可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 増田麻由個展『知を愛するを知る』

展覧会『増田麻由「知を愛するを知る」』を鑑賞しての備忘録
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2025年12月13日~28日。

引き延ばされた脚や腕、脚や手を主要なモティーフとする楠材の彫刻で構成される、増田麻由の個展。人間像の探究が万物の根源への関心へと繋がり、哲学[philosophia]の語源である「知[sophia]を愛する[philein]」を展覧会タイトルに冠する。

《untitled》(430mm×200mm×200mm)は、床から突き出される左腕を表した楠の素木の彫刻。ホラー映画で墓場から死体が甦るようなイメージに擬えられる。(他の作品は全て2025年作であるのに対し、)この作品だけ2015年作であり、まさに10年の眠りから目覚めたのである。
《つなぐ、継がれる 001》(90mm×390mm×100mm)は、木片を台座にした、長く引き延ばされた右手の彫刻。ざらつく表面に木目が活きる。手首の部分で皮膚が裂け、中から青い球体がいくつか覗く。《つなぐ、継がれる 002》(70mm×810mm×120mm)は、背の高い黒い円形の卓に置かれた、長く引き延ばされ捻れた左腕の木彫。3ヵ所で皮膚が裂開し、割れたザクロの実のように、赤い球体が覗く。球体は電子ではなかろうか。「つなぐ、継がれる」のは電子が流れること、すなわち電流によると思われるのだ。
《雨雨》(330mm×160mm×50mm)は、下端が膨らんだ2本の紐が蝶結びのように結ばれ、細い尖端で絡み合う楠の彫刻。膨らんだ部分を足に、絡み合う先端を頭部として、身体に見える。足は青く塗られ、星形に刻まれた部分に黄色い絵具が差されている。雨滴が落下して撥ねる様であり、あるいは雨滴の輝きに見える。雨、雨と重ね、あるいは繰り返するタイトルは、降り続く雨であり、ループ状の結び目と相俟って、水の循環のメタファーである。
《水のおと》(440mm×330mm×220mm)は黒い円卓に波紋が拡がる水面を模した青く塗った歪な円形の台があり、その中央の銀色の球体に親指の先で立つ右脚を表した作品。銀色の球体は水滴であり、バレエのような爪先立ちする脚は、上端(の切断面)が「水滴」と同じ銀を覗かせ、まさに雨脚である。水滴とバレリーナとが撥ね=跳ねで結び付く。銀色の球は見た目からも半田と言える。《水のおと》と対となるのが、渦巻く雲から突き出す左手を模した《たぶん雲の上のもの》(310mm×140mm×115mm)である。指の周囲には水を表すと思われる球体がある。球体は同時に、太陽や惑星(地球だけ手の甲に貼り付いている?)の表現とも言えそうだ。

会場で最初に目に入る、展示中最大作品の《ITO―溢れないように―》(750mm×400nn×1600mm)は、両手両足からそれぞれ伸びる管が結び合わされた、吉祥文様である結び文様のような彫刻。両手は星のような刻みを入れた球体を受ける。《雨雨》から水の表現と知られる。すなわち溢れないように「水を結ぶ」のである。束ねられた「管」はループする。"∞"を目指しつつ、その形状には到達しえない。
この到達し得ない、という点こそ重要である。ところで展覧会タイトル「知を愛するを知る」には、「知→愛→知」の構造が見出されるが、この構造は、ラテン語の「知る[scio]」に由来する。近代科学[science]の構造に擬えられるものである。

 (略)資本主義的な(価値=商品の)生産様式と科学的な知の生産様式の間に、同じような形式、同じような衝動が共有されているに見えるのだ。資本は、それ自体、剰余価値の産物であり、そしてさらなる剰余価値を生み続ける。同様に、科学という知は、剰余知識の蓄積であり、さらなる剰余知識を生み出す刺激そのものでもある。このことは、ジャック・ラカンが1960年代の講義の中ですでに、次のような言い方で指摘している。
 私は、デカルト以前の知を、知の前蓄積的段階と呼ぼうと思います。
 デカルト以降、知は――科学の知は――、知のある特定の生産様式の上に構成されているのです。「社会的」と呼ばれている、実際のところは形而上的な、つまり資本主義と呼ばれている、われわれの構造の本質的な様態と同じ生産様式です。その様態とは資本蓄積のことです。これと同様に、デカルト的主体の(自らを確証する)その存在に対する関係は、知識蓄積の上に基礎づけられています。
 デカルト以降は、知とは、知のさらなる増殖に役立ちうるもののことです。そしてここには、真理についての問いとはまったく別の問いがあるのです。
 資本の定義は、「資本の増殖に役立つもの」である。同じように、科学的な知とは、知の増殖に役立つものすべてである。(略)ともあれ、まず確認しておきたいことは、資本主義における資本蓄積と近代科学における知識蓄積には、時代的にも、そして形式の上でも平行性があるということ、これである。(略)
 どうして、近代科学だけが、このような特異な性質をもっているのか。なぜ、他の知の体系には、同じような蓄積性がないのか。近代科学だけが、知の蓄積段階に入ったのはどうしてなのか。
 答えは、近代科学が、厳密には、真理の集合ではない、ということに関係している。他の知の体系は、自らは真理(の集合)であるという自己主張を随伴している。それらは、自らを「真理」として提示するものだ。科学は違う。科学という知の体系の中に収められている明大は、すべて「仮説」、つまり真理の、せいぜい候補にすぎない。科学的な知は、通説としての評価を得たとしても、またどんなに厳しい検証に耐えてきたとしても、原理的にはいつまでも仮説という地位を返上することはできない。「真理」そのものに昇格することはないのだ。したがって、皮肉な逆説が通用してることになる。というのは、今日グローバルなレベルで真理として認められている知は、科学の知だけだからだ。つまり、「真理候補(仮説)」に過ぎないという控え目な主張をしている知だけが、グローバルな標準として受け入れられ、自らこそは真理であると豪語してきた知は、すべて、ローカルな知の体系と見なされているのだ。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇 〈主体〉の誕生』講談社/2021/p.325-327)

商品(Ware)を生産し、貨幣(Geld)手に入れ、求める別の商品(Ware)を手に入れる「W→G→W'」の流通形態が、資本主義の下では自分の貨幣(Geld)によって商品(Ware)を手に入れ、より多くの貨幣(Geld)を手に入れる、貨幣の増殖「G→W→G'」へと転換した。この構造と近代科学の知の蓄積はパラレルである(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇 〈主体〉の誕生』講談社/2021/第13章・第14章、大澤真幸『資本主義の〈その先〉へ』筑摩書房/2023/p.54-55参照)。
翻って、本展の「知→愛→知」が示すのは、人間(=世界)に対する飽くなき探究である。

《ここにいる》(550mm×450mm×30mm)は両脚の彫刻。中途から穴が穿たれ、膝より上の辺りは珊瑚のような網状の構造を呈する。足は川の流れに浸されているのではないか。水(の流れ)を感知する、その存在こそ私という主体である。「私」が隙間だらけであるのは、環境、世界とのやり取りを通じて、常に変化していくためであろう。やや浮き上がった右の足先が、そのような変化を呼び込むのである。海綿状の「私」は無限に玉=水=知を吸収していくだろう。