展覧会『生誕151年からの鹿子木孟郎 不倒の油画道』(後期)を鑑賞しての備忘録
泉屋博古館東京にて、2026年1月17日~4月5日(後期は2月25日から)
鹿子木孟郎(1874-1941)は、1888年、地元・岡山の松原三五郎の天彩学舎で洋画の基礎を学び、1892年に東京の小山正太郎の不同舎で写実表現を修練する。滋賀、三重、埼玉で美術教師を歴任する傍ら、明治美術会展に水彩画を出品した。第1章「『不倒』の油画道への旅が始まった。』では、1900年の最初の洋行以前の作品を陳列する。1900年、満谷国四郎らと渡米、水彩・素描展で旅費を稼ぎ渡欧する。パリで知遇を得た浅井忠に滞在延期を勧められ、作品購入の斡旋を受けた住友家に留学費用を工面してもらう。ジャン=ポール・ローランス[Jean-Paul Laurens]に入門し、古典絵画を模写しながら制作に励み、アカデミーでのコンクールで佳作受賞するに到る。1904年に帰国すると京都を拠点に画塾を開き、太平洋画会や関西美術会で滞欧の成果を示す。第2章「タケシロウ、太平洋を渡ってパリまで行く。」では、1回目の留学に関連する作品を展観する。1906年、フランスに渡りローランスに再び師事、1907年のサロンに2点が入選する。1908年の帰国後文展の審査員や関西美術院院長に就くが、派閥争いや運営方針の対立で退き、画塾を設立して制作に専念する。1915年には3度目の留学を果たす。第3章「再び三たびのヨーロッパ。写実のその先へ」では、2度目・3度目の留学の時期の作品を紹介する。ローランスの衣鉢を継ぐ歴史画に加え、3度目の留学でエミール=ルネ・メナール[Émile-René Ménard]の影響を受け象徴的な作品も手掛けるようになった。第4章「象徴主義の光を受けて―不倒の画家、構想の成熟。」では、関東大震災を描いた代表作《大正12年9月1日》や本展キーヴィジュアルの《婦人像》などを展観する。なお、晩年に手掛けた戦争記録画については展示がない。
鹿子木孟郎は旧岡山藩士・宇治長守の三男として生まれ、8歳で伯父の鹿子木家を継ぐ。生家も養家も困窮し中学校への進学は叶わない。小学校教員として家計を支えた兄・宇治益次郎が絵を描くのに秀でる弟を松原三五郎の天彩学舎に学ばせることにした。孟郎は擦筆画を中心としたデッサン技法を身に付けた。大阪に転出した松原の住まいに寄寓、さらに上京を果たすも脚気を患い帰郷。図画教員をしながら洋画研究所を開く。間もなく肖像画家として1年ほど中国・四国地方を遊歴したことが職業画家としての覚悟を明確にさせた(《徳島県地福寺の藤》(1892)[004])。巡業で稼いだ費用で再度上京、兄の伝で小山正太郎の不同舎に入門、鉛筆写生、木炭・油彩・油彩技法を本格的に学ぶ(橋村直樹「洋画家としての出発点―鹿子木孟郎の岡山時代」野地耕一郎・椎野晃史編『特別展 生誕151年目からの鹿子木孟郎―不倒の油画道―』/2025/p.39-40参照)。不同舎では「たんだ一本」の線で物を捉えるよう指導を受けた。描く対象の枠取りを紙の四辺に決め、低めに設定した水平線上の消失点に向けて道路の稜線が引かれる「道路山水」の構図の写生を手掛ける(《浅草田圃》(1893)[011])。1年ほどで鉛筆や木炭の陰影で風景や肖像を描く段階に進む。孟郎は「精確ナル理想ヲ得ンニハ現実世界ヲ精確ニ観察スルト及ヒ記憶スルヲ要ス」と写実に徹する覚悟を記している。兄・益次郎を失った孟郎は家計を支えるため教員となり、滋賀県、三重県(妹尾春と結婚。《津の停車場(春子》(1898)[042])、埼玉県で奉職。その間、明治美術会創立10周年記念展に出品し、油画《月》が記念図録に掲載される。東京に英語を学び洋行に備えた孟郎は、1900年、実家を処分して借財返済と家族の生活費に充てた残りを旅費として、不同舎の満谷国四郎らと渡米。遅れてジャポニスムが広まるアメリカで作品を売り、渡欧費用を手に入れた。(野地耕一郎「不倒の人―鹿子木孟郎を、もう1度。」野地耕一郎・椎野晃史編『特別展 生誕151年目からの鹿子木孟郎―不倒の油画道―』/2025/p.12-16参照)。
明治美術会には、1893年にフランスから帰国した久米や黒田らも参加したが、フォンタネージ流の重厚さを受け継ぐ、褐色がかった色彩で〝脂派〟とも呼ばれた旧派と、ラファエル・コランに学び、明るい色遣いを好む〝外光派〟〝紫派〟と称された黒田たち新派との間に溝が生じ、1896年に黒田たちは退会、岡田三郎助、小林萬吾、合田清らを加えて白馬会を結成した。もっとも、滝澤が「明治美術会以前の洋画界」で指摘するところでは、この新派も旧派も純美術的見地からするならそれほどの違いはなく、この対立の背後に藩閥政府とその反撥を読み取ることも可能であるという。滝澤〔引用者補記:正幸〕は次のように述べている。
さらにもう一歩踏み込むのであれば、薩長土肥藩閥とそれ以外という図式も、やがて起こる白馬会と太平洋画会の対立軸の1つに数え上げることは可能かもしれない。戊辰戦争で逆賊となった長岡藩出身の小山はもとより、肥前藩と筑後を隔てた久留米の出身たる吉田博等々、明らかに藩閥政治に容れられない出自を持った画家たちからすれば、国家の隆盛を身をもって支え、今後も力を尽してゆきたいと考える彼らにとって、薩摩出身者の多い白馬会は我慢のならないことであったろう。
この藩閥政府と幕臣=負け派たちとの対立構造は、かつて山口昌男が『「敗者」の精神史』で指摘したところのものでもある。(川村伸秀『詳伝 小杉放庵 近代日本を生きた画家とその交流』筑摩書房〔筑摩選書〕/2025/p.68-69)
孟郎の画家としての歩みには兄・宇治益次郎の人脈があった。それに加え、旧岡山藩出身であることも、小山正太郎、明治美術会という流れに与することになったのかもしれない。
後には三宅克己との間で「水彩画論争」を引き起こす。鉛筆・木炭によるデッサンを抜きにいきなり色彩画である水彩画を学ぶのは絵画学習の順序を逸脱していると孟郎は主張した。この論争もまた白馬会・太平洋画会の対立、新派と旧派、官学派と在野派といった流れに位置付けられている。尤も孟郎は、解剖学や遠近法、陰影法等に基づく裸体人物写生の修練を飛ばして「基礎なき水彩風景画」を描くことはナンセンスであると西洋流のオーソドックスな絵画学習を日本に根付かせようとしたに過ぎない(野地耕一郎「不倒の人―鹿子木孟郎を、もう1度。」野地耕一郎・椎野晃史編『特別展 生誕151年目からの鹿子木孟郎―不倒の油画道―』/2025/p.12-18参照)。
渡欧した孟郎は浅井忠の知遇を得、長期のパリ留学を勧められる。
そんな折り、杉浦重剛を通じての知人で当時は住友本店理事となっていた河上謹一からの知らせが届く。住友家による西洋名画購入の斡旋を鹿子木に求める内容で、当時住友家の家長(当主)15代住友吉左衛門(号・春翠)は須磨に建設中だった洋館に飾る絵画の収集を計画していたから、それを受けた河上がパリ滞在中の鹿子木家に打診したのだった。
この時の鹿子木の返事が豪胆でいい。大枚で3、4点の西洋絵画を求めるより、同額を留学費用として自分に与えてくれるなら、本格的な洋画修得に励んで名画の模写や制作品をいくらでも住友家に届けることができるし、その方が日本美術にとっても又住友家にとっても有益であろう、としたためた。もとより日本洋画の発展を願ってもいた住友春翠はこれを快諾、鹿子木は住友から2年間留学支援する旨の通知を得たのである。(野地耕一郎「不倒の人―鹿子木孟郎を、もう1度。」野地耕一郎・椎野晃史編『特別展 生誕151年目からの鹿子木孟郎―不倒の油画道―』/2025/p.16)
因みに住友春翠は徳大寺公純の第6子で西園寺公望の実弟。泉屋博古館のコレクションの礎を築いた。没後100年に当たる本年、『没後100年記念 住友春翠―仕合わせの住友近代美術コレクション』が開催予定である。
パンテオンでジャン=ポール・ローランス[Jean-Paul Laurens]の《聖ジュヌヴィエーヴの死》に打たれた孟郎は、アカデミー・ジュリアンでローランスに師事、西洋絵画の基礎である人体デッサンに徹底して取り組む(《女性裸体スケッチ(椅子)》(1902)[051]など)。制作の傍ら、ルーブル美術館でダ・ヴィンチやベラスケスなど古典絵画を模写した(《厨女図》模写(原画:ジョセフ・バイユ[044])。1904年に帰国すると、浅井忠の推薦で京都高等工芸学校の講師となり、浅井らの聖護院洋画研究所(後の関西美術院)でも指導する。明治美術会の後継となる太平洋画会や関西美術会などに参加して留学の成果を示す(《京洛落葉》(1904))[070])。1906年には西洋絵画の収集も兼ねた住友家の支援を受け、「峻烈なる油画裸体写生の研究に没頭」すべく再び渡欧、アカデミー・ジュリアンでローランスの指導を受ける。ローランスの大作《ルターとその弟子たち》は住友家の須磨邸に収められることになった(後に神戸空襲で焼失。習作[074]を展示)。孟郎は漁師一家を描く大作《ノルマンディーの浜》(1907)[082]を手掛け、サロンに入選を果たしている(野地耕一郎「不倒の人―鹿子木孟郎を、もう1度。」野地耕一郎・椎野晃史編『特別展 生誕151年目からの鹿子木孟郎―不倒の油画道―』/2025/p.16-20参照)。
この絵〔引用者註:黒田清輝《昔語り》〕について、美術史家・高階秀爾は「黒田清輝と構想画」(『日本絵画の近代――江戸から昭和まで』)で、黒田の〝構想画〟の代表作として、「大方の異論がないところであろう」とした上で、当時〝構想画〟という言葉はなく、高階が名づけた表現であるとして次のように説明している。
(前略)黒田清輝は、「構想画」という言い方こそしなかったとしても、「はっきりとした骨格と明確な思想」を持った絵画を日本に導入するのが自分の使命だと感じていたことは疑いない。というよりも、もともと絵画とはそういうものだという確固たる信念が彼にはあった。「はっきりとした骨格」というのは、別の言葉で言えば画面構成、つまり造形的秩序であり、「明確な思想」とは表現内容である。絵画とは、計算された造形的表現によってある内容を伝えるものだというこのような見方は、言うまでもなく、西洋の伝統的アカデミズムのそれである。そしてそれは、18世紀以来妖精用の絵画表現に傾倒した日本の「西洋派」の画家たちが見逃していたものであった。(中略)
だが黒田清輝にとっては、絵画とはそれだけですむものではなかった。もちろん、彼にしても、自然をありのままに写し出す技術を軽視しているわけではない。正確な「写生」は、基礎的な技術としてどうしても必要なものである。しかし、9年間に及ぶフランス滞在で西欧アカデミズムの理念を最初から身につけていた黒田にとっては、本当の絵画とは、「写生」によって再現したさまざまなモティーフを組み合わせて、ある思想的、ないしは物語的内容を表現するものでなければならなかったのである。(川村伸秀『詳伝 小杉放庵 近代日本を生きた画家とその交流』筑摩書房〔筑摩選書〕/2025/p.55-56)
「新派も旧派も純美術的見地からするならそれほどの違いはなく、この対立の背後に藩閥政府とその反撥を読み取ることも可能である」との指摘は、高階秀爾による黒田清輝の「構想画」の指摘でより明快になる。写生を基礎に、「はっきりとした骨格」と「明確な思想」を表わそうとする点で、孟郎に変わることがない。黒田の《昔語り》に対し、孟郎の《大正12年9月1日》(1924)[104]を対照させることができよう。
3度目の留学ではエミール=ルネ・メナール[Émile-René Ménard]の影響を受け象徴的な作品も手掛けるようになった。身体的とも言える《木の幹》[103]や何かに心を奪われるような眼差しが印象的な、本展キーヴィジュアルの《婦人像》[111]がその作例である。