展覧会『やんツー個展「浮遊する器官」』を鑑賞しての備忘録
BUGにて、2026年2月25日~4月5日。
人間の感覚器官を拡張するテクノロジーが身体との接続を切り離されて浮遊する結果、人間の感覚・思考もまた糸の切れた凧のように浮遊するとの問題意識から生成AIを用いて創作された、投石機とドローンだけが登場する演劇を上演する、やんツーの個展。
主題は「人間の器官の延長としてのテクノロジー」、「あらゆる暴力や非対称性を隠蔽、不可視化し、思考停止させてしまうテクノロジーの利便性と合理性(デュアルユース/ファルマコン)」、「成熟しきった近代合理主義(資本主義の限界)」にある。目的は、7点。「民生用ドローンが実際に飛行する光景と、原始的兵器であるカタパルトの投擲を観客が目の当たりにすることで遠くの出来事として消費されがちな戦争や軍事侵攻を迫した現実として想像させる」こと、「彼の地の紛争と観客のあいだに横たわる物理的・精神的隔たりに対し、劇中のドローンとカタパルトは、その距離を埋める媒介者となる」こと、「現代テクノロジー、自律型兵器、資本主義、権力、死生観、死政治、空間政治、軍民両用、戦争に関する政治的問題について、意見が対立する二者が複数シーンにわたり議論する様をみせる」こと、「二者は対話を繰り広げるが、最終的にわかり合うことができず、激しい口論のうえ決裂する」こと、「AIは人間の膨大な言語データによって構築され、二元の知性を模倣したものとして開発されているが、本公演では、人間の曖昧な倫理観やコミュニケーションのどうしようもなさをAIによって描く」こと、「人間ではなく装置による演劇を通して、人間の分かり合えなさを露悪的に提示し、人間の本質をあぶり出し相対化させる」こと、「何によって紛争や紛争や暴力、分断が発生するかを考える装置となる」ことである。登場人物はDJI社製民生用ドローンMavic3演じる人物Aと、白石晃一に制作された12世紀のトレビシェットをモデルとした木造投石機(投射物は手作業で籠めるなくてはならないが投擲自体はコンピューター制御)が演じる人物Bの2名。Aは、リベラル的思考傾向で理想主義者。視覚的に特化した空域から非対称的に傍観する立場であり、現代的でフラットで冷静。ユク・ホイ[許煜]、ヤニス・バルファキス[Γιάνης Βαρουφάκης]、アキレ・ンベンベ[Achille Mbembe]の思想に拠り、マルクス・ガブリエル[Markus Gabriel]の普遍的倫理観を信奉、この世に存在するあらゆる暴力を回避すべきという理想を掲げる。他方、爆弾搭載の自爆型(という設定)でカタパルト破壊を目論んでおり、兵器として「人道的殺害」に関与する自己矛盾に葛藤する。Bは、保守的な思想傾向で現実主義。ベルナール・スティグレール[Bernard Stiegler]、ジル・ドゥルーズ[Gilles Deleuze]、ミシェル・フーコー[Michel Foucault] の思想に拠る。暴力の行使も必要悪と捉え、絶対的な正義や普遍的倫理は存在しないと考える。浮遊するAを狙いながら対話を行い、Aが自爆型ドローンであることを知ると動揺し、投擲する。その他、4つの場面や上演空間などのプロンプトを生成AIに提示し、20分ほどの会話劇が生成される。ホワイトキューブの中央にはドローンがある。左壁面にはプロンプトや参考資料、右壁面には破壊された壁(模造品)と上演のための機器類、奥には投擲された物が散乱し、手前側に上演中の立ち入りを禁じる金網フェンスが立ち、その間近に投石機が設えられている。上演開始とともに中央のドローン[drone]がうなりを上げて浮遊し、その飛行音はまさに持続音[drone]の劇伴。人物A=ドローンと人物B=投石機との会話はBUGという現場を話題に始まる。上演後にはAIにより第三者の登場や抽象的な舞台設定などの改作の提案まで行われる。
例えば、靴を履けないと外を歩けないように、靴は身体の一部と化している。文字や記号は思考のアウトソーシングであり、PCはその末裔である。さらにインターネットやドローンは、感覚器官を身体から引き離した。ドローンが浮遊する如く、感覚や思考もまた足場を失って現実から浮遊していくのではないかとの懸念が作家に新旧の兵器の会話劇を着想させた。
科白の語られない場面では、ドローンの飛行音や投擲物が壁に当たる鈍い音が人のいない世界がはっきりと姿を表わす。だが、当然のことながら、会話も人間同士のやり取りではない。AIによる茶番は、映画『ブゴニア[Bugonia]』(2025)のラストシーンを髣髴とさせる。
ホワイトキューブという周囲から隔絶された空間で、白い壁に重ねられた破壊された壁が書割として舞台のフィクション性を高めている。ドローンと投石機とが議論する空間と観客との間には金網フェンスが立ち、芝居であることが強調されるとともに、観客は安全に鑑賞できる。「戦争や軍事侵攻」を「遠くの出来事として消費」することが、言わば再演されている。隣接するカフェとホワイトキューブ=舞台は地続きであるが、カフェメニューを味わう客たちと同じく「戦争や軍事侵攻」を消費するのである。人物A=ドローンが映し出すのは、自爆攻撃を狙う人物B=投石機ではなく、脳天気な観客なのだ。スクリーンに投影される一種のカリカチュア、作家が投石で破壊したいのは、訳知り顔で眺めている鑑賞者であった(と自戒を込めて思う)。