展覧会『酒井みのり展「崩壊と形成」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2026年3月23日~28日。
ブロック状にカットされた鮪の集積をとりどりの配色で描いた絵画「お刺身ブロック」シリーズと、熊や兎など動物のぬいぐるみをモティーフとした陶彫「崩れそうなクマちゃん」シリーズなどで構成される、酒井みのりの個展。
「お刺身ブロック」は、歪んだキューブ状の鮪の身が犇めく様を透明水彩とクレパスとで色鮮やかに表わした絵画シリーズ。《お刺身ブロック》(727mm×606mm)では、紅、紫、蛍光オレンジ、蛍光ピンク、蛍光イエロー、黄緑、水色などの鮪の切り身が積み上がる様子が画面いっぱいに描かれている。立方体の形状がかなり歪んでいるのは、身の柔らかさとともに犇めく感覚を強調するためであろう。モティーフを同じくしながらより鮪の身の色に近い赤を中心に着彩した《無題》(910mm×727mm)も展示されているが、「お刺身ブロック」シリーズには全てで蛍光色も含めた派手な色が用いられている。鮪の脂により現われた虹色の輝きを強調しているのかもしれない。筋模様はブロック状と相俟って、木材及びそ断面に現われる年輪を連想させる。食材は木材≒建築材のアナロジーとなる。魚から木の連関は決して突飛なこととは言えないかもしれない。身ではなく鱗についてであるが、バスク語の作家キルメン・ウリベの作品『ビルバオ‐ニューヨーク‐ビルバオ』では魚と樹木とが年輪により結び付けられているのである。
魚と樹は似ている。
どちらも輪をもっている。樹のもつ輪は幹のなかにできる。樹を水平に切ってみれば、そこに年輪が現われる。1つの輪は1年の経過を表わし、それを数えていくと樹齢を知ることができる。魚も輪をもっているが、それは鱗にある。樹と同じように、それを数えることで魚が何年生きたかがわかるのだ。
魚はつねに成長し続ける。僕らは違う、僕らは成長してから小さくなっていく。僕らの成長は止まり、骨はつながり始める。身体は縮んでいく。けれども、魚は死ぬまで成長し続ける。幼い頃は急速に、年を経るごとにだんだんゆっくりと、だが成長が止まることはない。だから鱗に輪ができるのだ。
魚のおつ輪は冬にできる。魚があまりものを食べなくなる季節で、成長の速度も落ちるので、その時期の飢えが鱗に黒い徴を残すのだ。逆に夏は、魚は飢えることがないので、鱗には何も跡が残らない。
魚の持つ輪は、肉眼では見えないけれども、たしかにそこにある。あたかも傷跡のように。きれいに閉じなかった傷跡だ。
そして魚がもつ輪のように、つらい出来事は僕らの記憶のなかに溜まって、僕らの人生に徴を残していき、ついには僕らにとっての時間の尺度となる。逆に幸せだった日々は、足早に、あまりにも足早に過ぎ去り、すぐに記憶から消え去ってしまう。
魚にとっての冬は、人にとって喪失だ。喪失は、僕らの時間に区切りをもたらす。ある関係の終わり、愛する人の死。
1つひとつの喪失は、僕らの内面に残された黒い輪だ。(キルメン・ウリベ〔金子奈美〕『ビルバオ‐ニューヨーク‐ビルバオ』白水社〔エクス・リブリス〕/2012/p.7-8)
翻って、「お刺身ブロック」シリーズの作家にとって、鮮やかな魚肉による世界の構築が「形成」であった。それに対し「崩壊」は、動物のぬいぐるみをモティーフとした「崩れそうなクマちゃん」シリーズと、家をモティーフとした「崩れそうな家」シリーズとの陶彫刻作品である。いずれも敢てボロボロになった形が提示されている。注目すべきは、動物を象るのではなく、動物のぬいぐるみを象っていることである。生きている動物ではない。害獣として駆除される「熊」は、テディベアのように愛される「クマ」とは別物なのだ。鮪もまた、日常的に接するのは切り身(柵や一口サイズ)になって、あるいは握り寿司として売られている姿である。それは、世界が、ほとんどメディアを介したイメージによって形成されていることを暗示する。ならば「崩れそうな家」は? グローバリゼーションの地球=世界のミニチュアとしての家だろう。
「お刺身ブロック」の現実離れした華やかなイメージは加工による盛る行為を、「崩れそうなクマちゃん」・「崩れそうな家」の剥落・欠損した廃墟のイメージは、瞬間的に崩れ去る情報の更新・上書きを表わしている。崩壊と形成とのめまぐるしいサイクル自体を、遅いメディアである絵画と焼物とで定着させようとするのではなかろうか。
夕食後、メレディットはまた墓碑の話を始め、なぜいつも同じ道を歩まなければならないのかしら、なぜ人は物事を同じやり方でやることしか考えないの、と言った。文学だって同じことよ。わたしたちのちっぽけな文化は、新しく生まれ変わらなければならないの。やり方を変える。時代に合わせる。媒体が変わったのよ、と彼女は言った。今の時代、本ばかりではないでしょう。新しいテクノロジーがそこにあるじゃない。受け手も変わったわ。今や、自分の共同体の人々のためだけに書くわけではないし。世界は小さくなった。土曜日には、タリンの人たちがわたしたちの朗読を聞くことになっているでしょう。数年前には考えられなかったことだわ。
「それはともかく、わたしたちには自分自身への信頼が足りないのではないかと思うわ。力があまりに分散しているの」と彼女は続けた。「フォークランド紛争のときに起こったことをお話しするわ。アルゼンチンがフォークランド諸島を占領して、イギリス軍が解放に向かった。そこで、両方の軍隊にウェールズ語話者がいたのよ。一方には、女王陛下の命令でウェールズから発っていった人たち。そしてもう一方には、アルゼンチンの独裁者を守るために戦っていたウェールズ人がね。アルゼンチンにはウェールズ人が沢山住んでいて、パタゴニアの辺りにはウェールズ語しか話されていない地域もあるくらいなの。そして戦場で、両者が向かい合った。塹壕では、どちらの側からも同じ言語が聞えたというわ。つまりどういうことかというと、わたしたちは今もその戦いの真っ只中にいるような気がするのよ」(キルメン・ウリベ〔金子奈美〕『ビルバオ‐ニューヨーク‐ビルバオ』白水社〔エクス・リブリス〕/2012/p.104-105)
テクノロジーが変わっても、人は変わらない。だから「わたしたちは今もその戦いの真っ只中にいる」。忘却は僥倖だろうか。そんなことはない。忘却に抗うのが、文学であり、芸術である。浜で大漁を祝う人たちを見て、金子みすゞが鰯の墓碑を刻んだように。