展覧会『小出楢重 新しき油絵』(前期)を鑑賞しての備忘録
府中市美術館にて、2025年12月20日~2026年1月25日。後期は2026年1月27日~3月1日で開催予定。
小出楢重[1887-1931]の回顧展。「第1章:画家になるまで(1887-1916)」(企画展示室1)、「第2章:大阪での創作と欧州への旅(1917-1925)」(企画展示室1)、「第3章:多彩な活動 ガラス絵、日本画、挿絵、装幀、随筆」(企画展示室2)、「特集:信濃橋洋画研究所」(企画展示室2)、「第4章:芦屋での円熟期(1926-1931)」(企画展示室3)、「ハイライト:楢重の裸婦」(企画展示室3)で構成。前期・後期で大規模な展示替えが行われるが、「ハイライト」に展示される本展キーヴィジュアル《裸女結髪》[001]を始めとする裸婦7点[001-007]は前期・後期を通して展示される。
小出楢重は、1887年、大阪中心部の島之内にある薬屋に生まれた。花街、芝居小屋、見世物小屋といった環境により「下手もの」趣味に導かれた。
私などは上等のものも勿論好きだが、あらゆる下等なものに対してより多くの親しみを感じる事が出来る。それは1つには、私が純粋の大阪の町人に生れ、道頓堀に近く、何んとなく卑近なものにのみ包まれて育ったがために、高貴上等の何物も知らなかったという点もあると思われる。私の心に当時沁み込んだいろいろの教育資料は、悉くこの下手ものばかりだったといって差支えない。
学校で一体私は何事を教わったかを忘却したが、この下手なる教材の多くを私は一生涯、私の血の中を走っているような気がする。(小出楢重「下手もの漫談」初出不明/高柳有紀子・小林真結『小出楢重 新しき油絵』青幻舎/2025/p.90)
父の日本画の師である渡辺祥益の手解きを受けた楢重は洋画家を志す。1907年、木炭素描の準備不足から東京美術学校日本画科に入学。西洋画科に転科するまで白馬会原町洋画研究所に学んだ。
《自画像》(1913)[024]は浮世絵の前でパイプを咥える作家の胸像。作者の顔を花魁3人が取り囲む。島之内出身の作家を象徴する作品。のみならず、影に紫を用いる潮流に反発した硬骨漢の証でもある。
私が白馬会へ最初通い出した時分は何がな、風景でも、何によらず、物体の影というの影は光線の具合によって、紫色に見えるものだよ君、眼をほそめて、自然を観察して見給え、そら、紫でしょうがな、と私はしばしば注意された事であった。そうかなと思って私はつくづく眺めて見たが、遠方はなるほど多少紫っぽいが、人間の髪の毛や、近くの樹木の幹の影などは皆が、素直に紫に見る如く紫では決してなかった。私はこれでは画家としての眼を自分は備えていないのかと思ったりしてふさぎ込み、(略)全く私は情けなく思った事である。しかし私はその紫色が癪にも障ったので、見えもしない物の影を紫になど頼まれても描いてやるものかという気になってしまった。だから、その頃の古ぼけた私の習作を今出して見ると全く驚くべく真黒な色で塗られている。(小出楢重「虎」『みづゑ』296号所収/高柳有紀子・小林真結『小出楢重 新しき油絵』青幻舎/2025/p.38)
1914年に東京美術学校を卒業し実家に戻った楢重は文部省美術展覧会に応募するも落選が続く。1917年、天彩画塾に学ぶ和田重子と結婚、長男泰弘を設けた楢重は、北野恒富の旧居をアトリエとして用い、《Nの家族》(1919)[037]を制作。広津和郎や鍋井克之の勧めで文展ではなく二科展に出品、樗牛賞(新人賞)を獲得。画壇デヴューを果たした。楢重、31歳のこと。
《芸術家の家族》(1919)[035]は、果物を盛った皿と小さな水差を置いた卓を前に、煙草を咥え帽子を被る作家を右に、幼い息子を挟み妻を左に配した、家族3人の肖像画。右端の作家の肩の背後には時計が覗く。時計は、儚さを象徴する果物や煙草の煙とともにヴァニタスを構成する。息子と背後の柱とが画面の軸をなすのは、死への想起が生への執着であることが分かる。同様の構図の《Nの家族》(1919)[037]では、卓上の果物の皿の周囲にセザンヌの静物画を思わせる布が置かれ、水差はホルバインの画集の上にレモンとともに置かれる(因みに梶井基次郎「檸檬」は1925年の作)。背後の柱と時計は消え、中央に丸い額縁に入った絵画、左上などに赤い布が掛けられ、華やかな作品となっている。
《少女お梅の像》(1920)[038]は青い壁を背に座布団に正坐する和服の少女を左手前から描いた作品。画面右側には壺を置いた卓と赤いカーテンが、左側にはサボテンの鉢植えを載せた箪笥が配される。画面右上から左下への対角線は少女の顔の右側の輪郭線、右袖、座布団の角により、画面左上から右下への対角線はサボテン、箪笥の角、少女の影、卓によって強調され、2本の対角線の交点附近に少女の明るい顔が位置する。同じ空間を舞台にした《裸女立像》(1921)[042]では裸体女性を中央の縦軸とし、緑のカーテン、赤い布を掛けた椅子(?)などが支えるように配される。
1921年8月に神戸を出港し、パリ、ベルリン、カーニュを巡り、翌年4月に帰国。古典絵画もエコール・ド・パリの芸術にもそれほど感銘を受けなかったという。滞欧中はスケッチを含め書簡をまめに日本に送ったが制作は進まず(知られている油彩は8点)、絵画のモティーフとなるフランス人形、喇叭、黒い帽子などを入手した。《フランス人形》(1925)[064]、《喇叭のある静物》(1924)[065]、《ラッパを持てる少年》(1923)[066]、《帽子をかぶった自画像》(1924)[067]などに見える。
巴里という所は、絵の勉強でもしようと思うと、一向につまらない処だが、お金をどっさり持って、買物でもしたり、ぜい沢していれば、それこそ何年居ってもあきないかもしれん。(小出楢重滞欧書簡1921年12月16日付/高柳有紀子・小林真結『小出楢重 新しき油絵』青幻舎/2025/p.73)
1924年4月、楢重は、鍋井克之、国枝金三、黒田重太郎とともに信濃橋洋画研究所を開設。石膏デッサン、人体デッサン、油彩画制作へと進む本格的な実技カリキュラムを、二科会員推挙された新進画家から指導を受けることができると評判を呼んだ。とりわけ厳しい指導を行ったという楢重自身も大いに触発された。《雪の市街風景》(1925)[082]、国枝金三《都会風景》(1924)[083]、松井正《都会風景》(1924)[084]の3点は、同じ風景を主題としており、作家の個性を対照できる。
1926年2月、楢重は芦屋の洋館に引越し、翌年には友人の建築家笹川慎一設計によるアトリエを新設した。洋風の生活を送りながら病没する1931年まで充実した制作活動を展開した。
絶筆の《枯木のある風景》(1930)[186]は電線の走る空を背に伐採された樹木が転がる空き地を描いた作品。電線に腰掛ける黒いハットの人物のシルエットが印象的である。
ところで、小出について不思議なのは、いくつかの作品が、アンリ・マティスの諸作品にとてもよく似ていることである。たとえば《裸女結髪》はマティスの《髪結い》を、《横たわる裸女B》は《緑の飾り帯をしたオダリスク》を、また《横たわる裸身》は《後ろ向きに横たわる裸婦》を、それぞれ下敷きにしたものと考えられる。《裸女結髪》では、ポーズのみならず後ろ向きn女性の顔が正面の鏡に映っているところまで《髪結い》に一致するし、後の2作品では、マティスのオダリスク(トルコの後宮に住まう女性たち)の後ろにある大きな金属の壺(?)が、彫りのあるテーブルや布地の柄に巧みに化けている。しかし、今日あまり知られていないこの事実は、当時の画家なら誰でも気付いていたと考えるのが妥当だろう。というのも、1920年代、マティスは同時代の画家として高い人気を誇っており、日本で画集も複数発行され、その作品は美術界の人間にはよく知られていたからだ。(略)
たとえば小出の《裸女結髪》では、女性の身体に三角形を2つつなげた形を与え、咥えて背中、お尻、長い髪が作る直線を、ちょうど画面の縦の中心性に合わせる操作が行われている。マティスの《髪結い》も、同様に、鏡の縁と背中、お尻の作る直線が、画面の縦の中心線上に重ねられている。
また、マティスの《後ろ向きに横たわる裸婦》では、にぎやかな道具立ての中、左の肩甲骨と左のお尻という2つの円が、左足の内腿につながる横の直線上並べられている。一方小出の《横たわる裸身》では、マティスに見られた肉付きのよい肩甲骨の丸みはなくなり、代わりに大きな左のお尻の膨らみが、楕円を描く女性の頭部と相似形を描いている。(略)あるいは、マティスの《緑の飾り帯をしたオダリスク》では、赤い縦じまの布地が作る垂直方向の動きを受け止めるため、女性の身体は、真っ直ぐな右肘を含め、横方向の軸を形作っている。対する小出の《横たわる裸女B》では、布地が横じまに変更され、その代わりに、これもずいぶんと誇張された大きなお尻と太腿が、垂直方向の要素となって、縦横の力のバランスを取っている。
(略)
しかし、たとえば、マティスがこうした幾何学的な操作を加えることで、女性のはだかの身体がもつエロティックな魅力を減じようとしていたとは思いづらい。(略)おそらくこれらの作品でマティスは、女性の身体に幾何学的な操作を加えて画面の秩序に従わせること、その肉のやわらかい盛り上がりを描き表わすことを両立させようと試みていた。小出がマティスのこの点に引かれ、作品をなぞっていた可能性は高い。なぜなら、しきりに女性の身体の幾何学化を試みた小出もまた、はだかに「多少のいやらしさをさへ持つ處の深さに於て、執着を感じる」と述べ、オレンジ色を帯びた絵具の濃淡で、つやつやした女性の身体の丸みを描き出しているからだ。(蔵屋美香「もう1度、はだかを作る」蔵屋美香・三輪健仁編『ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945』東京国立近代美術館p.182-188)
《静物》(1919)[039]の画面手前の卓上に置かれた果物を見ると縦に長く歪んでいる。「幾何学的な操作を加えて画面の秩序に従わせること」への関心は最初期から見られる。画面に軸や対角線を設定する狙いも《芸術家の家族》(1919)[035]や《少女お梅の像》(1920)[038]などに見られる。楢重のヌードはそのような追究の果てにある。