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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『性別越境の歴史学―男/女でもあり、女/男でもなく―』

展覧会『性別越境の歴史学―男/女でもあり、女/男でもなく―』を鑑賞しての備忘録
國學院大學博物館〔企画展示室〕にて、2025年12月6日~2026年2月23日。

祭祀や芸能における性別越境の歴史的事例を挙げ、近代化に伴い定着した西欧的性規範とは異なる性の多様なあり方を展観する試み。明治期の法規範や道徳教育を紹介する「Ⅰ章:性の抑圧―『文明開化』と明治以降の性的規範―』、石棒・土偶など考古遺物の性表象や記紀神話における異性装などを並べる「Ⅱ章:古代日本の『双性原理』」、成人男性か否(女性・童・翁・媼)かというセクシャリティ観念の下における宗教的職能者、稚児・若衆などを解説する「Ⅲ章:中世・近世の『性別越境者』たち」、異性装による男女の反転を生死や吉凶の反転に結び付けた神事・祭礼を扱う「Ⅳ章:神事芸能にみる『異性装』の力」、西欧的性規範がスタンダードになっても絶えることなく性差の限界を突破する力を止めようとした事例として、塩原温泉の女装芸者を取り上げる「エピローグ―ある「性別越境者」の生涯―」で構成。性は社会のものではなく個人のものであると訴える。

 「神は己の姿に似せて人間を創りたもうた。神のイメージに似せて神は彼を創りたもうた。神は彼らを男と女に創りたもうたのである」という創世記1-27の叙述を、ルネサンス時代の新プラトン主義やに再評価され大きな影響力を持ったフィロン(前3世紀)およびオリゲネス(2-3世紀)は次のように敷衍し解釈した。最初にして原初的な人間はアンドロギニー(両性具有)的であった。男と女への分離は人間の創造の後期の次元の低い段階の所産である。すべての被創造物が創造者の許へ帰るときには、人間の分解され、分離された状態は、再び神的な精髄のなかで統合されるであろうと。疑いもなく真プラトン主義者の1人であったピコ・デラ・ミランドラは「コメントー」と題する論文のなかで、オリゲネスの解釈に従って、人間は起源的にヤヌス性を帯びているとして次のごとく述べる。「神が人間(天上のアダム)を男・女に創りたもうたことには、神秘性がないわけではない。……特に古代人は、オルフェウス讃歌に見られるように、これらの2つの力(男・女)が同じ物体のなかに内在すると表現する慣習に従っていた」。こうした両性具有の神話の持つ意味のすべてをここで説明することは不可能である。そこでルネ・ホッケの事実の羅列で説明に替えておきたい。
 「魔術的世界観念にあってはいうまでもなく、また〈歴史的〉諸民族の魔術的世界観念のなかでも〈両性具有者〉であるヘルマフロディトゥス、1つの宇宙的原一像になっている。あらゆる自然‐生命はそれ自身のうちに、男性的なるものと女性的なるものとを結合している。ヘルマフロディトゥスはこの多産な自然のひとつの象徴となるのである。……この神話は、――他にもたくさnあるが――周知のごとくプラトンに出てくる。つまり人間は、もともと〈アンドロギュヌス〉だったのだ。だからこそ彼らは神々にとって危険な存在となった、そこで神々は人間を分離した、すなわち男と女とに割ったのである。……古代の大母神Magna Materは両性とされていた。ギリシアのある種の密儀で行われる〈ペデラスティ(男色行為)〉はもともと〈神秘的‐宗教的〉意味を有するものであった。天使学では天使は両性的であるとしている。(略)16世紀17世紀の魔術的自然哲学とマニエリスム芸術とにおいて、ヘルマフロディトゥス〈和合をもたらす〉主要神話のひとつになる。……16世紀の魔術的自然哲学では、ヘルマフロディトゥスは世界の〈中〉にはたらいている二元論、超世界において止揚された二元論の象徴像であり、魔術的な〈化学の結婚〉の寓意像である。ソロモン・トリスモスキンの著とされる錬金術の論文集『太陽の光輝』Splendor Solisの1532年版には、魅惑的なヘルマンフロティトゥス的〈一致する不一致〉が見られる」(山口昌男『道化の民俗学』岩波書店〔岩波現代文庫〕/2007/p.132-135)

【Ⅰ章:性の抑圧―「文明開化」と明治以降の性的規範―】
近代化に際し、富国強兵・殖産興業の観点から、男らしさ・女らしさを強制し、曖昧な性を弾圧する性の管理が行われる。儒教的価値観やキリスト教的性規範が思想背景であった。「新律綱領 改定律例」(1872)[05]は266条で鶏姦を禁ずる。『東京日々新聞」第813号(1874)[02] には男ながら女として育てられたお乙と塗師早蔵が同性婚を行ったが戸籍法により離縁に到った記事が載る。『違式詿違図解』(1878)[01]は「男にして女粧し女にして男粧し或は奇怪の粉飾をなして醜躰を露はす者」(第52条)が処罰対象であることを示す。伝統には無かった夫婦同氏が欧米のファミリーネームに倣い制度化された(1898)。男女7歳にして席を同じうせずという授業的道徳観が小学生の心得とされ(「小学生徒心得書」(1872)[07])、婦道や良妻賢母が人口増加の観点から奨励された(「小学新修身女子用」(1901)[08])。

【Ⅱ章:古代日本の「双性原理」】
男でもあり女でもある双性的特性は異能や神性に通じる。先史時代には胸や尻などを強調し、人体は写実的ではない。縄文時代の注口土器(出土地不明)[12]は注ぎ口を陰茎に見立てたものである。根元に睾丸を表現した例もあるという。女性を象る土偶には人的な破壊の痕跡が残るものが見られる。縄文時代の石冠(出土地不詳)[10]は石棒のような突起と底面に施された女陰状の窪みにより両性を一体的に表現した可能性がある。国分直一「双性の巫人―特に南西諸島の事例について―」(1975)[15]は、種子島の広田遺跡(古墳時代)では貝製の装身具を着け埋葬された女性たちの中に男性が混じっていたことから、双性状態に宗教的異能が認められていたとの説を提起した。

 女装の巫人のように、双性的な人がある種の「神性」をもち、神と人との仲介、神・祭への奉仕のような祭祀的な役割を担う例は、南西諸島だけでなく、インド社会のヒジュラ(Hijra)、アメリカ先住民社会のベルダーシュ(Berdache)、南太平洋タヒチ島のマフ(Mahu)、あるいは朝鮮半島に近年までいた女装のシャーマン(男巫)など、世界各地に見られました。性別越境者(トランスジェンダー)や半陰陽者(インターセックス)にある種の「神性」を見る「双性原理」は、世界的な普遍性をもつものなのです。
 (略)
 ちなみに、日本各地に女性の装身具を出土する古墳があることが報告されていますが、多くの場合、副葬品が女性用なら、墓の主は女性と推定して考古学者は疑いません。しかし、すでに指摘があるように、女性人骨が出土していない限り、必ずしも断定はできないと思います。なぜなら、女装の巫人の墓が含まれている可能性があるからです。私は、広田遺跡の「双性の巫人」が決して特殊な存在ではないと思っています。日本の考古学者には、国分直一氏の「双性の巫人」の論文をぜひ読み直し、女装の巫人の可能性を再検討して欲しいものです。(三橋順子『女装と日本人』講談社〔講談社現代新書〕/2008/p.42-44)

『古事記』には、イザナミを黄泉国に訪ねたイザナギが変わり果てたイザナミを見て逃げ出す際に投げ捨てた櫛は筍に変じる。櫛=女に対する筍=男との関係が死に対する生とパラレルになっている。宮崎県上ノ原9号地下横穴出土の竹製竪櫛が頭部に飾られた男性人骨(5C)[20]は双性原理による呪術能力に再生を期待した例と考えられる。『日本書紀』には天に昇ってきた弟スサノヲを姉アマテラスは髻を結って男装・武装して迎えたことが記される[21]。宇気比により弟スサノヲの剣から三女神、姉アマテラスの玉から五男神が生まれる。『日本書紀』には他にも、父・景行天皇の命で熊襲征討に向かったヲウスは女装して童女の姿に化けカワカミノタケルを殺したこと(『日本書紀』[23])や、神功皇后が香椎の浦で洗髪すると霊験により髪が2つに分かれ、髻を結って男装し、ホムタワケを胎内に宿したまま征旅の途に就いたこと(『日本書紀』[26]。『八幡縁起』[27]には男装の神功皇后が軍船に)などが記される。

【Ⅲ章:中世・近世の『性別越境者』たち】
宗教的職能者には、常人とは異なる力と持つと神聖視されつつときに蔑視された性別越境者が少なからず参入していた。一神教では人が神に近付く技術である性別越境は忌避されたという(本展では言及されないが、十字架上のキリストの傷を女性器として表わし、キリストに豊かな乳房を与えた民衆の「双性原理」的想像力について、岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』(2023)を参照されたい)。成人男性か否(女性・童・翁・媼)かというセクシャリティ観念の下、成人男性は女性だけでなく童と性的関係を結び(『稚児之草子絵巻』(復刻版。原典は21)[33])、恋愛関係に到ることもあった。『続門葉和歌集』(『郡書類集』版。原典は1305)[34]には醍醐寺の僧侶・稚児たちによる相聞歌(恋愛の歌)が収められる。『春日権現記絵』(1309)[32]には、僧らの世話を務める稚児の、小袴を着て藺下々を履いた女性装が見られる。

 さて、こうした稚児をめぐる性愛関係は、一般的には男性同性愛(ホモセクシュアル)の類型と考えられています。(略)しかし、はたしてそうなのでしょうか。少年装の「童」ならともかく、女装の稚児のジェンダーはほとんど「女」であり、単純な男性同成案の図式では説明できません。わかりやすく言えば、男の格好をしている少年を抱くのと、女の格好をしている少年を抱くのとでは、性愛意識という点で大きく異なるということです。
 そうしたジェンダーや性愛意識の違いを無視して、性器の結合の仕方だけおを過剰に重視し、すべてを身体的な性に還元して男性同性愛として一くくりにする現代のセクシュアリティ観、言葉を換えるならば「女装していようが、してなかろうが、男が男を抱けば、ホモセクシュアルだ」という感覚は、近代以降に確立されたものなのです。それを前近代の性愛にあてはめるのは慎重であるべきだと思います。(三橋順子『女装と日本人』講談社〔講談社現代新書〕/2008/p.65-66)

『七十一番歌合』(原典は室町時代)[39]には、右手に扇、左に鼓を置いた白拍子の姿が描かれる。白拍子は今様など歌い、足踏みを伴う舞を舞った。その起こりについては、鳥羽院政期に島の千歳と和歌の前が創始した説(『平家物語』)と、信西が静の母である磯禅師に舞を教えたことに発するとする説(『徒然草』(原典は鎌倉時代)[38]。白拍子を男舞とする)とがある。『平家物語』[36]に登場する、祇王は女性の男装ではなく稚児装の可能性がある。

 男女二元、異性愛絶対の現代の価値観ではなかなか理解できないことですが、当時の人たちにとって、美しい稚児は賛美の対象であり、憧れの性愛対象でした。すべてとは言いませんが、かなりの割合で、僧俗の男性の理想は、美しい女性ではなく、美しい稚児が体現する双性美だったのです。そう考えないと、なぜ美しい女性をわざわざ少年の姿にして、清盛のような最高権力者がそれを愛でるのかということがわからなくなります。つまり、女性の側から、双性的な理想像に近づこうとしたのが白拍子だったのです。だからこそ、貴顕に人たちが、女性器を持つ美しい稚児である白拍子に夢中になったのです。(三橋順子『女装と日本人』講談社〔講談社現代新書〕/2008/p.72)

『よだれかけ』全6巻のうち巻5・巻6を再版した『男色実語教』(1700)[42]には、男色が「もとより朋友のみちなれば、人倫の五常のにもかなひ、閨のうちのむつましみは、妹せの道にも異ならずぞ侍れ」とある。錦絵の創始者・鈴木春信の《五常「義」》(1767)[41]には少女のような2人の若衆が描かれる。女性の髷や未婚女子の振袖といった習俗
は、野郎歌舞伎の女形の若衆装を市井の娘たちが取り入れることで始まったという。

 徳川幕府に仕えた儒学者林羅山は阿国の踊りを実験して、その風俗を次のように記しています。
 男は女服を服し、女は男服をふくして、髪を断ち、男髷を為し、刀を横にして、嚢を佩く。(男は女の衣装をまとい、女は男の衣装を着て、髪を切って男髷に結い、刀を差して、袋を腰に下げている。)(『羅山先生文集』56)
 阿国歌舞伎が、男装の女性と女装の男性の組み合わせだったことがわかります。(略)
 男装の女と女装の男の組み合わせという点では、遊女歌舞伎も同様で、男装の女性が風呂屋に湯女を買いに来くる男性客を、その湯女に女装の男性が扮する滑稽な寸劇「風呂上がりのまなび」などが演じられました(柴山、1992)。
 では、若衆歌舞伎はどうでしょうか。(略)この図〔引用者註:「若衆歌舞総踊図」。踊る若衆はいずれも振袖を着用するが腰の刀の有無で男女の別を表わす)から若衆歌舞伎の踊りでは、男装の若衆と女装の若衆が混じっていたと考えられます。
 (略)
 (略)観客の人たちの間に、神や仏(観音)に通じる男女を兼ね備えた双性的な理想イメージがあり、舞台の上で行われる女性の男装や少年の女装は、それを具現化するための手法・努力だったのではないでしょうか。異性装の魅力を現出するという点にこそ、阿国歌舞伎、遊女歌舞伎、若衆歌舞伎を通じた歌舞伎の本質があると思うのです。歌舞伎は、双性的なるものを愛する日本人の嗜好から生み出された異性装(性別越境)芸能だったのです。
 (略)
 近代以来、歌舞伎の歴史を記した本のほとんどは、女形が後発敵に出現したような描き方をしています。(略)しかし、この通説は、先に述べたように女歌舞伎で女性が演じていたのは主に男性の役立ったことを考えると論理的な辻褄が合わないことにすぐ気がつきます。なぜなら、女歌舞伎が禁止されて、女性が舞台に立てなくなった時に、「必要に迫れたのは」男性の役を誰が演じるかという問題だったはずだからです。
女性の役は今まで通り男性(女形)が演じればよかったのですから、本質的な影響はありません。(三橋順子『女装と日本人』講談社〔講談社現代新書〕/2008/p.81-88)

『絵本吾妻抉』(1797)[45]には2階の座敷に向かう陰間が描かれる。陰間は舞台に出る前の修行中の女形で、男娼として性技も磨いた。酒食を提供した後、床に就くのだ。『風流艶色真似ゑもん』(1770頃)[44]には、男の上に乗った陰間が自らの男根をつまみ上げている。国芳《「山海愛度図会」廿五 自慢で見せたい 武州 品川海苔》(1582)[46]には、吉原の8月のイヴェント「俄」で男装する芸者が描かれる。時代は下り、ベルツが皮肉った憲法発布の熱狂を伝える楊洲周延《「東風俗福つくし」万民きふく》(1889)[47]には、男装の旅姿の女性2人が観兵式に向かう天皇の車列や山車とともに描かれる。

【Ⅳ章:神事芸能にみる「異性装」の力】
春秋の祭り、盆踊り、災害・疫病を防ぐ祭礼などに異性装の人々が参加する事例が見られる。男女の反転が生死や吉凶をも反転させるという思想が背景にある。甲斐国一宮浅間神社の例大祭では神輿の担ぎ手が女性の恰好をして「ソコダイ・ソコダイ」と掛け声をかけながら渡御する[48-49]。夏の疫病・災害除けである戸塚宿の「天王さま」におけるおふだまきでは女装した若者が踊る[50-52]。雷の大般若では、真蔵院周辺の男性住民が化粧して長襦袢を着て大般若経を収めた箱を担いで町内にお札を配り歩く[53]。

令和8年度大学入学共通テスト「歴史総合、世界史探究」第3問では、池田理代子『ベルサイユのばら』におけるオスカルの男装について考える問題が出題されたことも記憶に新しい。