可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 浅野井春奈個展『Light City』

展覧会『浅野井春奈展「Light City」』を鑑賞しての備忘録
日本橋髙島屋 美術画廊Xにて、2026年2月18日~3月9日。

合板で制作したレリーフを組み合わせ自立させた書割的ないしジオラマ的な作品などで構成される、浅野井春奈の彫刻展。とりわけ群像からはどこか不穏な印象が煮え付くように与えられ忘れ難い。一部の作品については、レリーフ状であることを利用して再構成しフロッタージュで紙に落とし込んだ作品("trace"と名付けられている)もある。

 私は夢を見ているような気がした。それが現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。いつものように、四ツ辻にポストが立って、煙草屋には胃病の娘が坐っている。そして店々の飾窓には、いつもの流行おくれの商品が、埃っぽく欠伸をして並んでいるし、珈琲店の軒には、田舎らしく造花のアーチが飾られている。何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。一瞬間の中うちに、すっかり印象が変ってしまった。そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつも町の南はずれにあるポストが、反対の入口である北に見えた。いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。(萩原朔太郎「猫町 散文詩風な小説」萩原朔太郎『猫町 他17篇』岩波書店〔岩波文庫〕/1995/p.13-14)

《行列のできる》(930mm×2100mm×650mm)は、主に人物の上半身像を彫った合板を8枚組み合わせた立体作品。合板に右向きの人物たち、あるいは左向きの人物たちを彫り出したレリーフを手前から奥へと間隔を開け高さを変えて並べ列に並ぶ人波を表現するとともに、その列を眺め、あるいはその列に加わろうとする人物のレリーフを斜めに挿し挟むことで自立した立体作品に仕立ててある。わずかにピンクや緑の着彩がある他は素地のままである。キュビスムを連想させなくもない、格子に近い直線が全体に施されることで、何らかの目的を共有する人々の束の間の連鎖ないし一体感を表現する。果たして行列の先には何があるのかは判然としない。サミュエル・ベケット[Samuel Beckett]の戯曲『ゴドーを待ちながら[En attendant Godot]』的な物語である可能性も否定できない。右側てまえに1点だけ合板ではない板に掘られた女性の姿がある。彼女は行列から外れるか、あるいは通り過ぎようとしているかに見える。
《憩い》(1200mm×2100mm×650mm)は人々の群れとハト、建物などを彫り出した合板を組み合わせた立体作品。手前には人物の頭部や胸像、あるいは鳩の姿を大きく現わし、奥に比較的小さい人物を配することで遠近を表わす。合板の素地を活かし、着彩はほとんど見られない。なおかつ格子に近い直線の刻みを全体に施すことにより、都市における群衆の一体性が表わされる。左右あるいは奥に配される屏風のようなビル群により人々が無機質な世界に囲まれており、その中で坐る人物や鳩により「憩い」が表現されている。エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー[Ernst Ludwig Kirchner]のような表現主義の絵画に通じるものがある。

《街と人》(340mm230mm100nna)には、6人の男女が書割的に表わされる。前列左側に左向きの女性、中央と右側に正面向きの女性をやや斜めに配する。中列には男性を、奥のやや高いに位置には建物ないし塀を挟んで小ぶりに表わされた2人の女性が立つ。類例作品に5人の人物を表わした《広小路》(350mm×450mm×150mm)がある。《アーケード》(260mm×330mm×170mm)には、中央に位置する楕円の顔の少女の周囲を囲むように総勢14名の人物が表わされる。アーケード自体は表わされず、歩く(佇む?)人物の姿だけが捉えられる。前列には嘆いている顔が見える他、沈鬱な表情を浮かべる者たちが見える。商店街の賑わいとは相容れないものが感じられる。エドヴァルド・ムンクの絵画《カール・ヨハンの夜[Aften på Karl Johan]》よろしく、どこか幽鬼じみた印象を抱いてしまうのは、(てるてる坊主のような)幽霊らしき者が後方に紛れ込んでいるためだけではない。

 もしかするとアーケードというより、誰にも気づかれないまま、何かのひょうしにできた世界の窪み、と表現した方がいいのかもしれない。
 (略)
 映画館も保健所も教会も青果市場もあたりは全部焼失したのに、なぜかアーケードだけは屋根のガラスが割れただけで焼け残った。二列に並んだ店舗兼住宅と、アーチ形の屋根の鉄枠は、ぽつんと取り残され、思いがけず生身を晒し、ひどく居心地が悪そうに見えた。しかし心配は無用だった。あっという間に町の再開発は進み、アーケードは真新しい建物に取り囲まれ、やがて窪みへと沈んでいった。ようやく本来あるべき場所に落ち着いた、とでもいうかのように、安堵して目を伏せた。(小川洋子『最果てアーケード』講談社〔講談社文庫〕/2015/p.10)

住宅街を歩く女性を表わす《うちの近所》(130mm×120mm×50mm)、女性の佇む生垣や階段の奥に海面が覗く《海の近く》(220mm×150mm×180mm)、紫陽花と女性とを組み合わせた《紫陽花畑》(250mm×250mm×150mm)など卑近な景観を半ばジオラマ的に表わす作品の中で、日常から異次元へと連れ去られる不穏さを感じさせるのが《ゾーン30》(250mm×250mm×130mm)だ。左端に振り返る女性、その脇にチェシャ猫的女性など複数の人物の顔を配し、ブロック塀が右上に向かってぐんと伸びて行く。北斎にも通じるダイナミックなデフォルメ。ブロック塀が飛躍するかの如き伸張は、《monkey park》(400mm×400mm×190mm)の猿の群れからターザンあるいは空中ブランコのように綱を摑んで飛び出す現実的な飛躍ではない。現実を超えていく。ブロック塀から現われる人物が吐き出すのはエクトプラズムに違いない。《ピエロの街》(180mm×260mm×70mm)では、ハーメルンの笛吹き男よろしく、ピエロがアクロバットの少女や兎たちを率いる。鑑賞者もまたピエロの導きでこの世ならぬ世界へと連れ去られるだろう。

 (略)錯覚された宇宙は、狐に化かされた人が見るのか。理智の常識する目が見るのか。そもそも形而上の実在世界は、景色の裏側にあるのか表にあるのか。だれもまた、おそらくこの謎を解答できない。(萩原朔太郎「猫町 散文詩風な小説」萩原朔太郎『猫町 他17篇』岩波書店〔岩波文庫〕/1995/p.29)

現実世界を書割的に表現した作品群である。だが、実は、作品こそが現実世界を表わしているのかもしれない。世界は書割であり、ハリボテであるにも拘らず、我々はそうでないものと信じ込もうとしているに過ぎない。実質なき世界は軽い。