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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『岡崎和郎 ものの記憶・再考』

展覧会『岡崎和郎 ものの記憶・再考』を鑑賞しての備忘録
YOKOTA TOKYOにて、2026年3月9日~4月3日。

一升瓶、庖丁、電球など身の回りの品を象った石膏像や、何かしら付け足した写真を再度撮影した写真などで構成される、岡崎和郎(1930-2022)の回顧展。

《ものの記憶》(1998)は、服や頭髪のない人形、裸電球、竹槍を石膏で象った作品。竹槍のみ離れた壁から突き出す形で展示され、人形と裸電球とは、時計を仕込んだ石膏像《HIROSHIMA TIME》(1991)と一緒に台に載せられている。文字盤には8時15分を指す長針と短針の影が鉛筆で描かれている。タイトル通り、広島に原子爆弾が投下された時刻であり、原子爆弾の熱線による焦げ付きを表現したものと知れる。従って、電球は「ピカ」すなわち原子爆弾そのものであり、同時に歪んだ球体は熱による溶解を示す。人形は被曝した人の姿である。
《庖丁》(1966/2009)は1本の庖丁の形を直方体の石膏の中に表わした作品。半分に割られ、陽刻と陰刻のセットで提示される。庖丁は調理具であるが兇器にもなり得る、その二面性、両義性を表わす。《黒い雨によせて/ハート》(2001)において、白いハートに黒い線ではなく、黒いハートの石膏像に白い線を描き入れているように、作家は常に物事の反対側を意識している。戦争を見詰めることは平和を考えることであり、死を考えることは生を捉えることになる。翻って、1本の庖丁ながら陰陽で2本(ニホン)とも解し得る。ニホンという国家をどう捉えるか。
《日章旗》(2000頃)は、中央に円形の穴が穿たれた矩形の正面を持つ石膏像で、風に靡くようにS字に歪んだ底面を持つ。中央の穴が刳り抜かれた部分だけ赤く塗られ、「日の丸」を模している。 河合隼雄が『古事記』などに見出した日本の中空構造を象徴する作品と言えよう。
《溜》(1997)は3粒の米を載せた円盤に近い石膏像である。円板は餅を暗示する。同時に円鏡である。鏡餅とは「カカ(=蛇)身」の蜷局を巻いた姿の象徴とされる。神社の中心に祀られる鏡であり、蛇は神である(例えば、中国の創世神話における伏羲・女媧せよ)。
《一升瓶》(2011)は一升瓶を模した石膏像で、灰色をしている。御神酒である。死者へ供えられる。同時に、瓶のシルエットは人の姿に見える。人は器に擬えられるところである。一升は一生に通じる。先に述べた如く、死と生とはセットである。

《HITOHA》(1978-79/2008)は植物を捉えた写真の緑の葉の1枚を赤く塗り、さらに撮影した写真である。《ポートレート》(1978/2008)は草地に立つ作家の立像の写真を庇の下に飾り影が被る状況を撮影した写真である。《ガラス》(1978/2008)石畳の写真にガラス板を一部重ねて撮影した写真である。《ライトフルーツ》(2007)は窓越しの庭の木々にガラスに室内灯がフルーツのように映り込んだ場面を捉えた写真である。写真に手を加えたものをさらに撮影する仕種により、フィクションと現実との重ね合わせが指摘されている。ディープフェイクはAIにより齎された事態であろうが、現実は予てより、テクノロジーと組み合わされて認識されてきたのではなかったか。同時に、世界の加工が現実を構成しているなら、芸術=フィクションもまた現実であると、芸術を現実へと解き放とう目論見たかったのではなかったか。イメージに封じ込めることで、却って作品は飛翔するのだ。