波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』〔文春文庫な-87-1〕文藝春秋(2023)を読了しての備忘録
茨城県立の工業高校機械科2年生・朴秀美は、英語や体育、実習授業などでペアを組むだけの、目つきも性格も人当たりも悪い岩隈真子以外、クラスで話す相手もなく、孤立している。東海駅から徒歩20分の家にいるのは不登校の中学2年生の弟、祖父が亡くなり最近痴呆気味の祖母。関係に溝のある母親。失業後日雇いで凌ぐ父親はすぐに暴力を振るう。食事代を浮かして手にした本とCDで現実逃避する秀美にとり唯一の社交の場が画餅児主宰の「東海村サイファー」で、毎週木曜の晩、秀美は「ニューロマンサー」を名乗りフリースタイルラップに興じている。ある晩、秀美は画餅児から友人にトラックを作ってもらい、水戸のイヴェントに出るよう誘われる。有頂天の秀美は帰宅途中、高速バスのバス停のベンチで死んだように動かない母子を見つける。
朴秀美は文庫本を手元に開きつつ、教室の廊下側の壁に背中を預けていた。
前方の扉に一番近い席でぼんやりしていた岩隈真子が、近くにいた彼女を見上げつつ言う。
「なに読んでんの?」
朴の手元の文庫本の表紙を覗き込んでくる。『侍女の物語』と見えたタイトルを口にし、面白いの? と尋ねる。
「うん」
朴が窓際にある自分の座席に座れないのは、第三者にそれを占領されているからだ。しかも、勝手に椅子に座られるくらいならまだいいのだが、あろうことかクラスのもっとも活発な男5人と女1人で構成されるグループ、その中の中心人物が机の縁に臀部をのせている。
朴は本を読みながら、奪われた自分の座席をちらちら観察していた。
「下品な連中だな」
それを見かね、岩隈がスマホを眺めながら細々と言った。
朴の机に腰掛けている矢口美流紅の過剰な笑い声は教室の反対側にまでよく聞こえる。(波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』文藝春秋〔文春文庫〕/2023/p.7-8)
工業高校機械科2年生のクラスには、女子生徒は朴秀美、岩隈真子、矢口美流紅の3名しかいない。
昼休み、岩隈は自分の席から、背中を曲げて弁当を口に運びながら朴を遠目に観察していた。今日の朴は登校してくるや否や机に突っ伏し、イヤホンを耳に詰めたままスクルバッグを枕にして眠りこけ、ついに昼休みになっても起きなかった。教師にも隣の席の生徒たちにも放ったらかしにされた彼女は、悲しいかな、今日1日ずっと目覚めることはなく、内申点にも大きな傷を残すことになるだろう。午後のアーク溶接の実習も無断欠席だ。ホームルームのとき担任にバインダーの角で頭頂部を叩かれてもピクリとも動かなかったのは、クラスにささやかな笑いを提供した。(波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』文藝春秋〔文春文庫〕/2023/p.7-8)
秀美は学校で孤立しているだけではない。家庭でも居場所が無い。
朴はなにより、家庭の食卓における振る舞いを切実に憎んでいる。両親はいわゆる食事のマナーにはどちらかといえば無頓着なほうが、それは構わないのだが、どうしても許容しかねるのが咀嚼だ。(略)くちゃくちゃくちゃくちゃと、口を大きく開けて、音を鳴らしてモノを噛むのだけでは理解に苦しむ。自分に対する嫌がらせのためにわざとやってるのかと疑わしくなるほどだ。食品を歯で砕き、唾液と混ぜ合わせ、子どもが遊んだあとの年度みたいな状態にして、喉に通す。そのプロセスを耳障りな音と共に可視化されると気が狂いそうになる。前に抗議の意を込めて食事中ずっとヘッドフォンを装着していたら父にビンタされた。父はこういったことを平気でする、古いタイプの人間だった。
朴は空腹でいることが嫌いではない。少なくとも、精神的地獄のような我が家の食卓にとどまるより、ずっとマシなのである。家族揃っての食事に参加しないことは彼女なりのプロテストなのだが、当然両親にとっては単なる反抗期としか認識されない。溝は深まるばかりだ。(波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』文藝春秋〔文春文庫〕/2023/p.16-17)
秀美にとって居場所は東海駅前で行われるフリースタイル・ラップの集い「東海村サイファー」だ。主宰の画餅児から上達を褒められ、水戸でのイヴェントに誘われる。ついてはリリックを用意して友人にトラックを作ってもらえと言われた。朴は「今なら、なんだってできる気がする」と「充足感を身にはらませながらふらふらと帰路につ」く。好事魔多し。高速バスのバス停で死体と見紛うような動かない母子を発見する。
まず、フードの隙間から見える顔とその身体つきから分かるように、この人物は女性だった。女のホームレスなんてはじめて見た、と思う。
そしてその彼女は衣服に血痕と思しき汚れをおびただしく付着させている。
死体?
さらに、彼女の膝を枕にして、猫のように丸まっている子どもがいる。
以上が、朴がそれを無視して先に進むことができなかった要因だった。それは良心か好奇心でいったら後者であるのだと自覚しつつも、そっと顔を近づける。少なくとも、2人のうちこどものほうは生きている。寝息が聞こえる。
一か八か、彼女の身体を揺すってみる。反応がないと分かると、さらに強く揺する。彼女は起きてこない。ホントに死んでる……? 痺れを切らし、両手を使って肩を強く叩く。大丈夫ですか? おーい、おーい。と耳元で繰り返す。再び身体を揺する。反応はない。(波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』文藝春秋〔文春文庫〕/2023/p.24)
正しい脈の測り方を知らずに死んでいると恐怖から秀美は逃げ出す。身体を揺すっても反応の無い、死体のような行き倒れの女は、教室での秀美とパラレルである。秀美は恰も幽体離脱したかのように自分の姿を俯瞰したのである。女の火傷の痕に「〈メーデー〉」、すなわち「わたしを助けて」というメッセージを読み取ったのは、マーガレット・アトウッド[Margaret Eleanor Atwood] の『侍女の物語[The Handmaid's Tale]』を読んでいた秀美が、自ら助けを求めていたからに他ならない。だが救いの手が差し伸べられることは決してないのだ。
何日かあと、朴は東海村での火災事件には続報があったことを知る。男の直接の死因は一酸化炭素中毒だったものの、検死の結果、背中に刃物による傷が見つかったこと、また、寝室に焼け残った庖丁が落ちていたことが判明。事件後、行方不明者となっており、容疑者となった妻の原田瑞穂は、息子とともに路上をあてもなく歩いていたところを高速された、とのこと。
ツイッターでそのニュースを引用した投稿を見る。母親が夫を殺害して逃亡、家に放火して証拠隠滅を試みた……という論調が大半を占めていた。『母親が犯人』のハッシュタグと一緒に貼り付けられた顔写真には見覚えがあった。(波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』文藝春秋〔文春文庫〕/2023/p.27)
行き詰まった原田瑞穂は反撃の狼煙を上げた。少なくとも秀美は彼女のメッセージを受け取っただろう。
秀美が画餅児に紹介されたトラックメーカーは水戸で活躍するDJノスフェラトゥだった。秀美はプロに曲作りしてもらえると喜んだが、甘かった。(制服を着て来て欲しいと頼まれた段階ですぐに予想は着くが)ノスフェラトゥは女子高校生の身体が目当てだったのだ。秀美は薬物入りの飲み物を回避したものの殴られ、口腔を犯される。口を封じられたとは、フリースタイル・ラップで身を立てる道が閉ざされたことのメタファーである。転んでもただでは起きない秀美は、ノスフェラトゥから大麻の種を盗み出す。秀美は矢口や新たな自活手段をノスフェラトゥの家で手に入れる。矢口美流紅や岩隈真子を誘って、ガンジャで大金を手に入れる事業を起ち上げることになる。
秀美がノスフェラトゥから種を盗んだように、ギリシア神話ではプロメテウス[Προμηθεύς]が天界の火種を盗み人に与えた。
少し前に、2駅離れた町にスターバックスコーヒーができた。休日は人がひしめていてい落ち着かないので、平日に行くのがいい。この地域ではまだスタバが物珍しいもののひとつなのだ。北関東、とくに茨城の北部はまだ文明が未開であり、火が発明されたのも去年のことだ。(波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』文藝春秋〔文春文庫〕/2023/p.205)
北関東にもたらされた火は、(無論、去年のことではないが)原子力である。東海村を舞台とし、秀美らの背後には常に原子力発電所が立っている。核兵器=原子力発電もまた「火」に擬えられるところだ。秀美は、「東海村サイファー」の仲間ジャッキーとの会話で映画『太陽を盗んだ男』に言及する。
「ジャッキー、こんな中入ったことある?」
発電所と思しき建物がぼんやりとライトアップされていた。たしか、と朴は考える。このでっかい湯沸かし器は、今は稼働していないはずだ。
「あるわけなくね」
敷地内には発電所の設備のほかに一般入場可能な科学館があり、記憶はおぼろげだが、そこには朴もジャッキーも行ったことがあるはずだった。この地域の小学生は、必ず遠足でそこに行かされる。それでもって、原子力がいかに便利でクリーンなエネルギーであるか、放射線はいかに安全で無害なものであるかを教え込まれるわけだ。この村に暮らす以上、それを知っておかなくてはならない。原発がイヤなら家の外に出るなって村長が言ってたからね。
朴は話を切り出した。
「この前、友達と昔の映画見に行ってさ。日本の映画。主人公は冴えない中学の教師で。そいつがひとりで原爆を作って、国家を脅迫するんだ」
「へぇ」
会話を続けながらも歩みは止めない。さすがに肌寒くなってきた。
「原爆を作るためにプルトニウムを盗むシーンがあるんだけど、どうするかっていうと、ここ、東海原発に忍び込むの! そこがかっこよくてさ」(波木銅『万事快調〈オール・グリーンズ〉』文藝春秋〔文春文庫〕/2023/p.277-278)
冒頭から、火災事件が話題になる。火は、本作の底流をなす。秀美は偶然見かけた原田瑞穂から、村に火をつけ、白痴になれ、とメッセージを受け取ったのかもしれない。秀美は村で火を放つことになるだろう。
底辺の地方女子を自認する女子工業高校生を中心とする、疾走感のある痛快なエンターテインメント作品である。秀美の小説、美流紅の映画、真子の漫画など、数多くの作品が話題に上るのも楽しい。
本作とともに鑑賞をお薦めしたい児山隆監督の映画『万事快調〈オール・グリーンズ〉』(2026)は、本作の骨格はそのままに秀美、美流紅、真子の3人がフィーチャーされる(その分、秀美の家族の再生の物などはカットされる)。とりわけ原作には無い、原田瑞穂が交差点で轢かれる場面を3人が別々に偶然目撃するシーンは、瑞穂に自分たちの悲惨な将来を重ね合せさせ、この村から出て行きたいという欲求を可視化した。また、3人が東京まで商品を売り渡しに行き、脅し取られるシーンは、地方に立地する原発が東京を支えるために電力を供給する搾取の構造を明るみに出していた。「内国植民地」の「地方女子」を扱う点で、廣木隆一監督の映画『彼女の人生は間違いじゃない』(2017)に通じるものがある。