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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『ポーラ ミュージアム アネックス展 2026「存在の境界」』

展覧会『ポーラ ミュージアム アネックス展 2026「存在の境界」』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2026年3月20日~4月19日。

ポーラ美術振興財団の支援で海外研修を受けた作家の成果発表の場「ポーラ ミュージアム アネックス展」。2026年後期展は「存在の境界」を冠して生と死を主題に3人の作家を取り上げる。2020年に中国に滞在したウチダリナは、陶片は山岳風景のように捉えた写真「静かなる山」シリーズと、和紙をヴェールのように被せた焼物「アマデウス」シリーズとを提示。2023~2024年にドイツに滞在した黒田恵枝は廃棄衣類を用いた空想の生き物の人形「もけもけもの」シリーズと「もけもけもの」を被写体とした写真とを並べる。2023年にベルギーに滞在した敷地理は他者の左手の映像と作家の右手の映像とを組み合わせたインスタレーション《burning dots》と「わたしの身に1つの棘が与えられた」という聖書の一節を舌で読み取るというパフォーマンス《舌上の棘》の痕跡とを出展。

ウチダリナの《静かなる山_2026_1》は青空を背にした2つの尖頭峰、《静かなる山_2026_2》は北極海の海氷あるいは塩湖、《静かなる山_2026_4》は映画『DUNE/デューン 砂の惑星[Dune]』に出て来そうな作沙漠地帯の山並をそれぞれ連想させるイメージである。実際には奥村直樹に提供された陶片を撮影したもの。一種の壺中天としてのミニアチュールの戯れである。

 (略)ライプニッツが証明したように、世界全体が膨張するならば、私たちの目には、何も変化したようには見えないのである。同様に、世界全体が縮小したとしても、やはり私たいはそのことに全く気がつかないだろう。私たちはハムレットのように、「たとえ胡桃の殻のなかに閉じこめられていようとも、無限の天地を領する王者のつもりになれる」のだ。(略)
 ハムレットの胡桃の殻は、ただちに私たちに壺中天の故事を思い出させるだろう。後漢の時代に壺公という仙人が、昼間は市中で薬を売り、つねに1個の空の壺を屋上に懸けておき、日が暮れると跳びあがって壺中に入る。これを見て、その秘密を知りたいと思った町役人の費長房が、苦心の末に仙人に許されて、ともに壺中に跳びこむと、そこはすでに小さな壺の内部ではなく、楼閣や門や長廊下などの立ちならぶ仙宮の世界だった、というのである。小宇宙はすべて、大宇宙の似姿なのであり、私たちの相対論的な思考は、そこに必ずミニアチュールの戯れを発見するのである。ニコラウス・クサーヌスは、これを無限という観点から見て、最大のものは最小のものと一致する、つまり「反対の一致」ということを唱えた。(澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社〔河出文庫〕/2007/p.262-263)

ウチダリナの《Threshold of Vein》は臍の下の刺青の円を捉えたモノクロームの写真。臍とともにある黒い円は子宮をイメージさせる。陶片に山を見る壺中天的眼差しを介し、富士を女神と崇める伝統に則れば、富士山麓の船津胎内樹型における胎内巡りのように、生まれ変わりを体験できよう。「神に愛される者」を意味する「アマデウス[Amadeus]」を冠する、和紙を被せた焼物作品はヴェールを被る聖母像のようで、山=女神と響き合う。

敷地理の《burning dots》は、他者の左手の映像を流す奥側の大きい画面と、作家の右手の映像を流す手前側の小さな画面とで構成される。手が氷水の入った紙コップに伸され、倒し、氷水に触れる。その左手の動きを模倣する右手のイメージが組み合わされる。左手は浮遊する綿毛を受け、猫を撫でる。掌に載せたトマトは叩き潰され、赤い汁が散る。そこから磔刑のキリストの左手へ、離陸する航空機の窓に映る手を介し、手にした花に火が着けられるイメージへ。羊水=誕生から昇天=死への映像詩である。

 見ることが人間にとって特別なのは、人間はなぜか、見ているその対象にやすやすと自己同一化することができるからである。このことはたとえば野球観戦ひとつに明らかである。数千人の観衆が投手と打者の一挙一投足に瞬間的にどよめくのは、観衆が投手や打者に同一化しているからにほかならない。相撲を観戦して手に汗握るのもそうだ。舞台芸術にいたっては、観客を引き込んで自身に同一化させる役者や踊り手こそが名人なのである。(略)
 人はどのようにして相手の身になることができるようになったのか。むろん、母を見習うことによってである。人は、自分の身になって世話してくれる母を見習うことによって自分なるものを形成するのであって、これは要するに他者として対面することによってはじめて自己を見出すということ、つまり他者として自己を見出すということである。(略)
 人は他者として見出された自己を自己として引き受けるのである。思索の起源は自己にあるのではない。かりに自己であるとすれば、それは他者によって媒介された自己なのだ。思索の出発点を自己に置くことはしたがって致命的な誤りであることになる。
 相手の身になることができるということの帰結のひとつは、人は誰にでも何にでも成り替わることができる。海にも山にも成り替わることができる。だから人は、木に向かって誓い、あるいは雲に向かって嘆くのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.75-76)

敷地理は、近藤宏一の「光を失って初めて世界が見える様になった」という言葉に触発された。確かに、反対は一致する。「見える」とは「見えない」ことに通じるのだ。だから視覚(を介し触覚)を扱う作品《burning dots》を反転させ、舌で文字を読む、すなわち触覚を視覚に置き換えるパフォーマンス《舌上の棘》を行ったのだろう。「見えない」ことで「見える」ものがあると。

黒田恵枝は、廃棄衣類を用いて空想の生き物「もけもけもの」を制作する。作家はフランケンシュタイン博士だ。死体(廃棄された衣類)を繋ぎ合わせて、怪物=生命を生み出したからである。もっとも、フランケンシュタイン博士の創造した「怪物」が苦しむのは、言葉を覚えたからであった。

 田村隆一の詩でもっとも有名なフレーズは「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」である。詩集『言葉のない世界』の詩「帰途」の冒頭である。第一連を引く。
言葉なんか覚えるんじやなかつた
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかつたか
 (略)
 人間が人間であることはそれほど自明のことではない。少なくとも、人間は人間が考えているほど人間的な動物ではない。むしろ非人間的といっていいほどである。人間はまず、言葉によって自分を対象化し、他者となたその身体を奴隷化した。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.241-242)

黒田恵枝の「もけもけもの」はフランケンシュタイン博士の「怪物」と異なり、人間の身体(死体)から創造されていない。古着であり、モティーフも人間だけでなく動物や植物とが組み合わされている。言葉により切断された世界をむしろ繋ぎ合わせているのである。そして、その繋ぎ併せには「手縫い」がある。ちょうどフランケンシュタイン博士の怪物が行き着いてしまった氷の世界のように、ツルッとした視覚偏重の世界に生きている者たちに、黒田恵枝は手触りの復権を訴える。