は、男性がそのような立場にあることを気付かせ、環状島に接岸するのか、通り過ぎるのか、あるいは再び爆心地上空に向かうのかを問う踏絵として存在する。