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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『新収蔵&特別公開 メダルド・ロッソ《Ecce Puer(この少年を見よ)》』

展覧会『新収蔵&特別公開 メダルド・ロッソ《Ecce Puer(この少年を見よ)》』を鑑賞しての備忘録
東京国立近代美術館〔ギャラリー4〕にて、2026年3月3日~5月10日。

イタリアの彫刻家メダルド・ロッソ[Medardo Rosso](1858–1928)の《Ecce Puer(この少年を見よ)》の収蔵を記念し、同作品を5つのテーマで選んだ館蔵品と取り合わせ紹介する企画。5つのテーマは、"Ecce homo"を踏まえ改題した経緯からの発想による「聖なるもの、純粋なるもの」、ロッソが1つの視点からの鑑賞を望んでいたことに因む「彫刻と絵画」、周囲の光を孕む蝋に着目した「ヴェールか、光か」、ロッソが自作を照明、画角を変えて撮影した事実に基づく「彫刻と写真」、作品の初見の瞬間にこそ圧倒されるとのロッソの主張に触発された「出現と消失」である。

【聖なるもの、純粋なるもの】
《Ecce Puer(この少年を見よ)》の旧題は《少年アルフレッド・モンドの肖像》であった。おそらく"Ecce homo"を踏まえての改題という。キリストの受難を描いた絵画に冠される言葉である。アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー[Alexej von Jawlensky]《救世主の顔》は、灰色と緑とを基調色に、直線や弧などで半ば抽象化されたキリストの顔だけを描いた絵画である。十字架を背負いゴルゴタの丘へ向かう途中にヴェロニカの差し出したヴェールで汗を拭いたところヴェールにキリストの顔が浮き上がったという聖顔布を連想しない訳にはいかない。岡﨑乾二郎《40 days after the resurrection/マリア・オランス》は朱色の絵具を画布に塗り付けた絵画。上下左右の端と中央では、朱色の中に褐色が混じる。絵具を押し延ばされることで画面中央に開口部が現われる。祈りのために手を開き腕を左右に拡げたマリア(オランスのマリア)の姿を模している。開口部はキリストの懐胎(=生)と昇天(=死)の場と捉えた作品である。絵画やそれに倣った写真は生を記録したメディアであり、(個々の)生が有限である以上、必然的に死の記録となる。橋本平八《幼児表情》は左手で胸を押えて立つ幼児の木造。作者によれば、1歳前後の幼児の野獣性と人間性との交叉を表現する、歓喜の像であるという。誕生仏に通じる像である。その眼差しが鑑賞者を射抜く。岸田劉生《麗子六歳之像》は少女の斜め横顔を捉えた絵画。ふっくらした頬にあどけなさが残る。眼に純粋さがある。

【彫刻と絵画】
「画布に描かれた作品の周りを歩き回らないのと同様、粘土や木、ブロンズ、大理石で作られた作品の周りを歩き廻る必要はない。このように考えれば、彫刻は無限に刺激的で親密に生き生きとし、等質的で、優れたものになるだろう。」とロッソは述べたと言う。例えば、彫刻家の黒田大スケが橋本平八《石に就て》の研究から自らの身体を用いた映像表現を手掛けるようになったのも、彫刻の鑑賞が周囲を歩き廻ることで、言わばムーヴィングフォーカスとして映像的なイメージを得られることが理由の一端にあるであろう(本展では時間を彫刻するビル・ヴィオラ[Bill Viola]《映り込む池》が展示されている)。それに対し、(一神教の)神の視線を擬える一点透視図法の(西洋)絵画においては、眼差しは正面の1ヵ所に置かれる。だからこそ、ジョルジュ・ブラック[Georges Braque]の《女のトルソ》のように、対象(の周囲)に設定される多視点を作品に取り込むことにキュビスムの実験の意味はあった。ロッソは彫刻の利点とも言える多視点からのヴィジョンを否定し、敢て絵画の正面性に彫刻の理想を見ているらしい。だからこそ自作の写真撮影に没頭したのである(「彫刻と写真」のセクション)。尤も、茶器などでも正面の決定は問題になることであり、立体作品にも「顔」はあるのかもしれない。人の顔でもどの角度からがベストかという好みは生まれるのであり、ロッソ的な発想に一理あると言えよう。デイヴィッド・スミス[David Smith]《サークル Ⅳ》は、矩形、円、直角と弧などに切り出した鉄板に茶、白、黒などで着彩し、組み合わせた立体作品である。よく見ると半径が異なる円の組み合わせであったり、中心からずらされていたり、塗り斑が残されていたりする。彫刻の絵画性を考える適例である。

【ヴェールか、光か】
件のメダルド・ロッソ《Ecce Puer(この少年を見よ)》が展示される。着想源についてエピソードが2つあるという。1つは、6歳の少年が優雅な装いの客が集う部屋をカーテン越しに見ている場面を作家が目撃したというもの。もう1つは太陽の光に包まれた少年に作家が出遭ったというもの。確かに、少年の頭像はヴェールを被るようであり、また、黄褐色の表面は太陽の陽射しを浴びているようにようでもある。岡﨑乾二郎《ひしめきあう庭の植物(かれの容貌)》は、ペトラルカを描いた古画に着想した絵画。ペトラルカが屋外にいながら、カーテンで仕切られた場所にいる。岡﨑は、ペトラルカが彷徨の末に悟ったのは、外部の自然よりも自らの魂の方が広大であったということであり、古画に表わされた陰影を有し揺らめくカーテンが象徴するのは、悩める人間そのものであるという。カーテンはペトラルカであり、岡﨑であり、絵画である。翻って、ロッソの作品にヴェールを見るか光を見るか。そこにも揺らぎがある。十字架に架けられたキリストでさえも神に対しどうして見捨てのかと叫んだというではないか。人間が悩まないはずがないのである。新海竹太郎《ゆあみ》は、西洋芸術のヌードを日本に導入するための試行錯誤が、女性の裸体を覆う薄い布に象徴される。

【彫刻と写真】
ロッソは自作を照明、画角を変え撮影し、写真にトリミングを施した。その執念は写真の表現可能性を押し開くレヴェルに達していたという。オーギュスト・ロダン[Auguste Rodin]は自らは撮影しなかったものの、写真家に作品を撮影させ、絵画的なイメージを積極的に活用したという。ロダン《トルソー》とともに、エドワード・スタイケン[Edward Steichen]がロダンの彫刻を撮影した写真が紹介される。ロダンは「よく作られた1つの胴体は、一切の生命を含みます。腕や足を付け足すことでそれらに何ものをも加えられはせぬでしょう」、「この断片にある以上の完全な調和がどこにあろう」とトルソーの完全性を評価したと言う。不完全さが完全へと反転する。それは死が永遠の生に等しいのとパラレルであろう。

【出現と消失】
ロッソによれば、「自然において眼に映ずるものの全き視覚的真実が私たちを全力で圧倒するのは、そのヴィジョンが、いわば不意打ちのように出現するごく短い瞬間――つまり知性や、対象の物質的形態についての知識などが、その第一印象を打ち消し、破壊し始める前においてのみである」。知性や知識により無垢なヴィジョンは潰え、聖性は失われてしまうのだ。それは幼子の成長のアナロジーであり、橋本や岸田が捉えようとした聖性に通じるのである。舟越直木《Monday》やエミコ・サワラギ・ギルバート[Emiko Sawaragi Gilvert]《無題(人像)》もまた聖なるものの顕現を目指した痕跡と言えよう。彼ら/彼女らは見た[Viderunt id.]。