映画『90メートル』を鑑賞しての備忘録
2026年、日本製作。
116分。
監督・脚本は、中川駿。
撮影監督は、趙聖來。
照明は、藤井聡史。
録音は、鈴木健太郎。
美術は、松本良二。
装飾は、八木圭。
衣装は、阿部公美。
ヘアメイクは、藤原玲子。
編集は、相良直一郎。
音楽は、Moshimoss。
体育館で小学生のバスケットボールの試合が行われている。藤村美咲(菅野美穂)は小学3年生の息子・藤村佑に熱心に声援を送る。
試合終了。スコア通り、白! ありがとうございましたっ! 佑のチームは負けた。お疲れ様でした。残念でしたね。保護者たちが美咲に声をかけて帰っていく。佑のチームのコーチがメンバーを集合させる。悔し泣きする子供たちをコーチが叱咤する。男だったら泣くんじゃない、悔しさを明日からの練習で活かせ。
美咲は佑と駐車場に向かう。佑、お母さんは別に泣いてもいいと思うよ。涙が出るのは頑張った証拠だもん。美咲が佑の頭を撫でる。車に向かいながら佑は泣き出す。美咲がキーで車のロックを解除する。ピッピッ。
9年後。ピロピロピロピロン。ピロピロピロピロン。ワイヤレスチャイムが鳴る。藤村佑(山時聡真)が自室で机に突っ伏して眠っている。ようやく目を覚ました佑が階段を下りる。居間に置かれたベッドの美咲が佑に言う。といれイキタイ。佑は車椅子をベッド脇に置く。ネテタ? オデコアカクナッテルワヨ。いいから。美咲に腕を自分の首に廻してもらい上半身を起き上がらせ、脚を持って身体を90度回転させて一旦ベッドに坐らせ、さらに美咲を抱き上げて立たせ車椅子に乗せる。佑が車椅子を押してトイレへ向かう。トイレの前で車椅子から美咲を立たせると、カーテンだけで仕切られたトイレの便座に坐らせる。美咲の寝間着と下着を下ろす。さんきゅー。佑はトイレ脇の階段に座って母親が用を足すのを待つ。佑が欠伸する。
「己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。」李徴が人間性の喪失で幸せになると言いながら恐怖を覚えているのは……。県立村山高等学校の3年生の教室。『山月記』を解説する担任の先生が眠りっぱなしの佑を気にする。
最近どうだ? あんまり寝られてないか。先生は授業後、佑を教室の外に連れ出して尋ねる。はい、すいません。お母さんの調子、良くないのか。ま、相変わらずってところですかね。困ったことがあれば相談してくれていいからな。もう、慣れたんで、大丈夫です。
放課後の学校。ブラスバンド部の演奏が聞える、グラウンドでは野球部員たちの発する声と打球音。校舎の出入り口脇で大平翔太(田中偉登)らバスケ部の面々が卒業アルバムの写真を話題に話している。その傍らを佑が素通りする。松田杏花(南琴奈)は佑の姿を目で追う。佑は練習に励む陸上部員やダンス部員の脇を抜け、1人校門を出て行く。
自宅に帰る。あ、佑君、お帰り。訪問ヘルパーの女性(荻野みかん)に声かけられる。こんにちは。お風呂入って着替えたところだから清拭は無しで大丈夫ですね? ヘルパーの女性が美咲に確認する。結構、飲みましたね。美咲が飲んだジュースの残りを見て言う。
玄関脇で佑はヘルパーの女性から共有ノートの記載を下に引き継ぎを受ける。お昼はおうどんを食べました。吸うの大変みたいだから、短くして下さい。お風呂で遅くなったから洗濯物はまだ乾いてないんじゃないかな。後で取り込みをお願いします。佑君から、何かある? 別に何も無いです。
ヘルパーが自転車で帰るのを見送り、佑が門を閉ざす。
佑がニンジン、ジャガイモを賽の目切りにする。鍋に具材を入れ、カレールーを溶かす。
佑が美咲と食卓を囲む。佑はスマートフォンをいじりながら食事する。美咲がぎこちなくスプーンを運んで食べる。オイシー。飲み物を飲もうとすると、佑は黙ってカップを母親の手元に近づける。さんきゅー。美咲がストローで飲み物を飲む。
佑は洗濯機を廻す。干していた洗濯物を取り込むと、洗濯した衣類を干す。
佑が食器を洗っていると、ワイヤレスチャイムが鳴る。今、無理! モレルー! といれー! 佑は洗い物を中断し、母親のベッドに向かう。
トイレから戻り、佑が美咲をベッドに寝かせる。ベッドの下にリングノートを見つけた。佑が手に取る。ソレ、ダメ。ワタシノニッキ。ミナイデ。見てねえし。佑はノートを蒲団の上に投げる。ナゲナイデヨ。
23時22分。台所で佑が薬をカップに溶かす。飲んで。佑が薬の入ったカップをベッドの美咲に差し出す。タス、ベンキョウはデキテルノ? シンロ、ドウスルノ? 知らん。適当にやる。ナニソレー。チャントカンガエナイト。…そんな暇、無い。
教室。担任が模試の成績表を生徒1人1人に返却していく。佑は浮かない顔で成績表を見詰める。唯一の志望校である東京産業大学スポーツ科学部の合格判定はD評価だった。
進路面談。担任の先生が佑に告げる。これだと少し厳しいかな。みんな追い込みで成績、もっと上げてくるからな。負けないようにやっていかないと。半ば諦めた様子の藤村に先生は自己推薦入試を勧める。学力検査ではなく高校生活でどんなことに力を入れたかで判定する仕組みで、母親の介護の経験も立派な実績になると思うと言う。少しでも可能性があるならやってみる価値はあると思う。…別に受からなかったら、それはそれでいいんですよ…。諦めがつくし…。逆に受かったら、面倒なことになるじゃないですか。だからそこまでしなくても…。お母さんと進路のこと、話してるか? 話したところでって感じですね。結果は変わらないんで。
県立村山高等学校3年生の藤村佑(山時聡真)は、授業を終えるとすぐさま下校する。ALSを患う母親・藤村美咲(菅野美穂)の介護のためだ。帰宅すると訪問ヘルパー(荻野みかん)から引き継ぎを受け、洗濯や調理を行い、母親に食事を出し、薬を飲ませ、トイレに連れて行く。身動きの取れない母親が介助を求める際にはワイヤレスチャイムが鳴らされる。家事と介護で気の休まる暇が無く、授業中も寝てしまう。学業成績は芳しくなく、志望する東京産業大学スポーツ科学部には手が届きそうにない。小学生から続けてきたバスケットボールでは部をエースとして引っ張っていたが、1年ほど前に家庭の事情とだけ告げて退部し、部員とも疎遠となってしまった。ケアマネージャーの下村香織(西野七瀬)から24時間体制の介護が可能になる数のヘルパーを確保したと告げられた佑は、担任の先生の勧める自己推薦入試にチャレンジすることにした。推薦入試のガイダンスでバスケットボール部のマネージャー・松田杏花(南琴奈)と一緒になる。杏花は卒業アルバムに載せるバスケ部の写真を一緒に撮ろうと佑を誘った。
(以下では、冒頭以外の内容に言及する。)
佑は小学生の頃から熱心にバスケットボールに取り組んで来た。高校の部活動ではエースとして引っ張っていた。ところが母親がALSを発症し、介護のために課外活動の余裕を失った。仲間から同情されることを厭い、愛する母親が不幸の原因のように思われるのを避けたかった佑は「家庭の事情」とだけ言って退部する。誰が悪いのでもない結果を引き受けざるを得ない佑は、自らの心を殺す。その姿が、国語の授業で扱っている「山月記」の李徴に重ねられている。担任の教師が生徒に考えさせる、次の箇所だ。
己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。(中島敦「山月記」『李陵・山月記』新潮社〔新潮文庫〕/1969/p.12。但し、旧版。)
担任の先生は自分の夢や希望を全て諦めざるを得ないと思い込んでいる佑に、違う考え方もあると示唆するのである。一般選抜に対する、総合型選抜という選択肢の提示は、その具体的な策である。
担任だけではない。バスケットボール部のマネージャー・松田杏花も、問題を1人抱え込む佑のことを(文字通り)見てくれている。なぜなら杏花もまた、友達に打ち明けられない家庭の事情を抱えているからだ。明るく振る舞う杏花は周囲に微塵も気付かせないが、カラオケをパスするのはみんなと連んだり歌うのが嫌だからではない。家計が苦しく金銭的な余裕が無いからだ。予備校にも通えない杏花は成績を確保して学校推薦型選抜で大学進学を目指す。杏花が普段姿を眩ませて向かうのは図書館なのである。そんな杏花だからこそ、人知れず悩む佑に気付くのだ。
担任教師や杏花だけではない。ケアマネージャーの下村香織も佑のことをよく見てくれている。そんな周囲の支えがあり、佑は李徴のようには「虎」に成らずに済んだのである。
冒頭、佑はカレー作りのためにニンジンやジャガイモを器用に賽の目切りにする。母親に代わって調理した当初は、切り方が適当で、ジャガイモを生煮えにさせてしまった。母親からの注意に反撥しつつ、きちんと母親の言い付けを守り、自然と切れるようになったのだ。
下の世話を(異性の)息子にさせなくてはならない美咲ができる限り普通に、明るく振る舞う姿が健気だ。息子に対して発される「さんきゅー」は、いつまでも佑の脳裡に反響するだろう。
(以下では、全篇に言及する。)
ヘルパーの増員で24時間体制の介護が可能となり、頻繁に鳴らされていたワイヤレスチャイムが鳴らされなくなる。1日の半分を美咲と過ごしてきた佑は、ヘルパーのお蔭で杏花と総合型選抜の準備に勤しむことができるようになったが、その分、母とは疎遠になる。年頃の佑は人目を気にして母親に近付いたり声を掛けることもままならなくなるのである。佑は敢て冷淡を装い、母親とも口を利かなくなるのである(佑の変化を把握し、対処するケアマネの香織が凄い!)。だから母親が見て欲しくないといった「日記」を盗み見ていたヘルパーを佑は許せない(佑は中身を決して読まなかった)。そんな佑が大学進学で実家を離れて東京に行く決断をする場面で、久々に母子の会話をする。その場面では中途から暗転が用いられる。そのとき、マジックリアリズム的表現が採用されるのだ。本作では場面転換の暗転の尺がやや長めにとられていたが、それはこの場面のためにあったのだ。心に迫る暗闇だ。冒頭で鳴り続けるワイヤレスチャイムから始まって、母親の声(の変化)など、音に重責が担わされている作品なのだ(それも拘わらず、クロージングクレジットにつまらない歌を流したのには心底がっかりした)。
息子に対する愛情溢れる美咲を演じた菅野美穂は、歳を重ねても大病の役でも可愛らしさを失うことがない。そんな彼女とともに主演を張った山時聡真は、鬱屈した高校生男子の成長を見事に体現。
「そいつは言えねえな!」くらい魅力的であった南琴奈の出演作では、映画『ミーツ・ザ・ワールド』(2025)をお薦めしたい。