展覧会『第42回大学日本画展 多摩美術大学日本画専攻卒業生・修了生4人展「Glint」』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2026年3月14日~29日。
いずれも多摩美術大学日本画専攻出身の荒井颯子、江越里南、岡千尋、我の作品を展観する企画。
荒井颯子は、《不確かな記憶》(455mm×530mm)において、山並を背後に立つ女性を描く。蛇行しながら上り下りする道が山の中に見える。《カーテンⅡ》(727mm×606mm)では、建物がカーテンの褶曲に応じて歪んで示される。蛇行・褶曲という揺らぎにより記憶(の不確かさ)を具象化するが、記憶とは人間存在のメタファーでもある。《Lonely Hearts Club》(1620mm×1303mm)では矩形の高層ビルディングの谷間に残る2階建ての水色の建物を描く。開発により取り壊される建物は、氾濫する情報により上書きされる過去の記憶を暗示する。《黄色い壁》(1620mm×1303mm)には、黄色い煉瓦の壁の前に、フレンチブルドッグを抱えたお提げの少女が立つ。黄色い煉瓦と少女の姿から『オズの魔法使い[The Wonderful Wizard of Oz]』を想起しないわけにはいかない。道は壁となって立ちはだかる。直接には、アメリカ合衆国が移民を受け入れなくなった状況を暗示する作品であるが、壁を構成する煉瓦を用いて道を築くことができるという発想の転換を促すものと読み替えることも出来よう。人気のない建物のベランダで通話する女性を描く《月の方がまだ近い》(1620mm×1303mm)は、見えない存在に対する距離が主題であろう。通話の相手だけではない。月もまた描かれていない。描かれているものから、描かれていないものへと意識を向けることを促す。見えるものが多すぎる状況において、見えないものを見る=考えることこそ肝要なのだ。
江越里南は、《白みゆく》(455mm×273mm)で梟を、《白妙》(1167mm×727mm)で孔雀を、《ゆらめく》(910mm×1167mm)で象を描くように、動物をモティーフとした作品を手掛ける。2曲1隻の屏風《ミテイル》(170mm×514mm)には、瑠璃色の水の中に8匹の鰐が表わされる。水中から出た鰐の眼が、頭部からズレている。光の屈折の効果が主題である。屏風に仕立てたのは、光の屈折を屏風の屈折によりメタ的に表現するためであろう。軸装された《藍》にも、水中から眼を出す鰐が描かれるが、イメージが水面で切断されて接合されることにより空気中から水中へと光の屈折が起きることが強調されている。2枚の画面にそれぞれ左右別の方向を向く鰐が表わされ、紙の位置が違えられているのも、ズレを強調する。
岡千尋は、《PARADE》(970mm×1620mm)において、花々の中から女性が生まれ出るようなイメージを表わす。淡い朱の画面の右側には花々と蝶とが混淆するように描かれ、その中からヴェールを被るような女性が立ち現われつつある。左画面には花々を抱えた女性2人が左に向かって進む姿が見える。画面右上の巨大な蝶は「胡蝶の夢」を介して夢を象徴すると思しい。夢と現実との境の曖昧さが主題であろう。《あわいのかたち Ⅰ~Ⅲ》(各410mm×410mm)は壺を抱える女性像のシリーズであるが、壺に描かれた植物や蝶は周囲と連続していて境がない。《アンビバレント》(803mm×1167mm)にはカサブランカを飾った円卓で頰杖を突く女性とその背後に立つ背中を向けた女性とを描くが、中央のカーテンとも流水ともとれるモティーフやその左側の赤い花とも炎ともとれるイメージが、写実的な人物と好対照をなす。《光が届くまで》(727mm×727mm)では、大きな赤い花を「光背」のようにして女性の上半身象が表わされる。花を描くとき、作家は花になる。
我の《STAR》(803mm×803mm)は、黒い星を両手で掲げる女性の上半身を描いた作品。水玉模様のような柄(円形の穴を開けた和紙を貼り重ねてある)の黄緑色2本の突起を持つヘルメットを被り、ヘルメットと同じ色・模様のノースリーヴの衣装を身に着けた女性が、横向きで腕を持ち上げて黒い星を支え、鑑賞者の方を振り向いている。そのイメージが画面中央で線対称となり、背中合わせの女性が鏡像として左右反転して現われる。女性が「双子」ではなく一方が鏡像であるなら、黒い星は星の形を成していないことになる。言わば星は虚像である。「星」を支える手指の爪は長く、指先は黒く汚れている。角のようなヘルメットと相俟って魔女を連想させる。星は五芒星であり錬金術に結び付く。瞳に点じられた朱も蠱惑的である。
《MIRROR STAGE》(1940mm×1450mm)は女性を線対称で鏡像として表わした作品である。水色とベージュのチャイナドレス風の衣装(ベージュの部分に貼り重ねた和紙で模様としている)を纏う女性が両膝を突き、画面中央で右肩と足先とが瓜二つの女性と癒着している。女性とその鏡像の間には、白蛇がやはり一方が鏡像のように2匹表わされる。)(尾を食む)ウロボロスではないが、対の蛇には錬金術との連関が暗示されているように思われてならない。女性と蛇の周囲には銀色の記号(文字?)が、背後には山並が左右対称の位置に表わされる。もっとも女性や蛇の表現に比して記号(ないし文字)や山並の形態の相同性は明らかに低く、敢て左右で形が違えられている。シンメトリーはイデアのメタファーであり、アシンメトリーはイデアに到達し得ない人間のメタファーではなかろうか。
《ENERGEIA》(970mm×1303mm)は、草地で正坐する女性と、彼女よりも大きな猫を表わした作品。白味を帯びた青のワンピースの女性が写実的に表わされるのに対し、猫は敢て漫画のような戯画的な線で表わされている。アーチ状に背を伸ばす猫は目を瞑り、背中や尻尾には毛を逆立てる様を表わす線が敢て雑にいくつか入れられている。猫の頭部の上には疑問符が3つほど浮いている。アリストテレス[Ἀριστοτέλης]の「エネルゲイア[ἐνέργεια]」がタイトルに冠されている。質料のうちに実現する形相を指すのであろうか。仙厓義梵の禅画に通じる諧謔から、むしろ「亭前の栢樹子」を表わした作品と読み替えてみたい衝動に駆られる。
(略)井筒〔引用者補記:俊彦〕を批判しているのは小川隆である。『語録の思想史』(2011)の序論「庭前の栢樹子――いま禅の語録をどう読むか」がそれだ。井筒の『意識と本質』に付された論文「禅における言語的意味の問題」を批判している。
素材にしているのは有名な「庭前の栢樹子」である。『無門関』第37則では、「趙州、因みに僧問う、「如何なるか是れ祖師西来る意」/州云く、「庭前の「栢樹子」」となっているが、最も古い記録である五代の『祖堂集』には次のように記されているという。
問う、「如何なるか是れ祖師西来意?」師云く、「亭前の栢樹子」。僧云く、「和尚、境を将って示す莫れ」。師云く、「我れ境を将て人に示さず」。僧云く、「如何なるか是れ祖師西来意?」師云く、「亭前の栢樹子」。
「ダルマが中国までやってきた意味は何か」と問われ、趙州は「そこの庭さきにある樹」と答えた。「外界の事物で示すのはおやめ下さい」と食い下がられると、「わしは外界の事物などで示していない」という。再び問われるが、答えは同じである。この問答の意味は何か。
(略)
(略)井筒はこの一節を引いて、「この問答で質問者が理解している柏樹は普通に分節されたものである。それは我に対立し、他の一切のものに対立して独立する柏樹である。趙州の柏樹は禅的に高次の分節によって成立するものである。それは我をも他の一切のものをも全てを1点に凝集した柏樹である。このように高次の分節によって成立したものを、臨済は「奪入不奪境」と呼ぶ」と述べている。
小川は、井筒の論理が後に「分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)」として定式化されていことを指摘したうえで、「この論理は、おそらくいにしえの禅僧たちが直観的に前提としていた存在と認識の構造を、的確かつ明晰に論理化したものと言ってよく、確かに、これを踏まえることで合理的な解釈を与えうる問答は少なくない」と評価するが、続けて「だが、趙州が当時そのような論理にそって「栢樹子」の問答をおこなったのかと言えば、それはまた別の問題である」と批判している。この問いは当時、すなわち唐代末においては、「実は、自己とは何かを問うものであり、その答えはつまるところ「則心是仏」の一事に尽きている」というのである。
小川は自分の見解と井筒の見解の違いは、「我れ境を将て人に示さず」の1句をどう解釈するかの違いにあるとして、次のように述べている。
井筒論文がこれを「わしは外界のもののことなど言っているのではない」と解しているのは、わしの言う「栢樹子」とは、言語によって分節された箇々の「もの」=「存在者」としての栢樹ではない、同時に非分節の「存在=絶対無限定者」をも示す「高次の分節」としてのそれなのだ、という意であろう。だが、「自己本分事」を主題とするやりとりにおいてなら、この1句はこう解されなくてはならない――わしは「栢樹子」という外物を指しているのではない、その「栢樹子」を見る汝その人を指しているのだ、と。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.284-286)