可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『鍵』

映画『鍵』を鑑賞しての備忘録
2026年、日本製作。
94分。
監督は、いまおかしんじ。
原作は、谷崎潤一郎の小説『鍵』。
脚本は、松本稔といまおかしんじ。
企画は、利倉亮と郷龍二。
撮影は、中澤正行。
録音は、山口勉。
整音は、山田幸治。
美術は、成田大喜。
編集は、蛭田智子。
音楽は、宇波拓。

 

リヴィングルームの棚に遺影が飾られている。剣持(吹越満)が自分の遺影を眺める。カウチには妻の郁子(菅野恵)が仰向けに寝て、木村(小出恵介)が彼女の足をマッサージする。どう? 最高。ヤバい、眠くなってきた。いいよ、寝ちゃえば? 矢鱈お腹空いた。ずっと何か食べてる。OK、OK、食べて寝て、いいんじゃない? いつの間にやら郁子は眠りに落ちている。本当寝たよ。お子ちゃまかよ。木村が郁子にブランケットを掛けてやる。木村が彼女の頬にキスして部屋を出て行く。郁子と木村とのやり取りを眺めていた剣持は激しい嫉妬に駆られる。そんな剣持に死神(治田敦)が不満を漏らす。駄目だ駄目だ、こんなことじゃいつまでも成仏できない。あの世に連れて行くのが俺の仕事だ。死んだ魂は49日間に7回裁判を受けるのだ。初七日には三途の川で…。死神は剣持に地獄の審理手続を滔滔と説明して聞かせ、最終的に極楽に往くチャンスが無い訳では無いことを伝える。それでも剣持は妻の顔に触れる。剣持の手の感触を感じられない妻に何の反応もない。剣持は溜息を吐く。鳥の声がして、郁子が目覚める。…剣ちゃん? …変な夢見たな。郁子が起き上がる。
ただいま。剣持が帰宅する。剣ちゃん、出来たんだよ、赤ちゃん! 郁子が妊娠検査薬を手に興奮して言う。…あぁ、お目出度う。やったね! …それ、もう1回、見せてくれる? 剣持が検査キットの窓を確認する。これ、陰性じゃないかな、線1本だから。陽性なら2本入るんじゃないかな。…そうだっけ? 郁子がパッケージの説明を確認する。そうだった…。大丈夫、大丈夫。剣持が郁子を抱き締め慰める。
ああ、さっぱりした。お風呂入ってくれば? 風呂上がりの剣持がダイニングテーブルの郁子に声を掛ける。あとちょっと。インテリアデザイナーの郁子はタブレットでデザイン案を検討している。剣持が郁子の隣に坐る。…郁子、実はさ…。剣持が話を躊躇っていると、画面から目を離した郁子が訊ねる。何? 聞いてなかった。これ、石崎邸のデザインなんだけど、アメリカンスタイルでって話だったのに、北欧風にしたいって。コロコロ要望が変わるの。剣ちゃん、足揉んでくれる? 剣持がカウチに先に行く。おいで。郁子がカウチに横たわり、剣持が足の裏を指で押す。

 

工務店を経営する剣持(吹越満)は、膵臓癌のステージ4で余命半年と宣告されたことを、愛する妻・郁子(菅野恵)に打ち明けられずにいた。インテリアデザイナーの郁子とはかつて仕事を通じて知り合い、歳の差と離婚歴とから一線を越えられずにいたが、部下の木村(小出恵介)の後押しもあり結ばれた。夜の営みで郁子に応えられず焦燥する剣持は、偶然再会した前妻の敏子(丸純子)に余命半年と告げ、郁子が浮気でもしてくれればと溢す。剣持は、敏子と一緒にいたところを目撃され、郁子から隠し事があるのではと訝しがられる。剣持は残された日々に実現したいことを明らかにするべく、敏子に薦められたエンディングノートに郁子に対する赤裸々な思いを綴り始めた。俺はあと半年で死ぬ。郁子にはどうしても言い出せない。俺が死んだ後、郁子が誰かに抱かれるなんて我慢できない。俺はどうしたらいいんだ?

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

死期が迫り狼狽する愛妻家としっかり者の妻との愛情を描くコメディ。谷崎潤一郎の小説『鍵』が原作だが、死神が登場するなど大胆に翻案されており、文学作品と構える必要は無い。愛する妻に自分が何かできるかと焦燥する夫を吹越満が、愛嬌があり機転の利く妻を菅野恵が魅力的に演じる。
剣持の工務店は、石崎邸の自宅改修工事を請け負う。妻(佐倉萌)はアイランドキッチンを望むが、既存の配管が活かせないため費用が高額になると木村が説明すると、夫(那波隆史)は渋る。住宅のリフォームは、夫婦関係再構築のメタファーである。
剣持は余命半年であることを郁子に告げられない。愛する郁子には、自分の亡き後も幸せでいてもらいたい。そのために郁子が浮気することを望む。同時に、愛する郁子が他の男に抱かれることを考えると嫉妬せざるを得ない。他方、郁子は、愛する剣持が自分に他の男と関係を持つよう薦めることが理解できない。剣持の病苦をともに耐え忍ぶ方がいいと考える。夫婦はお互いを思いながら、考え方が擦れ違う。
本作に登場する鍵は、郁子がインテリアデザインの仕事部屋として結婚前から用いている、工務店近くの1Rマンションの部屋の鍵である。部屋は郁子であり、剣持に与えられた鍵は、剣持に郁子が心を許していることを示す。鍵には、郁子の好物である柿ピーがキーホルダーとして附属する。柿ピー(の入った硝子瓶)が繰り返し登場する。郁子は行為中に噛んで欲しいとせがむことも暗示しているのだろうか。
死神は死期の迫った剣持の傍に姿を表すようになる。だが剣持はその存在に気付かない。剣持が自らの亡き後を考えて手に入れた、メタ視点の擬人化とも言える。メタ視点はエンディングノートによって構造化される。
木村は女性に苦労していない男だが、偶然再会したサリナ(新藤まなみ)から結婚しても時々会いたいとの要求を断る。木村は不倫をしない男であることが示される。

(以下では、全篇に言及する。)

郁子は、木村と関係を持つという剣持の計画を受け容れると、まずは離婚届を提出すると言う。剣持の想定を超えて郁子が動き出す。そして、郁子は不用意に赤い日記帳をテーブルに置いていた。郁子は慌てたそぶりを見せ、日記は誰にも読ませないと言う。郁子の目論見通り、剣持は日記を盗み読むと、剣持には無い、木村の長所が記されており、思わず叫び声を上げるほどの激しい嫉妬に駆られる。この嫉妬心が剣持を刺戟となり、郁子と行為に及ぶ。この時点では、郁子とは「離婚」している(「離婚届の提出」後、郁子からは、そこのおじさん呼ばわりされる)上に、木村と交際している。剣持は「寝取る」ことになるのがポイントである。セックスに到る前に、郁子にカメラを向けるのは、写真を撮ることが木村から郁子を盗ることを示す。
剣持の病状が進行した頃、3人は海に向かう。激しい病苦に耐えかねる剣持は入水自殺を図ろうとする。海に入った剣持を郁子が追いかけ、生きないと許さないと思い留まらせる。2人で眺める夕陽は、郁子が剣持に添い遂げることを暗示する。郁子は剣持に告げる。出来たんだよ、赤ちゃん。2人の擦れ違いの愛が、うまく噛み合ったことを新しい生命が証明する。それが可能になったのは、郁子の愛情の深さと機智とにある。