可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『万事快調 オール・グリーンズ』

映画『万事快調 オール・グリーンズ』を鑑賞しての備忘録
2026年、日本製作。
119分。
監督・脚本は、児山隆。
原作は、波木銅の小説『万事快調 オール・グリーンズ』。
撮影は、斉藤領。
照明は、佐伯琢磨。
録音は、桐山裕行。
美術は、松永桂子。
装飾は、羽場しおり。
スタイリストは、よしだえりか。
ヘアメイクは、風間啓子。
音楽は、荘子it。

 

茨城県立東海工業高等学校機械科2年A組。朴秀美(南沙良)は教室の後ろで床に坐り込み本を読んでいる。何読んでんの? 岩隈真子(吉田美月喜)が尋ねる。『侍女の物語』。知らねー。秀美の傍にコンドームの箱が投げ込まれる。ごめんね。謝るから怒んないで。秀美の席を占領する矢口美流紅(出口夏希)とその取り巻きたちが笑う。美流紅は美貌で優秀、コミュニケーション能力に長け、足も速い。今、私が堂々と自分の席に戻ったらどうなる? 秀美が真子に訊く。一瞬気まずい空気が流れて、それから、あ、ごめんねって苦笑いされる。それだけ。高校での人間関係なんて卒業したら無意味なんだから。ああいう奴らから落ちぶれてくわけ。早く死ねばいいのに。
下校前、2Aの教室で担任の山下(小坂竜士)が生徒に告げる。最近、女子生徒に露出する男が報告されてる。生徒たちが盛り上がる。静かにしろ。女子はなるべく1人で帰宅せず複数人でいるように。校則にもある通り必要以上にスカートを短くするな。気をつけて帰るように。生徒たちが教室を出て行く。
真子は漫画雑誌で懸賞作品の結果を1人で確認。落ちてんじゃねえか!
美流紅はユニフォームを着てトラックでクラウチングスタートの練習に励む。
秀美は1人帰宅する。
この高校に通うのは、受験勉強を投げ出したか、私立に行く金が無いか、その複合型か。どこまで進んでも行き着く先は地獄。
住宅街のど真ん中でもうもうと黒い煙が立ち上っている。
秀美が帰宅すると、父・朴成俊(テイ龍進)が部屋から引き摺り出した弟・朴俊(和田庵)が殴られていた。お前はいつまでこんなこと続けるつもりだ? また? 秀美がぼやく。こいつが口答えをするからだ。
居間で父がニュースを見ていた。…焼け跡からは男性と思われる遺体が発見され…。
部屋にいる秀美に母・朴幸子(松岡依都美)がご飯よと声をかける。食卓を父、母、祖母朴晴美(ソ・ヨリコ)が囲む。秀美は食事をとらずにスケートボードを手に家を出ていく。
東海駅前。画餅児(Pecori)、山路智晶a.k.a.ジャッキー(黒崎煌代)ら「東海村サイファー」の連中とともに秀美a.k.a.ニューロマンサーがラップに興じる。帰り際、秀美は画餅児からビートメイカーの佐藤幸一a.ka.a.ノスフェラトゥ(金子大地)のIDを記した紙片を渡される。ノスフェラトゥニューロマンサーのラップを評価していてトラックを作ってもいいと言っているらしい。あと、制服で来てってさ。
秀美が夜道をスケートボードで走っていると、500mmlのストロング缶が転がってくる。交差点の真ん中では車に轢かれた女(田中佐希)が赤ん坊を抱えて倒れている。車は急発進して立ち去る。残された女は立ち上がり走り去る。秀美とともに、美流紅と真子も偶然居合わせ、事件を目撃していた。
秀美が帰宅すると夜中にどこに行っていたと父親に殴られた。心配する母親が秀美を庇うが、触んなよと秀美は母を突き放す。
教室。秀美の席の前に秀美が坐る。合い言葉があるのよ。合い言葉? 秀美が秀美に尋ねる。何のために? 相手が仲間かどうかを確かめるためによ。どんな言葉? メーデーよ。一度あなたに試したことがあるわ。メーデー? 私を助けて。
秀美が机に突っ伏して眠っている。チャイムとともに生徒たちは2Aから実習教室に向かう。おい! 真子が秀美を起こす。起きない。おい!
実習教室では担当の機械科教師(古河耕史)が見廻る中、生徒たちが旋盤を行っている。あーっ! 悲鳴が聞こえる。美流紅の手から流れ出した紅い血。美流紅の小指が失われていた。救急車! 教師が叫ぶ。

 

茨城県立東海工業高等学校機械科2年A組の朴秀美(南沙良)は勉強にも運動にも特段秀でたところがない。日常的に暴力を振るう父・朴成俊(テイ龍進)、そんな父に耐えるばかりの母・朴幸子(松岡依都美)、自室に引き籠もる弟・朴俊(和田庵)、夫の遺した盆栽に水を遣る毎日の祖母・朴晴美(ソ・ヨリコ)。モールで働き知り合った男性と結婚し、子供を得た後に離婚するという将来像しか描けない。秀美は学校をSF小説に耽溺することでやり過ごし、夜は東海駅前で画餅児(Pecori)、山路智晶a.k.a.ジャッキー(黒崎煌代)らの「東海村サイファー」にニューロマンサー名義でラップすることで憂さを晴らす。秀美の友人・岩隈真子(吉田美月喜)は漫画が生き甲斐。漫画家になりたいが絶望的に絵が下手だと自認、好きなものを嫌いになるのは嫌だからと漫画制作を封印。婿を取り農家を継ぐことを期待されているため、ボーリング場でアルバイトして村を出る日を夢見ている。矢口美流紅(出口夏希)は美貌で学業優秀、陸上部のエースでもある。コミュニケーション能力も高く常に誰かに囲まれ幸せそうだ。だが常に幸せを演じることを自らに課していた。原発作業員だった父・矢口和吉(新井和之)を自死で失い、母・矢口晴子(安藤裕子)は福島原発事故以来、放射能に怯えて幼児退行してしまったからだ。映画が何よりの慰めで暇さえあれば映画を見ている。旋盤の実習中、美流紅が小指を失う。それをきっかけに美流紅は皆から遠ざけられるようになった。そんな美流紅に秀美は「東海村サイファー」でラップする姿を見付かってしまう。ラップして見せてと言われた秀美は自分の激しい怒りをリリックにして美流紅の心を動かす。美流紅は人生を切り拓くために大きなイヴェントが必要だと、自ら小指を切断したと秀美に打ち明けた。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

コミカルでピカレスクな疾走感のある青春映画。とりわけ小説や映画に淫している者に訴求するだろう。主演の南沙良出口夏希が引っ張る。
東海村の住宅街で火災がある。黒い煙がもうもうと上がる。原田瑞穂(田中佐希)が夫の暴力に耐えかねて家に火を放ったのだった。瑞穂は赤ん坊を連れて逃げる途中、車に轢かれてしまう。瑞穂は赤ん坊を庇って倒れ、立ち上がり、走り去る。そして、川に身を投げる。
秀美、真子、美流紅は交差点で瑞穂が車に轢かれる場面を偶然目撃し、瑞穂の死に衝撃を受ける。瑞穂の付け火は、結果的に鬱屈する3人の反撃の狼煙だ。
映画『太陽を盗んだ男』(1979)は中学教師が東海村原発からプルトニウムを盗み出す。本作では秀美が佐藤から襲われ逃げ出す際に金庫からアサの種を持ち出す。大麻を盗んだ女となる。
秀美には助けて[M'aidez!]と訴える相手がいない。だから自分(分身)に向かって叫ぶ他に無い。その叫びがリリックになるとき、東海=韜晦を打ち消す。後には園芸同好会の活動(ガンジャの栽培・販売)を経て、秀美が危機に瀕したとき、助けて[M'aidez!]と叫ぶことなく、手を差し伸べてくれる仲間がいた。もはや分身は現われなくなる。
美流紅は自らのキラキラネームを嫌悪している。小指を切断した際に流れた血液は、美流紅の名を具現化したかのようだ。名前の由来を尋ねられた時はアメリカの政治家ハーヴェイ・ミルク[Harvey Milk]の名を挙げることにしている。アメリカ[美国]から流れてきた情熱の紅ということにもなるのだろう。その名の由来は後に母親から明かされることになる。
東海村が舞台であり、原子力発電所自体は元より街中の原子力に関するスローガンなどが画面に登場する。美流紅は秀美との会話で映画『太陽を盗んだ男』に言及する。

 (略)戦時動員体制を支えた革新官僚たちとリベラル知識人が一体となって進めた戦後日本の電源開発において、TVA〔引用者註:アメリカ政府がニューディール政策の一環として行ったテネシー川流域の総合開発事業〕の成功端は明白な未来モデルであった。そしてこの未来モデルは、佐久間ダムをはじめとする戦後の巨大ダム開発に対する想像力の基調をもなしていた。
 1950年代から60年代にかけての原発建設記録映画からわかるのは、同様の想像力が水力発電だけでなく、原子力発電においても貫かれていたことである。TVAが電源開発であるのと同時に地域開発でもあり、人々に「豊かな生活」を保証するものでなくてはならなかったのと同じように、太平洋や日本海の荒波に面して岩壁に立つ原子力発電所も、周辺地域に「豊かな生活」を保証するものになるはずだと考えられていた。(吉見俊哉『夢の原子力筑摩書房ちくま新書〕/2012/p.183)

映画『太陽を盗んだ男』が「平和のための原子力[Atoms for Peace]」の虚飾を剝いだように、秀美、真子、美流紅の暮らす世界が原発立地自治体の「豊かな生活」とは懸け離れたものであることを映し出す。

 1960年代までの原発建設の記録映画が科学技術の勝利と産業化の未来を称揚するモニュメンタルな語りに貫かれていたのに対し、80年代の原発広報映画は地域との共生を語るファンタジーである。(略)映画では岩壁の固い岩盤が原発の安全性を保証しているのだと語られていく。それぞれの原発が立地している海岸線の風景は実に美しく、周辺地域の産業や生活、そして伝統文化とも一体化していることが繰り返し強調される。
 ここではもう、かつて原発記録映画が強調したような新しい科学技術の巨大さや、それが可能にするバラ色の未来は描かれない。むしろ強調されるのは、地域の自然、それに生活や文化との調和である。(略)原発立地をその地域経済に組み込んだ海岸沿いの市町村は、「原発」と「自然」と文科」がまったく同列に並ぶ風景に異様さを感じなくなっていた。
 1980年代以降、列島沿岸に増え続けた原発は、公式的な映像のなかではこのように「自然」化されていった。そればかりではない。この時代、「平和のための原子力」だけでなく、軍事的な核、すなわち原水爆の経験も、人々の表だった意識から遠のきつつあった。つまり、かつての広島や長崎、第五福竜丸被爆の記憶はすでに遠く過去の出来事にすぎないかのように感じられていたのである。(略)
 しかし、1970年代から90年代までの四半世紀、リアリティの高度な自足性が保たれ続けたのは、おそらく支配的なメディアの世界のなかでだけの話である。同じ時代に、漫画やアニメ、演技や映画、現代アートなどのサブカルチュラルな世界では、そうした支配的な「虚構」の背後で、リアリティの崩壊、外からの攻撃によるというよりも、内面のレベルからのメルトダウンが始まっていることが示されてきた。
 (略)70年代以降の原発の安全性と地域の調和という広報的なイメージとは対極をなす、社会の内側からの破壊のイメージを提示した顕著な例を、浦沢直樹の『20世紀少年』に見ることができる。浦沢は、手塚治虫からの連続性を意識し、『鉄腕アトム』の影、つまりは原子力や科学技術の夢には同化されない人工知能ロボットと人間社会の関係を『プルートウ』で問うていくが、その前作の「アトムボーイ」ならぬ「20世紀ボーイ」においては、1970年の大阪万博のイメージにこだわりつつ、この万博が掲げた「人類の進歩と調和」とは正反対の破壊と殺戮のイメージを前面に出し、大阪万博が象徴した「原子力の平和利用」の背後で進行していた崩壊のイメージを浮上させた。(吉見俊哉『夢の原子力筑摩書房ちくま新書〕/2012/p.268-271)

20世紀少年』では2015年に東京湾岸で大阪万博が再現される。現実では2025年に大阪で国際博覧会が開催された。本作に登場する工業高校の屋上に立つ老朽化したビニルハウス、そして、その大爆発に福島第一原子力発電所事故で爆発した3号機原子炉建屋を見ない訳にはいかない。その爆発にも拘わらず笑って済ませてしまう生徒や教師の姿は(大麻の成分を吸引してしまうせいではあるが)、2011年のメルトダウンを「すでに遠く過去の出来事にすぎないかのように感じられてい」る人々の似姿である。「虚構」を描く虚構として『太陽を盗んだ男』や『20世紀少年』の後裔として本作はあるのだ。