展覧会『郭俊佑個展「草地の上の赤い服」』を鑑賞しての備忘録
下北沢アーツにて、2026年2月28日~3月15日。
日常的な場面を僅かに踏み外したイメージの絵画で構成される、郭俊佑の個展。
《The Allegory of the Cave》(140mm×200mm)は、満席の映画館で上映中に立ち上がり背後の映写窓を振り返る人物を描いた作品。スクリーンは左奥にあるのだろうが画面から切れて見えない。真っ暗な館内で後方の座席の人々の背が映写の光に浮かび上がる。1人だけ起ち上がった人物は背後の映写窓を見詰める。その顔に投映された光が当たる(夜、屋外に設置された食卓にスポットライトが当てられる《晩餐》(315mm×390mm)という作品も展示されている)。観客はスクリーンのイメージに囚われている。しかし、実体は背後にある。プラトン[Πλάτων]の「洞窟の比喩[the allegory of the cave]」である。映画館が洞窟であることを強調すべく、画面は厚みのある箱に収められている。
《レモンの酸味》(300mm×300mm)には、草地に檸檬の木が規則正しく並ぶ。既に実が成り、摘み取られている。一番手前の樹はまだ摘み取りが行われていないのかまだ実が多く残り、いくつかは落ちている。扇形の樹形が扇形に並ぶ相似を成す。木々から離れた場所に老紳士がいて、全身が黄色い人物と何かやりとりをしている。雇い主である老人の下レモンを摘む作業を繰り返すうちレモンの色に染まってしまった人物は枠に嵌まった思考やその窮屈さの象徴という。対象との一体化も看取されよう。プランテーションないしモノカルチャーの斉一性はユートピア(≒ディストピア)的管理社会を象徴しよう。システムの脆弱性にも繋がり得る。《灌漑》(280mm×395mm)には、パーテーションで仕切られたブースに半身が埋められた人物たちが描かれる。1人は床に立つ人物によって如雨露で水を注がれている。カール・マルクス[Karl Marx]の疎外論そのものである。《果樹園》(270mm×270mm)には、地平線まで拡がる土地に色取り取りの実を付けた木々が並んでいる。木々の間隔はやや不規則だ。右手前には虹色の衣服を着けた人物が1人で実の摘み取り作業を行っている。レモンの摘み取り人と同様、対象と一体化している。但し、自ら植え育てる人物には自由があるのだろう。《レモンの酸味》と対照される作品である。
表題作《草地の上の赤い服》(270mm×350mm)は、一面草が生えている場所に赤い服が落ちているのを見付けた、草地にカムフラージュする全身黄緑色の人物を描いた作品。わずかに草と形が表わされた黄緑の地面の右奥に赤い長袖のシャツがある。左手前に立つ人物がそのシャツに向かって立っている。全身が草と同じ黄緑色で草地に文字通り溶け込んでいる。大勢に順応し、あるいは時流に流されつつ、体制や時流に抗うことに対する憧れを表現するのだろう。
《素描教室の運動》(270mm×290mm)は台形に近い五角形の板に石膏彫刻の置かれた部屋を描いた作品。支持体である板の右側は斜めに切断されており、「素描教室」が階段裏(あるいは屋根裏)にあることを想像させる。人物の立像や胸像がいくつも並ぶ部屋の奥には倉庫の闇が覗く。その手前に《サモトラケのニケ[Νίκη της Σαμοθράκης]》が置かれ、その頭部から男性が頭を出している。描くことは対象と一体化することである。同時に、アンドロギュノス[Ανδρογυνισμός]としてイデアを具象化したのであろう。石膏像は、教室の床に置かれた白い頭像をデッサンする人々を描いた《白い模範》(305mm×305mm)や、白い頭像に1つだけ黒い像が紛れ込んだ《事実》(350mm×350mm)にも登場する。
《画家の肖像》(315mm×280mm)は、暗闇の中で楕円の鏡に自らの顔を映し自画像を作成する作家の姿を表わした作品。鏡には顔が1つだけ映るが、作家自身の頭はぶなしめじのように4つの頭部が生えている。イデアとしての芸術家像と煩悩に囚われ迷う作家を対照する。《死神は私の作品を持ち去れないと言った》(205mm×300mm)には波打際に作品を抱えて坐り込む作家の周囲を4体の骸骨が取り巻く場面が表わされる。骸骨たちは「死の舞踏」を下敷きにしており、死(だけ)は誰にも平等に訪れることを示しつつ、芸術家としての矜持を打ち出している。
《農村の夢》(290mm×340mm)は馬、羊、鶏がいる農場の草地の中で眠る人物を描いた作品。地平線まで牧草地が続き、空には雲がかかりつつある。右手前にフェンスと家が立ち、その脇に馬や羊、鶏が放たれている。草地は人工芝になっていて、手前の縁の下に男性が潜り込み、寝ている。牧歌的な景観は画餅であり、くるくると巻いてしまえる。《鼻腔に吸い込まれる風景》(240mm×390mm)も人物の目の前に拡がる空・海・砂浜が背景幕のようで、恐らくロール状に巻いてしまえるだろう。現実は書割である。否、書割こそ現実なのだ。
《鋭い夢》(300mm×300mm)は寝室のベット脇の床に腰を降ろす男性を描いた作品。天井を描く一方、扉や窓が表わされないことで閉鎖性が高められている。床に四角錐の白い立体がいくつも散らばる。ベッドの上にも同じものがいくつかありシーツで被されている。簇生する筍のようだ。地面からこんなに飛び出しては筍はもはや煮ても焼いても食えない。そんな悪夢だ。
《天文博物館》(215mm×275mm)には、窓のない部屋で壁に半ば入り込んだ人物が表わされる。白い壁に覆われた部屋は、左奥の卓の上に透明の地球儀が置かれ、右側の壁には何かの模式図が架かる。天井の照明は1ヵ所だけ、なぜかピンクや青などの照明が並ぶ。ヨーロッパ中・近世の鬘を被った人物が膝立ちになり、顔や手を左側の壁面に埋めている。脇には天体の掛け図など紙の資料が散乱する。白い壁は余白[blank/space]であり、宇宙[space]に通じる。宇宙というマクロの世界を理解するのに素粒子というミクロの世界を探究する不思議を表わすのかもしれない。