展覧会『国川広』を鑑賞しての備忘録
小山登美夫ギャラリー六本木にて、2025年12月12日~2026年1月10日。
性別などの判然としない抽象化された裸体人物をモティーフとした絵画を中心とする、国川広(1992-2021)の回顧展。
本展のキー・ヴィジュアルに採用されている作品は、右膝に右手を突いて前屈みになった裸体人物を横から捉えた作品。くの字に折れた胴・脚(腰から腿)と真っ直ぐに伸ばされた右腕とで二等辺三角形を形作る。その右腕は、前に垂れた頭が身体を前に倒れるのを防ぐつっかえ棒である。上半身に比して膝から下が細く頼りない。黒、灰色、モスグリーンなどで不定形の区画に塗り分けられた薄暗い背景は、草木など自然環境を抽象的に表現したものであるようだ。とりわけ頭部の周囲には暗い雲ないし岩場による影となり、闇に沈む心理が表現される。同作の左隣には、後ろ手に組んだ裸体人物が右脚を前に出して立ち、左下(画面右下)を見詰める姿を、灰色と緑との抽象的な景観の中に描き出す作品が、また、右隣には、やや脚を開いて胸を反らして立つ裸体人物が真下を見る姿を木々を背景に描いた作品が、三幅対のように配される。いずれの人物も下を向き、膝から下の細さが印象的である。右側の作品の人物の右膝は膝と足との間で曲り、歪さが強調される。歪み、あるいは波打つ脚、または細くあるいは極端に短い脚といった表現が作家の作品には頻出する。脚の退化は、「見」から脚が失われて「目」だけと化す現代人を象徴するのではないか。
作家の裸体人物において印象的なのは、脚の表現とともに、髭を生やした人物に豊かな乳房が備わっているような、両性具有的なイメージである。男女という区別を失効させる姿勢は、時に屋内と屋外とを曖昧にし抽象化的に表現された背景により強調される。建物などの景観に溶け込んだ人物や、色彩や線の混淆する中に覗く顔などでは、その姿勢がより鮮明とされる。境界は無化されるのである。
時代の理念と合致するような人体がもてはやされるのだ。たちあらわれる裸体とはその時代の人々の自身でもあり、人々が見たいと思っているような構造を持った人体がスターとなる。そして〔引用者補記:1980年代のアメリカで活躍したシーメールのポルノスター〕スルカの倒錯はそれ以前の盗作と完全に異なっていることに目を向けねばならない。彼女を見ていると〝不在の輝き〟というしかない、意味づけの不可能なものが見る者に浴びせかけられる。あるいは人間の意味が急速に抹消させられてゆく現場に立ち会っているようないいようのないオーラを感じとってしまう。スルカは人間であることの身体意識の限界のヴィジョンを浮上させている。それは人間をイメージ化してしまって人間ではなくしてしまう方向であり、現代文化という人工イメージでおおわれた牢獄の底にたちあらわれてくる最深部の畸形的シンボルである。それは単なる物質にすぎない。「人間」という言葉ではここでは無意味になってしまい、精神的なものが入りこむ余地は皆無である。ものとものとの極端な倒錯関係のみがしばしばあらわれ、そのスレスレのところにかろうじてスルカは存在している。幻惑的な性関係の綾をさまよいながら、人間が他のいっさいの価値をそぎおとそれて性的なイメージに変容してしまった究極の姿がそこにはある。(伊藤俊治『裸体の森へ』筑摩書房〔ちくま文庫〕/1988/p.180-181)
作家の描く人物にも「人間の意味が急速に抹消させられてゆく現場に立ち会っているようないいようのないオーラを感じとってしまう」。尤も、スルカとは異なり、作家の描く裸体はむしろ性的に無臭である。アセクシュアルの時代のアイコンと言える。