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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『岡田謙三 パリ・目黒・ニューヨーク』

展覧会『岡田謙三 パリ・目黒・ニューヨーク』を鑑賞しての備忘録
目黒区美術館にて、2026年2月21日~5月10日。

画家・岡田謙三(1902-1982)の回顧展。「パリから目黒のアトリエへ」、「戦時中 中国大陸や疎開先の風物」、「目黒のアトリエでの再出発」、「ニューヨークへの挑戦」、「ニューヨークで花開いた幽玄の世界」の5章で構成。

【1:パリから目黒のアトリエへ】
岡田謙三は1902年、神奈川県横浜市生まれ。1922年東京美術学校西洋画科に入学。翌年関東大震災が発生すると、高野三三男に誘われてパリ留学を決意。1924年、東京美術学校を中退し、高野、高崎剛、岡上りうと渡仏。耐乏生活を送りながら、アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールに半年ほど学び、藤田嗣治、海老原喜之助、清水多嘉示ら日本人留学生やジュール・パスキンなど諸外国の芸術家と交流した。1927年に帰国。1928年には日本橋三越で初個展を開催し、パリの景観(《セーヌ河》[10]《巴里風景》[11])や甘美な女性像[《人物》[06]・《花売り》[07]》)を発表した。1929年、第16回二科展に初入選し、以後、同展を中心に活動する。1935年には自由ヶ丘に新居とアトリエを築くと、藤田や荻須高徳らと交流した(《群像習作》[17]には藤田《アッツ島玉砕》の影響が見られるという)。ペインティングナイフで細かく色を塗り重ねて複雑な色彩、質感のマティエールを生んだ。

【2:戦時中 中国大陸や疎開先の風物】
第二次世界大戦下、領有下にあった台湾や朝鮮、また実効支配していた満洲は観光地として喧伝され、多くの画家が訪れた。岡田もまた1941年に荻須高徳とともに満洲に旅行している(《満人の家族》[13]・《ラマ寺》[14]・《人物のいる満洲の街》[15])。1943年9月から1944年3月にかけては、戦争記録画を手掛けた(《敵中爆破隊》、《死闘》、《シンガポール上陸第一歩》)。戦時スケッチ帖[18]の小銃のスケッチが示される。1945年、高野三三男、岩田専太郎らと宮城県登米郡宝江村に疎開した(《農婦》[19]・《宮城の晩秋》[20])。

【3:目黒のアトリエでの再出発】
終戦とともに目黒に戻る。1947年の第32回二科展に出品した《シルク》[21]は、戦前から試みてきた群像表現(《高原》[12])・《群像習作》[17])の探究の成果である。《五人》[22]や《アトリエ》[23]では画面を幾何学図形で分割するようにして半ば抽象化された人物を平面的に表わすように変化する。二科展などに出品する他、個展も3回開催している。武蔵野美術学校、多摩造形芸術専門学校で指導に当たり、新聞の挿絵、雑誌の表紙、書籍の装幀にも携わった。

【4:ニューヨークへの挑戦】
1950年に渡米。「ニューヨーク・スクール」と呼ばれた芸術家が暮らしたグリニッジ・ヴィレッジに居を構える。マーク・ロスコなど抽象表現主義に見られる滲み拡がる色面、全身を使い滴らせた絵具といった表現に当初は戸惑いを覚えたという。試行錯誤の末に自らのスタイルを摑んだ作家は、自ら作品の特徴をリアリテに基づいてしかもリアリテを超越した静寂である幽玄として、自ら画商ベティ・パーソンズに作品を売りんだ(以降、30年に渡り仕事をともにする)。1953年に初個展を開催。《No.3》はニューヨーク近代美術館に収蔵された。1954年にグッゲンハイム美術館に出展した《至》は同館の買い上げとなった。

【5:ニューヨークで花開いた幽玄の世界】
ペインティングナイフやローラーによる繊細な絵肌と淡い色彩を塗り重ねた色面の構成を特徴とする独自の様式を確立した岡田は、第3回サンパウロ・ビエンナーレ、第29回ヴェネツィア・ビエンナーレで評価された。

《高原》(1939)[12]は16人の裸体群像。中央左に中心となる女性がほぼ正面向きに立つ。画面左下に中心となる女性を見上げる女性、坐ってギターを引く男性、その背後から中央を眺める人物、逃げ惑うように手を挙げる駆け寄る人物などにより、中心の女性に視線を誘導している。さらに、彼女のすぐ左で鑑賞者を見詰める人物が右に延ばしており、顔を付き合わせ話し合う3人の女性の頭部がほぼ同じ高さに連続し、一人がよそ見をする右方向に視線を攫われると、去ろうとして駆け出す女性の後ろ姿に到る。
藤田嗣治の《アッツ島玉砕》の影響が見られるという《群像習作》(1943)[17]では、大勢の人たちが荒涼とした大地に溶け込み一体化している。
サーカス団を描いた《シルク》(1947)[21]では、画面右側で他の団員とともに寛ぐサルタンバンクの顔、あるいは画面左側で腕を組んで立つ男性の顔、右脚を台に載せる女性などによって、中央で女性を片腕で持ち上げる男性へと視線を誘う。他方、椅子に背もたれに腕を載せて坐る女性、煙草で一服する女性、袖の膨らんだ衣装を着る女性などによって、画面の中心から視線を外へと向けさせる。この異なる向きが、中央の男性が女性を右手の腕で回転させる運動を呼び込む。
《五人》(1949)[22]では、画面を幾何学的な面で分割した中に半ば抽象化された5人の女性の姿を嵌め込むように表わしている。《アトリエ》(1949)[23]では裸体モデルを画面右に、彼女を描く画家の姿を画面左に配するが、画布に描き込んだ抽象化された女性とともに作家自らもまた画面の中のピースとして嵌め込まれるように表わされる。
ニューヨークに渡ると、抽象表現の洗礼を浴びるとともに、日本人画家としてのアイデンティティを否が応でも模索せざるを得なかったのだろう。隆盛を極める抽象表現、ボーダーレスな表現への探究とともに、日本的な幽玄をキャッチコピーとして自己規定することになったらしい。《シルク》の男性の右腕の上で回転する女性のように、作家は2つの相反する流れの有無渦に巻き込まれる。その結果生まれたのが和のテイストの抽象画群である。《雨》(1959)[37]では画面がいくつかの色の綿に分割され、そこに直線で表わされた雨が描き入れられる。《風 No.2》(1969)[58]では画面を4つの矩形に分け、上の2つに幾つかの円弧の組み合わせを配している。《ダブル・ランドスケープ》(1974)[66]では、装飾料紙に引き寄せている。いくつかの色面をパズルのように組み立てる嗜好は初期の群像表現から変わることが無かったものと見受けられた。