展覧会『αMプロジェクト2025-2026 αM+vol.3 上村卓大「息をする/ように」』を鑑賞しての備忘録
敢て息をするぎこちなさのように「白々しくて不自然な出来事として」制作を捉える、彫刻家・上村卓大の個展。シャーレに入れたマリモを各地のミネラルウォーターで育てる《マリモ旅行》、人間の2日分の呼気に相当する体積の空気を含んだ円筒形の容器《lung A'》・《lung B'》、アルコールに浸けた鰻を封じ込めた弧状の容器4点を組み合わせた《鰻の手》、ペコロス、ピーマンス、アボカド、ニンニクを入れたステンレス製の籠と100円硬貨専用受入機で構成される《honesty box(green pepper salad)》の5点で構成。
上村卓大は、彫刻と呼ばれる概念に深刻な動揺をもたらすことによって、彫刻の核心部に触れ続けてきた作家である。上村の彫刻は、しかるべき技術、段階的な物質の組成、強い確信に支えられた構成能力によって造形される物体である。が、彼にとっての彫刻とは、物体としてのプレゼンテーションそれ自体のことではない。上村の彫刻は、物体としてのあり方を突き抜け、物体が存在することの根拠のなさこそを露呈させる。(沢山遼「彫刻が通るところ」本展ハンドアウト)
《マリモ旅行》は、水を張ったシャーレの中にマリモが大小8つ入っていて、上から照明が当てられている。シャーレの周囲には各地のミネラルウォーターのペットボトルが並び、壁のレジ袋には様々な空のペットボトルが入っている。マリモに日本のみならず世界各地の異なる水を与えることで、マリモが世界各地を巡遊している状況を生み出す。無色透明なシャーレは場の個性を作品に干渉させない価値中立的に見えるホワイトキューブに通じる。日本や海外各地の美術館のコレクションを東京で鑑賞することに擬えられるかもしれない。ペットボトルのラベルは、とりわけ有名作家や美術館の名前といったパッケージに釣られる鑑賞者の姿が――ひたすら受け身で水の交換を受忍するだけのマリモとの対比で――揶揄されているようだ。また、ホワイトキューブが作品に何ら影響を与えないように見えながら、その実、欧米の美術制度から生まれた環境であることをも見えづらくする。移動することのないマリモが「旅行」するとタイトルを冠することで、その欺瞞を暴き出す。
《lung A'》と《lung B'》とは、展示室の天井高(ダクトまでの高さ)一杯の大きさの円筒形の立体作品で、それぞれポリエルテル樹脂とファイバーグラスとで出来た半透明の四半分の円筒形4つを黒いボルトナットで接合してある。
彫刻をつくることはまず、世界のなかに一定の空間の量をもたらすこと、それがある特定の空間を占有することである。巨大なFRPの円筒形の彫刻《lung》は、その内側を空洞にしている。会場には、それが2個ならぶ。上村によれば、人が一日に呼吸する量は約10〜15m³(10,000〜15,000リットル)であり、円筒形2個でおよそ4人分が呼吸する空気がそこに詰まっている。とすれば、そこに現前するのは、人が吐き出し、吸い込む空気の量そのものである。彫刻が物質の塊(マッス)ではなく、空間の嵩張り(ヴォリューム)であるならば、この彫刻が指し示すのは、空間の嵩張りとしてのヴォリュームそのものである。(沢山遼「彫刻が通るところ」本展ハンドアウト)
《lung A'》と《lung B'》とは、肺≒人体を出入りした空気によって表わされた人間の彫刻であった。
ミケランジェロの彫刻もまたそのようなものであったのかもしれない。ネオプラトニズムを背景とするミケランジェロの彫刻にあって、とりわけその奴隷像に顕著なように、人体は魂を幽閉する牢獄であり、魂はそこから逃れようともがく。ミケランジェロの肉体のもだえ、ねじれは、内部に幽閉された魂とその外殻との葛藤、力の干渉として与えられている。つまり、そこにあるのは、内側から外に拡張しようとする力と、それを外側から押し込めようとする力の葛藤である。肉体とは魂の容れ物=コンテナーである。このコンテナー(外殻)とコンテンツであるところの魂の遭遇・葛藤を通して、彫刻のヴォリュームが形成される。(沢山遼「彫刻が通るところ」本展ハンドアウト)
エントロピー増大則に従い、生命体を構成する細胞や分子もまた無秩序化(≒死)に向かう。しかし開放形である生命はエントロピーの低い太陽光エネルギーを吸収することで一時的にせよ、エントロピーの増大とは逆の方向に向かい、低エントロピー状態を維持する(李舜志『ベルナール・スティグレールの哲学 人新世の技術論』法政大学出版局/2024/p.12参照)。ペコロス、ピーマンス、アボカド、ニンニクをそれぞれ複数入れたステンレス製の籠《honesty box(green pepper salad)》は、それぞれの野菜を100円硬貨x枚と交換に持ち帰ることのできる無人販売所でもある。太陽エネルギーを象徴する野菜が人間の身体を表わす籠を出入りすることを通じ、エネルギー消費(≒低エントロピー状態の維持)を暗示するものである。「あらゆる形態の生は、動物であれ、植物であれ、じつのところただ1つの動物である。わたしたちがコケとただ1つの同じ人格の一部をなしているということは比喩的な意味ではなく指の爪と人間の目が同じ人間の一部であると述べる場合と同程度、字義通りで本来的な真理を伴っている」とサミュエル・バトラーは述べている(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.37参照)。翻って、冒頭に展示される《マリモ旅行》の、水と光により生きるマリモは動的に平衡状態を保つ生命体の象徴である。
わたしは生まれた。わたしを作っている物質は純粋には現在的なところがまったくない。わたしはアンセストラル(先祖以前の)過去から乗って、創造できない未来を目的地としている。わたしとは、ばらばらで両立することのない時間、ある時代や瞬間に割り当てることのできない時間である。わたしとは、ガイアの表面で起こる複数の時間どうしの反応なのだ。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.18)
《マリモ旅行》は、「ガイアの表面で起こる複数の時間どうしの反応」と捉えて間違いあるまい。
(略)〈制作〉の面白さは、この場所を透明に見せている〈今〉に、不透明な区切り(タイミング)を入れることのように思います。(上村卓大「息をする/ように」本展ハンドアウト)
「不透明な区切り」とは、動的平衡を保つ、個々の生命体の姿に他ならない。
《lung A'》には、アルコールに浸けた鰻を封じ込めた弧状の容器4点を、cと左右反転するcとが交叉しないシャネルのロゴのよう(すなわちx状)に組み合わされた《鰻の手》が取り付けられている。するりと人の手を逃れようとする鰻が捕まり、半透明の容器の中に半永久的に囚われている。それは、魂の牢獄である身体に囚われた人間の似姿である。ならば、何故x状なのか。
この作品を成り立たせるいろいろとチグハグで他律的な条件に、始まりや終わりがあるようには思えません。改めて自分自身も変数のひとつなんだと実感します。(上村卓大「息をする/ように」本展ハンドアウト)
作家は自らを変数"x"と捉えているからである。