透明ないし半透明のビニールを被せ木材や石膏による構造を露わにした彫刻、自ら衣装を身につけて被写体となり撮影したイメージをもとにAIで生成した巨大な女性のCG、小説『不死』の表紙に用いたレリーフや挿絵のドローイングなどを併せて展観する、西尾康之の個展。
《アルファ・オメガ》(2750mm×920mm×400mm)は、硬質石膏による陰刻鋳造により斜め格子や蓮華文などを施したボンデージ風衣装を身につけ、両脚をやや開き、右腕を体から離し、左腕を曲げて直立する女性像。全身を隈なく立体的な文様が覆う姿は縄文文化を下敷きにすると言う。硬質石膏のベージュは縄文土器の色味に通じよう。臀部など肉感的な下半身には土偶のような地母神的イメージが重ねられているのだろうか。台座を含めれば3メートルもの高さで鑑賞者を圧倒する。画題は映画『続・猿の惑星[Beneath the Planet of the Apes]』(1970)に登場するコバルト爆弾記載の文字に因む。《アルファ・オメガ》はスーパーヒロインである。
スーパーヒロインとして知られるワンダーウーマン[Wonder Woman]は、1940年代にウィリアム・モールトン・マーストン[William Moulton Marston]により誕生した。1970年代の第二波フェミニズムのアイコンとなり女性の平等な権利のために戦ったキャラクターだが、それだけではない。
女性の力強さは、ワンダーウーマンのテーマの1つだった。もう1つのテーマは女性の緊縛だった((略))。ワンダーウーマンの登場するすべてのコミックブックの、ほとんどすべての頁に緊縛場面があった。どのエピソードでも、ワンダーウーマンは鎖に繋がれ、縛られ、猿ぐつわをはめられ、投げ縄で捕まえられ、括られ、手枷足枷をかけられた。電流の流れる折に閉じ込められ、頭から爪先まで拘束服に締め付けられ、目と口をテープで塞がれた。ロープで縛られてガラスの箱に入れられ、海に放り込まれたこともあった。銀行の金庫に閉じ込められ、鉄道線路に縛りつけられ、壁に磔にされたこともあった。ある時などは、がんじがらめに縛られながら移動させられた。足枷をかけられてローラースケートに繋がれたのだ。「偉大なアフロディテの腰帯よ! 私は縛られるのにくたびれてしまいました」と、ワンダーウーマンは叫ぶ。
そして、ワンダーウーマン1人だけではなく、『ワンダーウーマン』のコミックブックに登場するすべての女性が縛られた。(略)
(略)
サディズムの非難に対しては、「コミックストリップで、美しいヒロインや、フラッシュ・ゴードンのようなヒーローが縛られたり鎖をかけられたりするのは、決してサディズムではありません。なぜなら、これらのキャラクターは、苦痛も感じず、困惑すらしないのですから」と、マーストンは述べた。ワンダーウーマンは、服従の喜びを教えることで、権威を愛させようとしているのだとも主張した。「わが親愛なる友よ、これこそが私のワンダーウーマンが、若者の道徳教育に対してなした真に偉大な貢献の1つなのです。縛られることを楽しみ、情け深く賢い権威に服従することを楽しめるように、活発で、何ものにも縛られない力をもつ人々に教えることに、平和への唯一の希望はあります。たんにそうした服従に耐え忍ぶだけではなく、それを楽しむことが肝要なのです。人類が緊縛を楽しめるようになって初めて、戦争は終わるでしょう(ジル・ルポール〔鷲谷花〕『ワンダーウーマンの秘密の歴史』青土社/2019/p.325-332)
ワーンダーウーマンと《アルファ・オメガ》とはボンデージのスーパーヒロインという点で共通する。
(略)19世紀末ヴィクトリア朝時代の地下世界でくりひろがられていたコルセットや鎖、革具といった女体拘束具によるSEXプレイや1920年代以降のハリウッド映画のコスチューム、さらにSFコミックや扇情的なパーパーバックのカバー画といったアメリカのポピュラー・カルチュアのイメージなどが20世紀後半に合流し、表現として独自のスタイルを完成したのが50年代のSMFアートと呼ばれるフェティッシュな輝きに充ちたコミックや写真、イラストレーションである。黒いハイヒール・ブーツに黒いストッキング、革製コルセット、黒革の長手袋にアイマスクといった、絵に描いたようなSMスタイルができあがるのはこの時代であり、原型はヴィクトリアン・ピリオドのランジェリー・ファッションだった。
(略)そしてこのSMFアートは単にアンダーグラウンドの世界へとどまることなく、60年代以降、一般のファッション世界においても盛んにそのスタイルを引用され、やがてアンディ・ウォーホルやアレン・ジョーンズといったポップアーティストやフランスのギド・クレパックスのコミックへ、さらにコマーシャル、映画、TV、ロック&パンク、パーフォーマンスといった諸々のジャンルのモティーフやコンセプトへ引き継がれてゆくことになる。ヘルムート・ニュートンはそのSMFアートの最も正統的な後継者といえるだろう。
(略)
ニュートンのコスチュームの使用は実に巧みである。吟味しつくされた、きわめて純度の高いSMFの要素がそこには仕込まれ、ブーツ、コルセット、ストッキング、ハイヒール、さらに革、ラバー、絹といったそれらをつくっているマタリアルにも匂いや肌ざわりが伝わってくるような異常なエネルギーがこもっている。衣装の持つ意味を深く理解し、衣装をつけるだけで決まったフィギュアやポーズに強制させられてしまうという物理的効果を見きわめていて、ニュートンがつくる肉体と装身具の織りなす直線と曲線の誇張されたフォルムは見る者の身体感覚を刺激し、行為にのめりこみやすくする。モデルの女たちの背景は例えば高層ビルの屋上や窓の向こうに摩天楼が拡がるペントハウスの片隅や色とりどろいの車がゆきかう街路を見降す日光浴テラスといったビルとビルの間のふきだまりであり、そうした背景に配置されたテレビ、化粧台、ルームライト、テーブル、レザーソファ、ベッドといった日常品が女たちを引き立てるというより、彼女たちを閉じ込め、縛り、苛めるために存在し、その拘束を女たちは感受しているのではないかということをニュ-トンはその写真で巧妙に浮かびあがらせているようにも見える。(伊藤俊治『裸体の森へ 感情のイコノグラフィー』筑摩書房〔ちくま文庫〕/1988/p.153-159)
ボンデージを身につけた巨大な女性が摩天楼に姿を現わすCG作品「ラミネート」シリーズは、衣装を身に付けた自らを被写体として撮影したイメージをCGにより加工した作品。摩天楼と並ぶ巨大化した女性は映画『シン・ウルトラマン』(2022)にも描かれるところである(テレビシリーズ『ウルトラマン』の「巨大フジ隊員」のオマージュ)。巨大な女性はやはり文字通り最終兵器であり、世界の終焉に導く可能性を秘める。その世界の終焉は、制作の過程における、作家=主体と作品=対象との一致により暗示される。
(略)オナニーをしながら好きな子=Xちゃんのことを想っていると、そのうち自分という"みっともない肉体を伴った男"の存在はイマジネーションの世界から消え、この世(宇宙)は"可愛いXちゃん"だけになります。つまり、気がつくと自分がXちゃんになっているのです。Xちゃんに感情移入しXちゃんに憑依したまま、男であるはずの自分は、女性であるXちゃんとしてオナニーしているのです。
(略)
(略)複雑骨折と腸捻転を起こしたナルシシズムとでも申しましょうか。そして僕はXちゃんであり、Xちゃんは僕であり、僕はXちゃんが好きで、Xちゃんも僕が好き――というパーフェクト・ワールドの極点において、喜びの白い泉は湧き上がります。(会田誠『性と芸術』幻冬舎〔幻冬舎文庫〕/2025/p.162-165)
「パーフェクト・ワールドの極点」とは無人島に比せられる。
他者が全く存在しなくなってしまったとき、この「私」は一体どうなってしまうのであろうか。他者は、この「私」を世界に引き留めてくれている最も重要な要素であり、最も重要なメカニズム(機構)をなしている他者が存在することではじめて、「私」は「世界」と適切な距離を保つことができる。もし他者がまったく存在しなくなってしまったとするならば、「私」と「世界」との距離が廃棄され、「私」と「世界」は1つに重なり合ってしまうだろう。「私」の身体はそっくりそのまま無人島の身体となる。主観と客観、精神と物質、内部と外部の区別が消滅してしまう。(略)
他者が存在しない無人島では、誰も夢と現実を区別することができない。夢と現実も1つに融け合う。換言するならば、夢と現実、リアルとフィクションの区別も失われてしまう。内部の精神と外部の物質がダイレクトにつながり合う。「私」は感覚的な夢を見ており、無人島は元素的な夢を見させている。夢を見ている「私」の感覚的な身体と、夢を見させている矛盾等の元素的な身体の区別もまた失われる。「私」の無意識と無人島の無意識は1つに重なり合い、感覚的なイメージと元素的なイメージを夢として創出し続けている。新たな夢の創出とは、新たな現実の創出のことでもある。想像力の変容は現実の変容でもある。「私」と無人島に、つまりは「私」と「世界」に共有されているのは、何かを想像し、何かを産出という力だけである。想像は創造に直結する。「私」も「世界」も存在しない。ただそこには何かを想像し、何かを産出する力だけが存在している。(安藤礼二『空海』講談社/2025/p.136-138)
皮膚という薄膜は、私と世界との境界であり、「何かを想像し、何かを産出する力」そのものを象徴しよう。
《バルトロマイ》(3500mm×1670mm×600mm)は、イエスの使徒バルトロマイ[Βαρθολομαίος]をモティーフとした作品である。「アルメニアでの説教を終えて帰国の途次、異教徒につかまり、その皮膚を剥がれたと伝えられる殉教者だが、そのことを示すために絵にはみずからの皮膚を手にしている姿で描かれることがある」(谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2001/p.154)。宙吊りの殉教者から皮膚を表す半透明のビニールが垂れ、木材などの内部構造を露出させる。
(略)だが、皮剝ぎそれ自体として神話的主体となるのは、なによりもマルシュアスの物語においてである。しかもそれはメドゥーサの物語と無縁ではない。妹メドゥーサの死を悼むその姉他立ちの悲嘆を模倣して、アテナは低い音程の笛を作ったが、しかしこの楽器を吹くと顔が醜く歪むので、それを呪って投げ捨ててしまった。この笛をたまたま拾ったプリュギアのサテュロスのひとりマルシュアスは、それを巧みに吹き鳴らすようになり、不遜にもアポロンに音楽の競技を挑むにいたった。勝者は敗者をどのように扱ってもよいとの約束で、ムーサを審判者に競技が行われたが、双方とも同じように見事な演奏を見せた。するとアポロンは、楽器をさかさまにして弾くことができるかとマルシュアスを挑発した。竪琴ではできても、笛ではできない相談である。そのために敗れたマルシュアスを、アポロンは松の木に縛って吊るし、全身の皮を剝いだ、という話である。
(略)
(略)このように皮剝ぎなる行為が総じて死を明喩シテの新生を象徴するものとみなされうるならば、マルシュアスのミュトス(神話)もそうした観点から位置付けることができるだろうか。楽器を逆さまにすることが、ここでも死をもたらすことにつながっていることはあきらかで、竪琴とは異なり、もともと逆さまに演奏することの不可能な笛の所有者たるマルシュアスは当然のように敗北する。彼は必ずしも「逆剥」されるわけではないけれども、彼の死は「逆さま」と「皮剝ぎ」との連合として、観念的な「逆剥」の結果にほかならないとみることもできる。
いずれにせよ、この物語が死を経由して新生の物語として解釈されうるならば、ここで死はどのような新生を招来するのだろうか。ウィントは、先の書物〔引用者註:『ルネサンスの異教秘儀』〕のなかで、「コンテストがマルシュアスの皮剝ぎに終ったとすれば、それは皮剝ぎそのものがディオニュソス的祭儀であり、人間の表の醜さを捨て去り、内なる美を表にする純化のための悲劇的試練であるからに他ならない」(田中・藤田・加藤訳)と書いている。ここには、外と内、醜と美という概念軸がある。外=醜を排して内=美を顕わにするための必然的なプロセスとして、皮剝ぎが養成されるというわけである。
しかし、いささか倫理的な自己浄化の物語として読むよりも、むしりこれを人間の芸術的想像のドラマのアレゴリーとして読むほうがおもしろいのではあるまいか。つまり。この皮剝ぎのミュトス(神話)は、みずからの皮膚を剥ぐ、自分の身を引き裂くこととしての新生=芸術創造の寓意として読めるだろうということである。(谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2001/p.144-152)
《バルトロマイ》では殉教者が自ら右腕でその右肩の皮膚を持ち上げて見せる。そこに「自分の身を引き裂くこととしての新生=芸術創造の寓意」が認められる。
ところで皮膚=薄膜は世界を切り分ける言語に比せられ、あるいは自己に対する執着をも象徴しよう。ヴェールを剝がすとき、全ては渾然として一体となる。
もうひとつはデュシャンの《大ガラス》との関連で言及される、ローマのボルゲーゼ美術館にある古代ローマの大理石彫像《眠れるヘルマフロディトス》をめぐる記述である。それは部屋の入口から眺めると横臥した女体らしき彫像なのだが、壁際に回って注意深く見ると、両性具有を示す男性器が認められる。このキッチュとも言える古代彫像では、《大ガラス》の「吐息さえ到達しない独身者と花嫁の引き裂かれた性別という一線が、簡明な接合法によって容易に越えられていた」と磯崎は言う。デュシャンの錬金術師めいた造型よりも、「単純明快な不可能性としての物体、いや肉体にひきつけられた」と――「それは他者ではあるが、欲望の等かさえ刻々と裏切られる。同時に両性であるが故に、デュシャンが「大ガラス」の中央に横一直線に引いた境界線も、〔デュシャンの遺作の〕あの最後ののぞき穴の前にある扉のような区切りもない。私が欲望をもって介入することが最初から拒絶されているのだ」。
注目すべきはこの彫像が「建築」と関連づけられてゆく点である――「建築はあのヘルマフロディードのように、視線、感触のすべてから常にのがれていくような、到達不能の状態につくりあげるべきではないか、と私は心身ともに疲労したあげくに考えはじめた」((略))。このヘルマフロディトスの両性具有的肉体からの連想で生まれたのが、「視ることからも触ることからものがれていくような建築形式」であり、「のっぺらぼうでとりつく島のない非建築的な」建築のイメージだったという。具体的な実作として磯崎の念頭にあったのは、建物の内外が均質なグリッドで覆われた福岡相互銀行長住支店と思われる。(田中純『磯崎新論』講談社/2024/p.434-435)
「ラミネート」シリーズにおいてCGという女性の皮膚の下に作家である男性の肉体を持つ言わば両性具有的肉体を創造し、《アルファ・オメガ》で格子=グリッドによりその彫刻を覆うのは、私と世界とが1つに重なり合う皮膚、すなわち「新たな現実」である「パーフェクト・ワールドの極点」到達を夢見るからであった。