可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 保井智貴個展『誰彼のふちとパラレルワールド』

展覧会『保井智貴「誰彼のふちとパラレルワールド」』を鑑賞しての備忘録
LOKO GALLERYにて、2025年11月21日~12月20日

存在をテーマにした立体作品や映像で構成される、保井智貴の個展。

私は長く、「ある人の空気感」とは何かを捉えようとしてきた。
それは、目に見える姿や言葉ではとらえきれない何かなのだろう。
その人の内に潜む記憶や経験、身体に刻まれた無意識的な反応が、空気や光、温度、距離、場所の気配と静かに響き合いながら、私やその周囲に微かな影響を及ぼす――そんな、確かさと曖昧さのあわいにあるもの。

この空気感は日々変化し、掴もうとするほどに輪郭や存在を失っていく。
それでも私は、「ある人」がいないとき、ふとした瞬間に「あの人らしさ」が立ち上がるのを感じる。

また、誰かが触れた物や残した痕跡にも、その気配が宿ることがある。
たとえそれが「ある人」と関わりのないものであったとしても、それは記憶の投影かもしれないし、あるいは、もうひとつの時間が立ち上がる瞬間なのかもしれない。

(保井智貴による本展ステートメントより)

《NE》(1740mm×550mm×320mm)(2025)は、直立する男性モデルを3Dスキャナーで読み取り3Dプリンターで出力した立体作品。モデルが着用した黒いカシミアのセーター、コットンのパンツ、黒い革靴が《彼と誰か―空気の記憶―》、《彼と誰か―身体の記憶―》、《彼と誰か―足元に―》として階上(2階)にブティックのディスプレイ帳で展示されている。尤も《NE》自体は白一色で着彩されている。曇り空の下、砂浜に寄せては返す波を捉えた映像《―I with someone》(2025)の流れるディスプレイを設置した壁面に背を向け、入口で来場者を出迎えるかのように立たせてある。その足元のコンクリート床には"Someone is here, but the person themself is not. Someone is not here, but their essence remains"と記されている。《NE》と同様の手法で女性モデルの立体作品が《CO》(1595mm×480mm×275mm)(2025)である。白いタートルネックのセーター、白いコットンのパンツ、白い革靴が、《彼女と誰か―空気の記憶―》、《彼女と誰か―身体の記憶―》、《彼女と誰か―足元に―》としてやはり階上に展示されている。《―I with someone》のディスプレイを頂点に《NE》と《CO》とが平面上でV字をなすように配置される。《CO》の近くの壁面上部には"Someone is here, but the person themself is not. Someone is not here, but their essence remains"と記されている。
《NE》や《CO》を裸体ではなく着衣で表現しつつ、別途衣装を展示しているのは、他者との交流が――無論、恋人や配偶者をはじめ裸体をイメージできる相手である場合もあろうがそれでも――原則として衣装に身を包んだ状態で行われることを反映している。そもそも服や靴を身に付けることなく日常生活を送ることはほぼ不可能であり、人の存在には衣装が組み込まれていると言っても過言ではない。裸体と着衣、すなわち皮膚と衣装との間で人は存在すると言える。《―I with someone》に映し出される寄せては返す波、すなわち海岸線は、人の輪郭のアナロジーなのだ。延いては地球の姿として想起される衛星画像もまた、刻々変化する砂、海水、大気、雲が地球のイメージで形作られている。ならば人物の境界もまた皮膚、着衣を越えて、その周囲にある空気まで含めて捉えることも可能であり、むしろそれが実態と言える。作家が摑み取ろうとするのは、そのような移ろいを含めた存在なのだ。

《私と庭、家と町、あなたと何か》(2000)は、双子の山を借景とする庭で除草作業する作家自らの姿を捉えた映像作品。草を刈り、木を剪定しても、草は生え、枝は伸びる。山と庭との間にあった農地には重機が入り整地され、住宅が新たに建てられる。庭もその借景となる風景も絶えず変化していく。家を人物に見立てれば、四半世紀前の作品が《NE》・《CO》と全く同じ主題を扱っていることが分かる。鳥は好き勝手に庭に入り込み歩き廻る。映画『エディントンへようこそ[Eddington]』(2025)に登場する浮浪者ロッジのように、境界を跨ぎ越す。
《彼の青―夜働く男―》(27mm×24mm×3mm)と《彼の青―会社を作った男―》(各24mm×30mm×1.6mmの2点組)は未加工のラピスラズリの小さな欠片で、壁に留めてある。青い石に抽象絵画を見て裸体にIKVを塗って「人体測定した」イヴ・クライン[Yves Klein]を想起することも、ヨハネス・フェルメール[Johannes Vermeer]の《真珠の耳飾りの少女[Het meisje met de parel]》などの絵画の見立てと解することもできよう。ならば20世紀の中葉のフランスへ、あるいは17世紀後編のオランダへの「ポータル(Portal)」となる。また、展覧会タイトルからすれば、1つの欠片と1組の欠片の2作品を並べたのは、パラレルワールドのメタファーと解される。尤も、移ろいや変化をテーマとする作品の中では、ブルーアワー[l'heure bleue]と捉えるべきであろう。夜から朝へ、あるいは昼から夜へ移行する狭間、境界の時間である。