展覧会『コレクションによる小企画 没後30年 榎倉康二』を鑑賞しての備忘録
東京国立近代美術館〔2Fギャラリー4〕にて、2025年11月5日~2026年2月8日。
絵画からインスタレーション、写真などを経て、画布に油を染みこませる絵画へと到る、榎倉康二(1942-1995)の業績を振り返る企画。教え子の白井美穂と豊嶋康子の作品も併せて紹介される。
洋画家・榎倉省吾を父に持ち幼少期から絵に親しんだ作家は自らも画家を志す(女性の裸体像を描いた1960年代のスケッチブックが展示される)。靉光の「強引な絵具の付け方や、対象を捩じ伏せるような線や調子にずいぶんひかれ」たという(参考として、靉光の《自画像》(1944)が展示される)。室内の不定形の肉塊のような作品などジョルジョ・デ・キリコ[iorgio de Chirico]やシュルレアリスムの影響を受けたような作風にも手を染める。《不確定物質》(1969))は、タイル張りの空間の片隅に青い絵具を塗り込んだドローイングに、千切った綿を雲のように貼り付けてある。デ・キリコ的作品と併せ見ると、河原温の浴室シリーズの影響も窺える。大学院を出る1968年辺りから次第に表現手段を絵画からインスタレーションへと移していく。それでもテーマは変わらない。複数の角柱を立てた中に直線の道を配したインスタレーション《歩行儀式》(1969)は、道と鑑賞者との関係が《不確定物質》における格子と量塊・雲との関係とパラレルである。《不定地帯》(1970)は展示室の隅に、《不確定物質》の絵具のように、絵具か何かを染み出させるように配されるす。《場》(1970)では厚みの異なる藁半紙の束を並べ油を染みこませ一部に油による鏡面を作る。《湿質》(1970)では土を水で湿らせて色味を変え、あるいは《湿質》(1971)では画廊の壁に染みを出現させる。《壁》では木々の幹の間にブロックを積んで壁を立ち上げる。《不確定物質》の雲や量塊が浮遊する基盤の設定であり、立ち入りできない場所を設定する点では《歩行儀式》の展開とも言える(尚、《歩行儀式》・《場》・《湿質》・《壁》は初期作品のスライドショーの形式で展示される)。
《二つのしみ》(1972)は矩形の灰色のフェルトにより小さい矩形の綿布を貼り付け、油の染みをフェルトの部分とフェルトと綿布に跨がる部分にシルクスクリーンで配した作品。フェルトの使用はヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)の影響だろうか。不定型な形や染みに対する関心が素材を違えて持続される。なおかつシルクスクリーンによるイメージの複製は写真への関心に通じる。但し、写真を手掛けるようになったのは、中平卓馬(1938)に触発されてのことらしい。「第7回パリ青年ビエンナーレ」(1971)に中平ともに選出された作家は、中平の切り取る濡れた路面の反射や対象に迫る接写に感化されたという。作家の写真は、《P.W.-No.41 予兆―鉛の塊・空間へ1》(1972)の床に落下する立方体のように、未然の接触(触れない)により却って接触(触れる)を強く喚起させる作品を提示する。取り分け《P.W.-No.51 予兆―床・手》(1974)や同趣旨の映像作品では、接触しようとして接触しないもどかしい感覚に、触れ合おうとする両者の間に不可視の染みが現われるようでもある。
たとえば、私の目の前に1本の柿の木があるとする。風景を伴った空間をよこぎっている、この1本の柿の木を、完全に私の手の中に握るためには、まず私自身の肉体の波長と柿の木の波長とを、合わさなければならない。その時、私の波長からは、私の意識を乗り越えて“堆積された情動”という波と“充満した静けさ”という波が、出る。そして柿の木の波長と絡み合い、不協波の状態になる。その不協波の中から、ぼうと柿の木の輪郭が、浮び上がってくる。それは、中性的であるが、非常に具体的な“姿”としてである。“FIGURE 姿”とは、現実的な事物存在と、私の感性の間に揺れ動いて存在する形態のことである。(榎倉康二「FIGURE(姿)」鎮西芳美・熊谷伊佐子編『榎倉康二展カタログ』東京都現代美術館/2005/p.170)
《干渉(STORY-No.18)》(1991)は綿布の右側に黒い絵具を混ぜた油を塗り込めるとともに、左側の生地に黒い絵具を混ぜた油を塗った角材を押し付けて長方形の黒いイメージを表わすとともに、その角材を立て掛けた作品。角材そのものは絵具を混ぜた油によって綿布に直接触れることはない。それでも角材の接触した痕跡が綿布に残される。のみならず、角材の痕跡である矩形のイメージの周囲には油の染みが拡がる。「現実的な事物存在」に加え「揺れ動いて存在する形態」が刻印される。
日常の生活の中で私達は、風景や事物を見ていても、それを名称の世界で処理したりイメージの世界で握っていることがほとんどで、事物の物質的な世界(風景や空間でも事物の集合で成りたっている)に対するということはまれです。人間に肉体があるように、事物は物質によって造られているのです。しかし、私達にとって、事物が物質性をともなって非常に現実的に、その存在を日常生活の中で強力に指し示す瞬間は、イメージも、名称の世界もなく、又、感動もことばも、思想もない、全く静まりかえった世界においてなのです。事物は沈黙を守りつづけ、私達の肉体も動きを停止して、沈黙しています。自己確認の世界とは、このようにことばのない、感情の動きもない、全く沈黙の世界なのです。(榎倉康二「日常の風景のなかで」鎮西芳美・熊谷伊佐子編『榎倉康二展カタログ』東京都現代美術館/2005/p.166)
《P.W.-No.40 予兆―海・肉体》(1972)には波打際に横たわる作家の姿がある。作家は言葉による切断を回避して自らの肉体で物質としての世界を感知するのである。