展覧会『水田典寿・宮崎智晴「アンバランスな時間」』を鑑賞しての備忘録
水犀にて、2025年12月13日~25日。
流木や廃材を素材にした彫刻の水田典寿と、テンペラと油彩の混合技法による絵画の宮崎智晴の二人展。
水田典寿は流木で鳥など動物を造型する。鸚鵡の作品であれば、やや彎曲した木片割れた部分を尾羽に見立て、頭部を削り出し、嘴を象り、目を刻み込む。それを家具の脚を用いた止まり木に留まらせてある。ネズミを造型した作品では左の後ろ肢の先を敢て枝のまま残し、植物的な縁飾りの付いた古い箱の中に飾る。動かなくなり体が固まった鳥を表した作品は拾い上げた遺骸を紙の上に載せた態で提示される。自然の造型を動物を見立てた上で職人の仕事(人工物)とを組み合わせるのは、作家の自然との協働のメタファーでもある。また、流木やアンティーク家具の古色は廃墟に通じる魅惑を放つ。
(略)シェイクスピアを父祖の1人として自己形成したドイツ・ロマン派は、ハムレットの姿におのれの姿を重ねて見た。F.シュレーゲルは、ハムレット論で言う――「ハムレットの存在の深奥にあるものは恐るべき無であり、世界と自己に対する侮蔑である。これを理解した者は自殺したくなるだろう」。
要するに、ドイツ・ロマン派は、感傷主義者のように廃墟に詠嘆せず、自分たちの存在と作品が、それ自体として廃墟であり、断片であると哲学的・美学的に捉えかえすのである。シュレーゲルは言う――「古代人の多くの作品は断片になってしまった。近代字の多くの作品は成立と同時に断片である」。とはいえ、それで絶望してニヒリズムに陥るまでにはまだいたっていない。かれらは、あえてその断片から出発し、断片を生きようとする。断片こそがロマン派の本来的形式であり、思考の材質なのだと言って。だからかれは「フラグメント(断章)」という形式をあえて選びとり、夥しいフラグメントを書いた。が、それだけではない。1つの完成された作品であれ、そもそも作品とは「断片」という性格をもつのだと、いち早く看破したのもかれらだったのだ。
もちろん断片も作品である以上、それはそれである完成を見せなければならない。しかし「ハリネズミのように」他と切り離されていると、シュレーゲルは言う。それと同時にロマン派にとって断片、フラグメントは、無数の触棘をのばし、他と関係しあって、また新たな生命を獲得するものであった。
断片が新たな生命へと生い育つというテーゼを、よりヴィジュアルに提出したのがノヴァーリスだった。かれは断片は花粉であり、胚珠であって、本来、生い育つ芽をもつと言う。それを生い立たせ、花と咲かせることこそ芸術の仕事だと。それには、ひたすら断片を生きるしかない。ロマン派とは、よく言われるように、ただ見果てぬ青い花に消耗的に憧れていただけのものではなく、有限の断片を徹底的に味検した者たちであった。(今泉文子「『廃墟』とロマン主義 断片が生い育つ――ティーク、ノヴァーリスに見るロマン派の廃墟のモティーフ」谷川渥編『廃墟大全』中央公論新社〔中公文庫〕/2003/p.156-158)
流木やアンティーク家具といった断片を加工し組み合わせるのは、断片が胚胎する生命を芽吹かせるためであり、それこそ本来的な芸術の仕事と言えよう。鳥の頭部と3つの球体とで釣り合う天秤のような作品や、鳥の羽と大小の虫食い穴のある立方体3つを組み合わせた作品などで危ういバランスを造型するのは、今にも均衡が破れ動き出す感覚を生み出すことで、死せる断片から生命を生じさせる仕掛けなのである。
宮崎智晴の《リュウゼツラン》・《ウチワサボテン》・《二匹の犬》は、布地見本の布にそれぞれリュウゼツラン、ウチワサボテン、2頭の犬をテンペラと油絵具で描いた作品。アンティークを素材にしている点で水田典寿の作品に通じる。《二匹の犬》には「機会をできる限り早くつかめ。利益の時は短い」を意味するラテン語"Accipe quam primum. brevis est occasio lucri."が台紙に記され、ヨーロッパの古画を想起させる。実際、《沼地の梯子》には、上部を山型の屋根のようにしたアンティーク調の額縁に泥沼に膝下まで浸かった人物が梯子を登ろうとする姿をテンペラと油彩で表し、下部に「人は息する間、足掻き希望を持つ」を意味する"Dum Spiro Spero"と書き込まれており、古画が装われる。
宮崎智晴の《両耳が鳴る時》は旧約聖書『サムエル記』に描かれる預言者サムエルの少年時代を描く作品。谷に刻まれた丘陵地帯を背に右斜め前から捉えたサミュエルの胸像である。額や方の辺りに波打つ帯が表されているのが目を惹く。旧約聖書『創世記』のエピソード「イサクとリベカの結婚」をタイトルに冠した《The weddinf of Isac and Rebekah》でもイサクとリベカの頭部を表した横長の作品に波打つ帯の姿が印象的に登場する。連綿と続く文化に対する敬意が帯に象徴されているように思われてならない。岸辺、海、空を描く《静かな海》における点描も帯と趣旨を同じくするのではなかろうか。また、《荒野の桜》(530mm×652mm)には、ラトソルと思しい大地に花を咲かせた数本の桜樹の枝を支柱で支える作業に従事する騎馬の人物が描かれ、《内海眺望》の海を臨む緑の丘に立つ木々にはやはり枝を支える棒が見られる。木々が伝統を表し、それを支えていこうとする意図が隠されているようだ。