映画『ザ・ブライド!』を鑑賞しての備忘録
2026年、アメリカ製作。
127分。
監督・脚本は、マギー・ギレンホール[Maggie Gyllenhaal]。
撮影は、ローレンス・シャー[Lawrence Sher]。
美術は、カレン・マーフィ[Karen Murphy]。
衣装は、サンディ・パウエル[Sandy Powell]。
編集は、ディラン・ティチェナー[Dylan Tichenor]。
音楽は、ヒドゥル・グドナドッティル[Hildur Guðnadóttir]。
原題は、"The Bride!"。
私よ、メアリー・シェリー(Jessie Buckley)。『フランケンシュタイン』を書いた。誰もが愛する作品でしょ。だけどあれは序の口だったの。書きたかったこと、言いたかったことが山ほどあるわ。でも無理だった。考えることさえね。脳に腫瘍が出来たから。何も書けずに死んだのよ。すぐに目が覚めてここにいることに気付いたわ。どこだか知らないけどね。何世紀もの間、腫瘍、夢、物語を頭の中から取り出そうとしたの。亀裂から言葉が漏れ出ようとしてるわ。幽霊譚、恐怖譚、分けても恐ろしい恋愛譚。始まりは、差し当たりアイダと呼ぶ女性。女性らしく弁えようとして地獄にいる。彼女にも亀裂が走っているの。そこに私が忍び込むことになるわ。憑依するの。2つの精神を有することこそ、この恐ろしい物語が語られるのに唯一相応しい手段なのよ。さあ、花嫁の出番よ。メアリーが狂ったように笑う。
1936年。シカゴ。豪奢なレストランで、アイダ(Jessie Buckley)が他の女たちとヴィート・ルピーノ(Zlatko Buric)一味の酒席に加わっている。酔った連中にアイダはメイブル(Massiel Mordan)とキスするよう求められる。男の仕事を女に奪われるのは我慢ならんな。固く閉じた貝をこじ開けるのに必要なものが何だか分かるか? タフガイ。座が沸く。クライド(John Magaro)にブーツを見せてやれと言われアイダがテーブルの上に脚を投げ出す。ジェームズ(Matthew Maher)にこっちへ来いと言われるが断る。ジェームズから牡蠣を差し出されると貝なら股の間にあると撥ね付ける。アイダは牡蠣がダメなのと助け船を出す女性がいるが、ジェームズは頂戴しますと言えとしつこく言う。頂戴しますと言ってアイダがジェームズの手にする牡蠣を口にする。ジェームズのシャツに吐き出す。アイダが異常を来したように身体を仰け反らせ、誰かが憑依したようにイギリスのアクセントで語り出す。私の夫パーシーはキーツを愛し、私の机には埋葬布に包まれた彼の心臓が置かれていた……。アイダはカウチの上に立ち上がり喚く。本物の怪物がいるとカウンター席のルピーノを指差す。私はカナリア。ずっと口を塞がれてきたけど死者は全てを知っているわ。私の舌も切り落とすつもりよ。死者を黙らせることは警察署長でもマフィアのボスでも無理。ルピーノに掴みかかろうとするアイダはクライドとジェームズに階段室に連れ出された。ルピーノの前でそんな口の利き方をして、死にたいのか? 泡を吹くような、痒みのような、耐え難い不快感で一杯。ジェームズが平手打ちし、アイダも平手打ちを返すと、さらにジェームズが平手打ちする。クラウドがジェームズを止めるが、アイダは機関銃のように喋り続ける。何かが取り憑いてんだ。クラウドが殴ると、アイダは階段を数段落ちる。アイダはジェームズに向かって言う。お前のモノは臍みたいだ。玉の後ろに隠れて見えない。興奮したら多少は大きくなるのか? ジェームズがアイダを殴る。止めろ、取り憑かれてるんだ。医者を呼べ。アイダはヒステリックに捲し立てる。ディオダティ荘の怪奇談義、そして『フランケンシュタイン』について。続編が出る。反抗は手に負えないものになる、全てが変わる。言いたいことはまだまだある。恐怖に囚われたクライドに押され、アイダは身体のあちらこちらをぶつけながら階下へ転がり落ちる。アイダに憑依するメアリー・シェリーが快哉を叫ぶ。革命が起きつつある! 『フランケンシュタイン』にゾッとした連中は、続編では叫んで助けを求めることになる! 階段下の床には動かなくなったアイダ。
新聞の売り子の声が響くシカゴの雑沓を防止を被り目元以外をスカーフで覆った男(Christian Bale)が歩く。通りすがりの紳士に道を尋ねるが怖がって相手にしてもらえない。男は何とか高層ビルの建ち並ぶ一画にある目的の建物に辿り着く。
男が待っていると眼鏡を掛けた女性(Annette Bening)が現われ、何の御用かと尋ねる。ユーフロニウス博士にお目に掛かりたい。急を要しまして。私はフランケンシュタインです。父の名ですが。帽子を取って頂けます? 失礼しました。額の縫合傷が現われる。どちらのお生まれ? 生まれ? 造り出され、甦らされた。バイエルン州のインゴルシュタットです。1820年頃? 1819年。1936年ですよ。100歳を軽く超えていることになりますけど。その通りです。どう言っていいか。スカーフも外してもらえます? できれば外したくはありません。やむを得ず傷だらけの顔を見せる。女性は踵を返す。怖がらせるつもりではなかったんです…。検査させて下さい。すいません、博士との面会は可能でしょうか? どちらの博士? ユーフロニウス博士です。『事象の地平面』や『特異点の誕生』、『再活性化の技術』を著わされた。何度もお手紙を差し出したんですが、返事を頂けず…。私がそのユーフロニウスですよ、フランケンシュタインさん。
1936年。シカゴ。アイダ(Jessie Buckley)はヴィート・ルピーノ(Zlatko Buric)率いるマフィアの一味の酒席に加わっていた際、苦手な牡蠣を口にさせられたことをきっかけにヒステリーを起こして喚き散らし、死者の口封じは不可能だとルピーノに食ってかかる。実は生前に書きたいことを書き尽くせなかったメアリー・シェリー(Jessie Buckley)がアイダの心身の不調に乗じて憑依していた。ルピーノの指示でクライド(John Magaro)とジェームズ(Matthew Maher)によりアイダは文字通り葬られた。1819年にフランケンシュタイン博士によって死体の部位の組み合わせで創造された「怪物(Christian Bale)は醜悪な容貌に強いられる孤独な生活を、ポリオによる障害を微塵も感じさせず活躍する映画俳優ロニー・リード(Jake Gyllenhaal)を心の師として生き長らえてきた。時に呼吸もできないほどの神経痛に襲われる「怪物」は『再活性化の技術』などを著わしたユーフロニウス博士(Annette Bening)を訪ね、心身の交わりを可能にする伴侶を手に入れたいと所望する。博士は「怪物」とともに真新しい墓を曝き美しい女性(Jessie Buckley)の亡骸を手に入れる。博士が彼女を蘇生させると、彼女は死者であったことや以前の名前を覚えていなかった。彼女には時にメアリー・シェリーとして振る舞う。名前のない美しき女性は博士の研究室に囚われていることに我慢がならず、「怪物」とともに街へ繰り出す。
(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)
十分に書きたいことを書けないままこの世を去ったメアリー・シェリーが、『フランケンシュタイン』の続編を描こうと試みる。続編は小説ではない。男性に抑圧されてヒステリーを起こした女性アイダに憑依することで、現実へと踏み越え、介入していく。だからメアリーは警告する。フランケンシュタイン博士の創造した怪物に恐懼した者は、続編では助けを求め叫ぶことになると。本作には登場しないが、『フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリーの母親メアリー・ウルストンクラフト[Mary Wollstonecraft]はフェミニズムの先駆者である。メアリー・シェリーがフェミニストととして『俺たちに明日はない』1930年代の女性に憑依して暴れ回る、文学、映画、フェミニズムの痛快作。
マフィアの領袖ルピーノの酒宴で、アイダは苦手な牡蠣をジェームズに無理矢理口にさせられる。アイダは受け付けることができず吐き出してしまう。そのやりとりの直前には、牡蠣をこじ開けるには何が必要かというなぞなぞが話題にされる。答えは"mussel"(ムール貝)で、"muscle"(筋力)との駄洒落である(日本語字幕はタフガイ。"guy"と貝!)。無論、貝は女性器のメタファーであり、男が力尽くで奪うことを示す。すなわちジェームズがアイダに無理矢理牡蠣を食べさせるのは、レイプを間接的に描いているに等しいのだ。この「レイプ」によりアイダは心身に不調を来す。アイダはルピーノ一味の遣り口を暴露する。アイダが言っているのではない。罅割れたアイダの精神――これも陰裂の隠喩であろうが――に付け込んだメアリー・シェリーが話しているのである。もっとも、端から見れば、アイダが虚を言っているか、狂ったとした捉えないだろう。
ところで、テネシー・ウィリアムズ[Tennessee Williams]の戯曲『欲望という名の電車[A Streetcar Named Desire]』では、主人公のブランチが退役軍人のスタンリーによりレイプされ、狂気に陥る。
ブランチがいっとき恋したミッチは「真実」を言えとブランチを責め立てる。そのときのブランチの科白がひどく私の心をとらえて放さなかった。
「真実なんて大嫌い(略)私が語るのは、真実であらねばならないこと。それが罪なら、私は地獄に堕ちたって構わない」
さらに嘘をついていたのだな、と詰め寄ってくるミッチに「ちがうわ、少なくとも心のなかでは嘘をついたことはなかった……」と答える。
ただ真実、あるいは真実であってほしい、あるいは真実であらねばならなことを語っているだけなのに、人は自分を嘘つきだと言い、狂っていると言う。
ブランチは嘘を言っているのではない。自分のなかでわきおこる真実を口に出しているだけなのに、人はそれを嘘と言う。「真実であらねばならないこと」とは、世界はこうあってほしいという、人を信じられる場所への願いのようなものではないか。
いまここにある現実のことを「真実」と呼ぶのなら、世界は残酷すぎる。目を見開いて生きていくことは到底できない。曇りガラスの向こうに、ぼんやりとした霞の向こうに、世界を感じることしかできない。
でも夢のなかでブランチが感じる真実の世界は、人がみな信じあい、ほがらかなパーティーで交わす人々との厚意の雰囲気のようで、決してスタンリーのように
すぐに皿や物を投げたり、口汚く罵ったりする世界ではない。
それがどんなにお高くとまっていると言われても、ブランチはそう育ってきたし、礼儀にあふれた真実の世界を信じてきたのだ。
スタンリーの言う「真実」はただの現実。この世界には現実しかないというのか。嘘をつかないというのは、この汚い世界を、曇りガラスなしで見ろとでもいうこと、到底そのままの姿では直視できないのにもかかわらず、人はただ「真実」を強要する。
(略)
抱えきれない想いが溢れたとき、人は過剰に振り切れ、それを人は病と呼ぶ。医学的に無根拠だと責め立てられてもかまやしない。人を追い込むのは、人だ。
(略)
しかし……ひるがえって考えてみよう。私はこの稿の最初で「物語のなかの狂女たちは、「狂う」という傘のもとで自由に操作でき、より従順に、あるいは男性にしなだれかかる扱いやすい女として描かれ」てきたと書いた。男性作家たちにとって都合のよい狂女像は、真実彼女たちのやむにやまれぬ「助けて」という叫びの現われだったのかもしれない。(中村佑子「女が狂うとき 15:ただ真実を語っているだけなのに―ブランチに捧ぐ」『図書』第921号〔2025年9月〕/岩波書店/p.62-63)
ルピーノに刃向かう女性は舌を切られてきたのが象徴的である。女性は辯るのではなく辨えるよう抑圧されているのである。辨えず、辯る女は狂っているとして抹殺されるのだ。アイダもまた口封じのために殺される。だがアイダは復活を遂げる。ゾンビに口なしとは行かないのだ。ボニー&クライドには明日はなくとも、フランク&ブライドには明日はあるのである。
「怪物」の伴侶として生き返ったアイダ(但しアイダとの認識を失っている)は、町に繰り出して2人組の男に襲われる。「怪物」が2人を殺害したことで「怪物」は彼女を置いて姿を眩ませようとする。だが行き場のない女性は「怪物」と行動をともにする。「怪物」の行く先は、憧れの映画俳優ロニー・リードの出演作の縁の地であり、各地の映画館で作品を鑑賞することになる。ロニー・リードの作品と逃避行を続ける2人の姿が重なり合う。
偶然ロニー・リードと遭遇した「怪物」はけんもほろろな応対を受ける。「怪物」は精神に異常を来し、ヒステリックに踊り始める。「怪物」のヒステリーは、「伴侶」だけでなく、周囲の女性たちにも感電し、集団ヒステリーのような集団演舞となる。
2人組の男性の殺害事件を追う刑事のジェイク・ワイルズ(Peter Sarsgaard)は極めて有能な部下ミルナ・マロイ(Penélope Cruz)を伴っている。ミルナが犯人の行方を知る手掛かりを次々に手に入れる。だが捜査関係者はミルナが単に女性であるという理由でまともに取り合わない。
メアリー・シェリーについては『フランケンシュタイン』創作・出版の経緯を描いた映画『メアリーの総て[Mary Shelley]』(2017)がある。