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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 岩花周午個展『Nの肖像―頬に触れる―』

展覧会『岩花周午「Nの肖像―頬に触れる―」』を鑑賞しての備忘録
KOMAGOME1-14casにて、2026年6月2日~15日。

画家・櫻本乃映が粘土で即興的に造形した人物をモチーフに制作した「Nの肖像」シリーズを展観するという体で行われる、岩花周午の個展。

《Nの肖像 No.001: 横たわっている》(530mm×455mm)は、墨色の画面に粘土で作った横たわる人物を表わす。腕や脚が繋がっておらずバラバラである。熊谷守一が轢死体を主題とした《夜》に通じよう。
《Nの肖像 No.002: 目を閉じている》(273mm×220mm)は、藍色ベタ塗りの画面に粘土による頭部を表わした作品。頭髪、耳、目、口が凹凸のある顔に貼り付けてある。閉じた目は下向きの弧、顔は棒と、素朴な造形である。《Nの肖像 No.003: 掌を広げている》(530mm×530mm)には、成型する際の凹凸が残る粘土製の胴体、左脚、左腕が藍色の画面一杯に表わされる。肩は無く、左腕の先端、折り曲げた左足の頂点たる左膝の位置、換言すれば腕・腿・臑の3つの線の交点に、主題たるやや開いた手が配される。《Nの肖像 No.004: キス》(455mm×380mm)は、粘土で形作った2つの横顔を積み重ねた様を藍色を背景に表わした作品。下向きのカーブを描く弧による閉じた目と、耳以外の部位は曖昧な形である。抽象度の高いイメージは、コンスタンティン・ブランクーシ[Constantin Brâncuși]の《接吻[Sărutul]》を想起させる。
《Nの肖像 No.006: 頬に触れるⅡ》(1455mm×1120mm)には、黒に青を重ねたベタ塗りの背景に直方体の台座に置いた右手で顔の左半分を覆った頭像が描かれる。棒状の目や口など抽象度の高い頭部が30度ほど傾いている点から、ブランクーシの《眠れるミューズ[Muza adormită]》を連想する。《Nの肖像 No.005: 頬に触れるⅠ》(1455mm×1120mm)は、直方体の台座に載せられた跪き左腕を前に伸す無頭の人物彫刻を右から捉えたイメージを画面右上に、水平に伸した左腕と、その左手によって触れられる右向きの人物頭部とを画面下段に、それぞれ表わした作品。《Nの肖像 No.007: 頬に触れるⅢ》(1455mm×1120mm)は、立方体の台座に載る右脚とそれと向かい合う台座のない左脚とを画面左上に、半ば指を曲げた左手を画面下半分にそれぞれ描いた作品。Ⅱを中心にⅠとⅢとが挟む三連画のように配されており、統一された背景色により一体感があるため、5つの部分を「頬に触れる」状況を描く1つの「物語」として読み解くこともできるだろう。
《Nの肖像 No.008: 抱擁》(1167mm×910mm)は水色の画面に抱き合う人物の上半身像を表わした作品。手前の人物は頭部と胴体のみで、奥側の人物は頭部と手前の人物の背中に廻された両腕とが表わされる。《Nの肖像 No.009: 足の裏を合わせる》(410mm×318mm)は水色の画面に影を着けて、2人の人物が向かい合って腰を降ろして合わせた足だけを描き出す。
《Nの肖像 No.012: 振り返る》(455mm×380mm)も水色の画面に右向きの頭像を表わした作品。目鼻が再現されない抽象性の高い像は、やや振り返るように首を捻り、像主の向きは逆であるがヨハネス・フェルメール[Johannes Vermeer]の《真珠の耳飾りの少女[Het meisje met de parel]》を連想させる。
《Nの肖像 No.010: お前の長い睫毛》(333mm×242mm)は、粘土で作った顔の左眉と左の睫毛とを表わした作品。背景は描かれず、顔の左目部分をクローズアップしてある。
《Nの肖像 No.011: 見つめている》(273mm×220mm)は粘土製の顔の両眼を接写したイメージ。防犯ステッカーのように鑑賞者を見据えるのではなく、視線は右斜め前に向けられている。本展では入口脇の柱に設置されており、眼差しは受付(≒作家)に向けられている。否、《Nの肖像 No.001: 横たわっている》に向けられている。

『Nの肖像―頬に触れる―』という展覧会――そして表題作――の題名は、視覚と触覚とに対する作家の関心を示すものである。その所以は、会場には作品のモティーフとなった粘土の彫像が展示され、彫像≒触覚をモティーフとする絵画≒視覚という構造が提示されていることである。それでは、「Nの肖像」の"N"とは何であろうか。「N=Nobody」との仮説を立ててみたい。

 ここ〔引用者註:ホメロスの『オデュッセイア』の第9歌「キュクプロス」の物語〕でオデュッセウスが自分の名として口にする「ウーティス」utisとは、"no-man"ないし"nobody"を意味するギリシャ語である。問われた自らの名を名乗ることなく、その被提示の答えが同時に「誰でもない」という固有名として通用してしまう二律背反を利用しながら、ここでのオデュッセウスの言語的詭計は見事に功を奏する。いわば彼は、「無名」という負の属性を、逆に「誰でもない者」という正の属性へと反転させることによって、単眼の巨人の暴力的で一元的な論理を破綻させたのだといえる。(略)
 ロイヤル・シェイクスピア劇場の委嘱により、ホメロスの『オデュッセイア』を翻案して現代劇の舞台脚本として書かれたのがデレク・ウォルコットの『オデュッセイ――舞台版』(1993)である(略)。
 (略)
 (略)ウォルコットの戯曲では、のちにキュクロプスは「ノーボディが逃げた! ノーボディが私の眼を突いた!」と叫ぶが、それを「誰も逃げていない。誰も眼を突いてはいない!」と解釈する仲間の誤解を正すように、キュクロプスは再度こう叫ぶのである。「ノーボディ! 聞えるか? あいつの名がノーボディなのだ!」
 ウォルコット劇においては、この場面がすでに「ウーティス」の言語的呪術は破られている。いや、破られているというよりは、〈無名者〉という戦略が、キュクロプスの側にも分け与えられているというべきだろうか。言語的「理解」を妨げることによって成立していた詭弁の情景は、こうして、敵味方の双方に謎が「共‐与」された神話的な風景へと変貌する。海の神ポセイドンの息子である単眼のキュクロプスにたいし、オデュッセウス=ウォルコットはここで、2つの眼を持つ人間として、その悲哀と善悪と泣き笑いの二元的均衡/離反のなかで生きる者の宿命を、静かに指し示しているのかも知れない。(今福龍太『群島‐世界論[パルティータⅡ]』水声社/2017/p.194-198)

Nobodyとは、「2つの眼を持つ人間」であり、「二元的均衡/離反のなかで生きる者」である。神と人間、善と悪のような二元論は、人間に神の眼差しに対する欲求を抱かせる。その結果生まれたのが遠近法であり、リアリズムの空間認識である。

 いわゆるリアリズムとは、特定の文化の産物であり、子供が殴り描きから図式、写実と発達するのは、外からの文化的介入なしにはありえないことであった。こうした文化のなかでの子供の描画には、描かれた「人形の家」に似たイメージが発生してくる。たとえばG.H.リュケによって「透明画法」とよばれたもので、「あたかも家の壁が透明であるかのように家具や住人が描かれている家」の絵である。(略)玩具の「人形の家」、トレチェントの絵画の「人形の家」〔引用者註:中世絵画から近世絵画=遠近法へと移行する過渡期に現われる絵画〕とともに並べてみると、透明画法にもなんらなの共通のものを認めないではいられない。つまり「透明画法」は、まだ単一の空間に統合できない別々の経験がひとつの絵のなかに共存することであり、それを素朴に重ね描きしたものなのである。子供の描画の研究者たちは、その結果を子供が充分納得していること、それにつていの弁解を口にすることなどをあげているが、それは子供が、すでに、いわゆる文化としてのリアリズムの空間認識をもちはじめているからである。トレチェントの絵画に「人形の家」があらわれるのも、子供に「透明画法」があらわれるのも、、現実には決して同時にありえない空間の経験を同時に表象しようとしていたからである。この描法が未熟だとみるのは、トレチェントの人形の家的絵画が遠近法へ向かう一階梯とみなされるのと同様、リアリズムい向かう「発達」を前提とするからである。リアリズムという一貫した描法が生まれることによって見るものと対象との分離した空間的関係は確立したのである。(多木浩二[眼の隠喩 視線の現象学]筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2008/p.74-75)

遠近法≒リアリズムの空間認識は、人間を神の側に立たせる。すなわち主体と客体とに世界を切り分けることになる。

 (略)〔引用者補記:江戸川乱歩「パノラマ島奇譚」の〕パノラマ島に見られる人工風景を乱歩は、はっきり「崇高の美」と呼んでいる。彼の読書趣味からして、エドマンド・バークが18世紀にヨーロッパ人の視を一挙に〈近代〉化した本、『崇高と美の起源』を読んでいるのはたしかだ。〈略)要するに、なんとなくだらんとつながっていた人と世界とが、見る/見られるという関係に分離してしまう。人は距離をおいて見るため、見られる世界は巨大なものであったり、カタストロフィックなものであったりすればするだけよろしい。というので、巨大廃墟だの災厄画だのが、18世紀末から1世紀ほど大流行した。
 「崇高の美」とは、世界をこうしてラディカルに〈見る〉側に人をおくと言う点では、同時代のピクチャレスク美学をさらにワン・レベル、強化したものといえる。世界を〈絵)のように見る、世界の表象化のためのおそるべきテクネーをピクチャレスク美学、文字どおり「絵のようにして見る」美学であって、(略)18世紀、10世紀いっぱいかかってヨーロッパ〈近代〉人の世界との対し方を決定づけていった。一番端的なのは、世界を世界としてではなく、すぐれた風景を描いた〈絵〉をモデルとして見る、ピクチャレスク庭園の流行である。風景庭園とも訳すが、要するにモデルになる〈絵〉の方に自然そのものを歪めていってつくりだす、驚異と効果の自己目的化したマニエリスム庭園なのだが、こうしたピクチャレスク美学とそれが生み出す綺想の庭園については、乱歩はよほど熟知していたと見みえて、パノラマ島はそっくりピクチャレスク庭園の壮大なパロディのつくりをしている。
 乱歩は藍本を隠さない。E.A.ポーの「アルンハイムの地所」だが、そこにポーが描き出したのは、「風景画家」として振る舞う庭づくり人が、絵としての「構図」「効果」を熟慮してそこに「景色」をつくりだしていった庭であった。大金持の菰田源三郎になりすまして主人公人見広介が行ったことがまさに一字一句それであった。(略)
 菰田の妻が夫に化けた広介に疑いを持ったようなので、これを殺そうとして広介は、彼女を海底トンネル越しにパノラマ島に誘いこむ。このトンネルの異様な様子に、ピクチャレスク庭園のエッセンスが要約されている。とにかく道が曲線を描いて、右に左に曲折しつづける。このことはパノラマ島の中の通路すべてにいえるのだが、道を屈折させることによって、ものを視る視覚を複雑化し、もって視の快楽を強めようというのが、ピクチャレスク庭園術の骨子であったことを思いだせば、乱歩のしようとしていることはわかる。
 (略)
 ピクチャレスクな〈視〉は、さらにパノラマ島の息を呑むからくりにいきつき、ピクチャレスクな〈視〉のもたらすエロスの虐殺は、千代子と一度も交わらないままに、彼女を絞め殺す広介の行為につながっていくことだろう。機械文化への乱歩のアンビヴァレントな危機感は、さらに深いところで、人間関係の不在と不毛にこそ根を持つ〈視〉の文化へのノン(否)へとつながっているのである。人見広介、瞳広介、いずれにしても、〈視〉が主人公なのだ。〈視〉の快楽に溺れながら、それを生み出してくる人間関係の終末への恐怖にもおののきはじめている「独身者」のテクスト。アンビヴァレントとしかいいようのない、おぞましくも魅了されるところが、乱歩モダニズムの光学機械文学の、色褪せぬ魅惑であろう。(高山宏『新編 黒に染める 本朝ピクチャレスク事始め』ありな書房/1997/p.179-183) 

「なんとなくだらんとつながっていた人と世界とが、見る/見られるという関係に分離してしまう」結果、「人は距離をおいて見るため、見られる世界は巨大なものであったり、カタストロフィックなものであったりすればするだけよろしい」ことになる。災厄を面白がってレンズを向ける人々を諷刺する映画『NEW GROUP』(2026)、あるいは、現代のテクノロジーによる人間の戦争との関わりが無人で演じられるやんツーの《浮遊する器官》(2026)など、「〈視〉の文化へのノン(否)」を訴える仕事は枚挙に暇が無い。
翻って、作家もまた、触覚を象徴する粘土彫刻を描くことを通じて触覚を視覚に封じ込め、あるいは従属させることで、「〈視〉の快楽に溺れ」る現状を表わす。その上で、リアリズムや遠近法を相対化し、「現実には決して同時にありえない空間の経験を同時に表象しようと」するのである。決して同時にありえない空間の経験を同時に行うためには、確固たる主体であることは不可能だ。すなわちnobodyたらざるを得ないのである。《Nの肖像 No.001: 横たわっている》は、災厄に見舞われた死体ではなく、主体の封印から解き放たれ幽体離脱するnobodyであった。故に《Nの肖像 No.011: 見つめている》は《Nの肖像 No.001: 横たわっている》を眼差すのである。
そして、本展は、櫻本乃映の絵画を展観するという体の、岩花周午の個展である。岩花周午もまたアーティストネームである。言わば、作家=展覧会は入れ籠の関係に立つのである。

 ここで、科学史にくわしいシュール教授の論文(「ガリヴァーのテーマとラプラスの公理」)を参照しながら、生物学上の入れ子説について少しく触れてみよう。
 1670年頃、イタリアのマルピーギは鶏の卵の発達を顕微鏡で観察して、卵のなかには雛鳥の形が存在するから、雛鳥は誕生以前に起源を有すると感下駄。これがいわゆる前成説の発端である。前成説とは、卵子または精子のなかに、すでに新生命が形を整えて先在していると考える発生の仮説である。同じ頃、オランダのスワンメルダムはその著『自然の不思議』のなかで、自然界には発生ということは決してあり得ず、ただ部分の伸張あるいは発育あるのみであり、全人類がアダムおよびイヴの腰部から出てきたものだと主張した。
 つまり、入れ子説においては、人間の精子あるいは卵子のなかには、すでに完成した形の人間が小さく縮こまって入っており、その小さな人間もすでに精子あるいは卵子を完全に具えていて、そのなかにも、さらに小さな人間がひそんでいるというわけなので、結局、過去・現在・未来の全人類はことごとく、人類の始祖であるアダムとイヴの精子もしくは卵子のなかに、最初から人間の形をととのえて存在してたのだ、ということになるのである。ココアの箱に描かれた大小無数のオランダ娘たちのいちばん大きな絵がアダムとイヴだと思えばよいわけである。それ以後の私たち人類はすべて、この大きなオランダ娘の手にした箱に描かれた、彼女自身の似姿ともいうべき、小さな小さなオランダ娘なのだ。(澁澤龍彦「胡桃の中の世界」澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社〔河出文庫〕/2007/p.269)

入れ籠の関係において作家は無限に増殖する。それもまた、一種のnobody――誰でも無いが故に誰でもあり得る――に通じよう。