可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 保良雄個展『ハクハック』

展覧会『保良雄「ハクハック」』を鑑賞しての備忘録
CADAN大手町にて、2026年4月1日~18日。

下水汚泥焼却灰を用いて制作した煉瓦や絵画を中心とする、保良雄(やすら・たけし)の個展。

入口の正面の壁に展示されている《BLOCK-Cuit》(65mm×173mm×52mm)は撓み亀裂の入った煉瓦である。横浜市の港北水再生センターで採取した汚泥焼却灰で作られた《BLOCK》(100mm×210mm×60mm)を高温で焼いた結果、縮んで歪み罅が入っている。江戸通りに面したガラス壁面から見えるように展示された《けんこうなうんこかばなな》(380mm×540mm)もまた同じ汚泥焼却灰を用いて、人糞ないしバナナを描いている。《BLOCK-Cuit》の描く弧は《けんこうなうんこかばなな》の弧と相似する。壁に貼り付けられたバナナと言えば、マウリツィオ・カテラン[Maurizio Cattelan]がダクトテープで壁に貼り付けたバナナ《コメディアン[Comedian]》である。仮に《コメディアン》を十字架上のキリストに見立てるなら、《けんこうなうんこかばなな》も《BLOCK-Cuit》もまたキリスト像と言える。キリストは完全な人間でもあり、『創世記』(2章7節)にある通り人間が土塊から作られていることを踏まえれば、《BLOCK-Cuit》や《けんこうなうんこかばなな》もまた土塊から生まれた人間であり、キリストであり、コメディアンということになる。因みに、《ゆるいうんこ》(900mm×565mm)も、《けんこうなうんこかばなな》(380mm×540mm)と同じく汚泥焼却灰で描かれた絵画で、頭部・胴部・脚部の部位に抽象化された人物に見えなくもない。ジャン=フランソワ・ミレー[Jean-François Millet]の絵画《落穂拾い》を模写した《Still Gleaners》(205mm×295mm)は、稲藁とセイタカアワダチソウとを支持体にしている。排泄物から排泄物を描く《けんこうなうんこかばなな》・《ゆるいうんこ》同様、落穂に落穂を描く。
《BLOCK》は展示指示書に従って、床に5行×5列で、中心の1個を欠いた24個が整然と並ぶ。"24"は24時間、すなわち路盤材などとして都市そして人を四六時中支えていることを暗示するらしい。では、なぜ中央が空けられているのか。
ところで、《けんこうなうんこかばなな》の展示される壁面にはドアがあり、開けるとピエロに扮装するための衣装や鏡などが設置された楽屋となっている。ピエロとは道化、アルレッキーノであり、コメディアンである。

 いわば、アルレッキーノ役者が、身振り、科白の音声的要素、マスク、帽子、幣の一部に科白の意味論的要素を組み込む時に、彼が行っているのは、日常的情感に支えられた人間および世界像の破壊なのであり、そこで人間は、徹底して「物」の集合体に置き換えられるのである。そして、同時に起こるのは、行為、身振りの解釈にべったりとまつわりつく、日常性の剥離であり、それらの部分は、日常生活では捉えられないイコン的意味作用の媒体と化すのである。そして解体した世界および人間をつなぎとめるのは、日常世界での無意味な行為の真の意味を身体そのもので知っている道化としてのアルレッキーノなのであり、筋の展開でそれがすでに読みとられるように、アルレッキーノは日常世界の擾乱者、破壊者であるとともに、日常性を越えた世界を指向し媒介しそこでの真の実力者なのである。(略)アルレッキーノの真の武器が、仮面性とマイムであるという事実はもっと深い意味を帯びている。マスクについてメルヒンガーは次のように述べる。
「マスクと衣装とは、2つあわせてはじめて生きる。2つとも人類の年齢とほとんど同じくらい古いらしい。いずれにせよ、人類と同じように若いのである。毎年カーニヴァル(感謝祭)になると、人々は仮装、覆面、つまり、〈いつもとちがうもの〉になる喜びにひたる……われわれすべてのものにナルシス(自己陶酔)的にひそんでいるものが、突如として本能の中にあらわれる――われわれは鏡の前に立つ。われわれはいつものわれわれではない。……もともとは、ある人間を別な自分に変えるための仮装全体を指して、《マスク》といった……《マスク》とは仮面だけでなく、あるいはカーニヴァルの衣装だけでもなく、てっぺんからつま先まで仮装した姿のことである。……楽しく、それだけに興奮を倍加させることは、われわれが別な人間となって他の人間の中に自分の姿を映してみることである。われわれはその倒錯に陶然となる。自分の正体が人にわからなければわからないほど、ますます自分から離れたいという欲望がつのる。……それはもはや地上でないように見える地上を、地面に足がついていない物体みたいにふわふわ歩きまわりたいという希望である。……マスクの暗示性は、存在と仮象とのあいだの緊張にあるのであって、仮象の現実化のような、実現不可能なことにあるのではない」
 即ち、アルレッキーノのもう1つの役割は、日常性を破壊することにより、我々をメルヒンガーのよういうような中間地帯に導くことにあるのだ。それ故、アルレッキーノを中心に考えれば、芝居の筋書きは、そういった飛翔を援け可能にする想像力の枠組の設定を可能にするある種の神話的状況の舞台装置の一部に過ぎないとも言い得るのである。(略)
 いわばアルレッキーノの行為の磁力の強い無意性が我々に働きかけるのは、ジャン・ヴィラールのいう次のような演劇の基点においてなのである。「演劇は非現実・夢・魂の魔術・呪術である。そしてそれがたとえ現実であるとしても、この現実はわれわれの頭をがつんと打ち、目をまわさせ、われわれを演劇の向うへ抛り出す……」。演劇つまりそれは、この世とこの世ならぬものの境界すなわち黄泉平坂なのである。マイムがそのような力を持つとしたら、その力はマイムのどうような性質に由来するのであろうか。この点で我々はふたたびメルヒンガーを引かなければならない。
「マイムというものが、それがなにごとかを意味するよりずっと以前に、精神によっても意志によっても把握あるいは操作できないところの根元的な、純粋に身体的な喜びとして、俳優の中にはじめからあったであろう……(そして)言語は、それが意味となり、精神となる以前に、すでにマイムである……」
 (略)そして結論的にいえば、アルレッキーノがその全体性において我々を導くのは、劇の始原的な地点すなわち、人間がそこで真の「世界」とのかかわりを回復し、甦る地点へなのであるということになるのである。(山口昌男『道化の民俗学』岩波書店〔岩波現代文庫〕/2007/p.18-22)

《BLOCK》は人間であるとともに、意味を剥奪された人間、すなわち「物」なのだ。そして床に5行×5列で並べられた24個の《BLOCK》の空白が意味するのは、「真の『世界』とのかかわりを回復し、甦る地点」、「あるいは「この世とこの世ならぬものの境界すなわち黄泉平坂」なのである。人間は再び土塊へと還る。

 仔猫のごとき柔軟さと背中合わせに、出自および演技において日常的世界を脅かす悪魔性をアルレッキーノが潜めていることを知っている我々には、我々の時代のデュシャルトルの次の言葉は、詩の本源に近い意味での生成という行為にかかわるアルレッキーノの詩的性格が言葉のうえで再現されている(これは稀有のことに属する)ことを認めないわけにはいかないであろう。「アルレッキーノの同僚たちが、一般に社会的類型を舞台に定型化されたものであるのに対して、微妙で、愚かしく、(常に空中に漂う)アルレッキーノは、幻想の奇異な人格化であるらしい。彼は時にはデリケートで、時には荒々しく、騒々しいと思った次の瞬間には憂愁をたたえており、時には狂気の奔流のなかに身を躍らせるといったふうに想像力の全階調を一心に内包している。彼は根っから筋肉的であり、身振りによってアクセントがつけられ、とんぼ返りで間が入れられ、哲学的思弁と不協和音で豊かにされた新しい詩型の、彼自身も気がつかず、人に認められることもない創造者だったのだ」。
 だが同時に、我々は、民俗の胎内に育まれていた冥界の王アルレッキーノの舞台空間で自由な飛翔を助けたのは、外ならぬルネサンスという思考空間であったことを忘れることはできないであろう。いわば、アルレッキーノは、カッシーラーがピコ・デラ・ミランドラの人間観の革新的部分として説明する次のような、思惟の舞台的形象であったのだ。「ピコが、人間の明瞭な特権として主張したのは、人間外のままに自らを無限に変身させることができるという点であった。人間はどのような形態にも押しこめられたり、留めおかれたりしない存在、すなわちどのような(形)にも入り込む力を備えている存在なのだ。……人間はある意味で、すべての色で輝きを帯びた玉虫いわば真のカメレオンなのである」。このような可能性を実現したとき人間は神性を帯びるというのがピコの立場であるとすると、我々は、アルレッキーノが同じ可能性の実現において、民俗的想像力との回路を回復し、ヌミノーゼ(魔性)を帯びるとい言うべきであろう。いわば、アルレッキーノは、人間と人間を超えたもの、日常と非日常、此岸と彼岸の中間に、すなわちすべてのものがたえず生成する地点に立っているヘルム(境界石柱)であり、その神話性においてヘルメスと対応する充分の性格を備えていたのである。(山口昌男『道化の民俗学』岩波書店〔岩波現代文庫〕/2007/p.152-153)

汚泥焼却灰による人間像、そして煉瓦は、「人間はどのような形態にも押しこめられたり、留めおかれたりしない存在、すなわちどのような(形)にも入り込む力を備えている存在」であり、「このような可能性を実現したとき人間は神性を帯びる」ことを表わしているのである。それに対し、高温焼成により変化し得ない煉瓦《BLOCK-Cuit》は、差し詰め地獄の業火ならぬ高温化する地球に焼かれる人間を象徴するのみならず、人間の可能性、神性を否定するものであった。
綺麗は汚い、汚いは綺麗。作家はアルレッキーノを演じてみせるのである。