展覧会『中島伽耶子個展「bathroom songs」』を鑑賞しての備忘録
CREATIVE HUB UENO "es"にて、2025年11月4日~12月7日。
規則的に穿たれた穴から光が漏れる植物柄の黄色い壁を倒れかかるように設置した、中島伽耶子の個展。
それでも彼は壁から目をそらすことができないのでした。かえってその暗さに魅せられて、もっと奥深く見詰めようとするのでした。旅人が、行けば行くほど地平線に魅せられるように。そしてその旅人の眼に地平線がたえず入りこみ、ついには眼の中に地平線が芽生えるように、いつか壁は彼の中に吸収されはじめているのでした。(安部公房『壁』新潮社〔新潮文庫〕/1969/p.137)
植物と鳥の姿との線描がプリントされた黄色い壁紙には縦に20個、横に25個の穴が規則的に並び、壁の向こうの光を透過させる。壁は鑑賞者の側に15度から20度ほど倒れかかるように設置されている。穴を覗く欲望に駆られるが、壁に近付き穴に目を近づけても、壁の向こうには何もない。
見渡すかぎりの曠野です。
その中で僕は静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。(安部公房『壁』新潮社〔新潮文庫〕/1969/p.163)
壁に貼り付いて壁の向こう側を見遣る鑑賞者は壁と一体化する。壁の先に拡がるのは曠野であり虚無である。何も無いタブラ・ラサ[tabula rasa]である。これは自らの存在の根拠の無さを露わにするための装置ではないか。
だがそれにしても、視覚革命から言語革命へと加速度的に上り詰めてゆく人類がこの段階で発明した最大のものは、それ以前の生命にはまったく思いもよらなかったものだった。
それは死である。
言語革命がもたらした最大のものは、死の領域、死者たちの広大な領域である。このいわば正の領域に対する負の領域は、とりあえずは、俯瞰する眼の必然として、あたかもその俯瞰する眼を補完するかのように姿を現わしたといっていい。(略)
視野の向う、すなわち地平線の、水平線の向うには何があるか、という問いは、俯瞰する眼にとってはきわめて自然だったろう。(略)
人が現世と来世、この世とあの世を考えるのは、俯瞰する眼にとっても、視覚が必要とする距離の内実の思考にとっても、不可避だったろう。世界のさまざまな事物に騙されないようにする――場合によっては逆に世界を欺く――ために施された刺青をはじめとするさまざまな人体加工、あるいは道具類に刻みこまれる記号の体系は、人が誰であるかを記憶させるに十分なだけではない。死後も長く記憶されることを促しただろう。(略)
(略)
人間の表現行為はすべて、基本的に死にかかわっている。
あの世の視点に立ってこの世を生きることになったからである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.479-481)
その壁は手前に傾いている。倒れつつある。壁の向こうの曠野すなわち死者の領域と壁の手前の都市すなわち生者の領域とが顛倒しようとする。それは「世界」の〈外〉を召喚するためではないか。
地図的認識を小説世界に導入する意味は何か。おそらく「都市の記号学」が要請されるのと動機は似ている。近代小説の安定した空間生を支えた超越論的自我が機能不全に陥らされる対象が都市という新しい砂漠である。(略)70年代以降の幾つかの小説は、「都市の記号学」的な道に準じるのではなく、「都市」を自由に生き抜くためのイマジナリーな地図制作という抵抗を試みたのだ。(略)
しかしながら、〔引用者補記:安部公房の〕『燃えつきた地図』はその段階に足を踏み入れていない。古い地図が機能不全になるところまでしか描かない。だが先に述べたように、代わりに「世界」が潰えた果の姿、外部が内部を浸食してくる様をテクスト内に露骨に描写する。私たちは今生きている現実の「世界」の外側に立つことは無論不可能であるが、シミュレーテッド・リアリティともいえる小説の人物にとっても基本的には同じである(登場人物が真に世界の「外部」に出るには、読者と同じ次元に立たなければならない)。だがテクスト内世界であれば〈外〉をイリュージョンとして寓意的に描くことは可能である。「世界」の〈外〉を何としても描き込んで、「世界」を裏返す抵抗の契機を確保せずにいられないのが安部である。(略)この小説は都市から脱出しようともがく男の話ではない。「都市」という無の展開に男が開示されていく話である。村上春樹などのポストヒューマンな現代文学にはどこか現状に対する諦念感があるのに対して、安部の「反世界」(=アンチ・ヒューマン(反人間))文学に抵抗の可能性を探ることができるのはそのためだ。(略)
このことは安部文学の主人公が常に他人を「疑っている」ことにも表われている。(略)この発言〔引用者註:ダシール・ハメットが主人公を動かすのに外部の偶然性を用いているとの指摘〕は、初期作品では人間が「壁」などに変形する様が描かれるが、途中からその種の非リアリズムはなくなり、むしろ環境の方が姿を変形するようになる作風の変化を説明している。つまり、「世界」を「内的偶発性」から「外部の偶発性」によって揺さぶるスタイルに変更された。(略)気がつけば「ぼく」は「反世界」のただ中に立っているのだ。(坂口周「『世界』の〈外〉を描く作家」『現代思想』第52巻第15号/2024/p.136-138)
壁が倒れるとは、人間が裏返ることに等しい。
安部の考える「都市への解放」とは、このように既成の「人間」であることの放棄によって「反人間」へと裏返る(転位する)ことを意味している。そのアイロニカルな構造は安部にとって絶望ではない。いずれ世界を変えうるのはこの「反人間」である。〈内部〉のみの循環的な肯定の言説で成立しているケースの多い現代型(ポストヒューマン)の「世界」がスタンダードとなり、否定の契機を失いつつある時代に、逃走/闘争領域を確保することに拘った文学は逆に新しい。(坂口周「『世界』の〈外〉を描く作家」『現代思想』第52巻第15号/2024/p.139)
神が死亡宣告されて久しい。光を見せるのは、宗教ではなく、芸術家の仕事である。
視覚革命に淵源する言語革命を体現することによって、人間は、騙し騙される次元、思い込み思いこまされる次元を対象化し、概念による抽象的な演算を用いて具体的な世界へと働きかけることになった。視覚によって生じた距離の最大利用である。絵はその最大利用の外在化、対象化にほかならない。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.533-534)