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芸術鑑賞の備忘録

映画『プリティ・クレイジー 悪魔が引っ越してきた』

映画『プリティ・クレイジー 悪魔が引っ越してきた』を鑑賞しての備忘録
2025年、韓国製作。
113分。
監督・脚本は、イ・サングン[이상근]。
撮影は、キム・イルヨン[김일연]。
照明は、キム・ミンジェ[김민재]。
小道具は、チョ・ギファン[조기환]、パク・ソンユン[박성윤]。
美術は、チェ・ギョンスン[채경선]。
衣装は、キム・ダジョン[김다정]。
編集は、イ・ガンヒ[이강희]。
音楽は、イ・ジス[이지수]。
原題は、"악마가 이사왔다"。

 

人形の入ったクレーンゲーム機の前にフード付のパーカーを着たイ・ギルグ[안보현]が現われる。ギルグは紙幣を入れ、レバーを操作してアームの位置を操作し、クレーンを降ろして人形を摑む。ギルグは次々とクレーンゲームにチャレンジし、景品を易々と手に入れ、大きな袋に入れ運び去る。123号棟1401号室のギルグの部屋の棚にはクレーンゲームで獲得した景品が並ぶ。5月12日午前2時35分。ギルグは就寝する。職場で叱責された記憶が夢に蘇る。
獲物を決める。正確な位置を決める。望む物が手に入る。経験と実力は比例する。単純明快だ。でも、人生はそうは行かない。複雑で難しい。どこで間違えたのか。
眠っていたギルグが何度も鳴るインターホンで起こされる。ドアが叩かれる。友人のヒボン(고건한)だった。2人でベランダから下を眺めると、引越し業者のトラックが停まり、作業員に若い女性(주현영)が指図している。父親は? そこだよ。パン屋には行かない方がいい。彼女が開くらしいから。
ギルグが冷蔵庫から牛乳を取り出す。
ギルグがアパルトマンの前の通りへ。歩道に割れた硝子瓶が落ちているのを見付けると拾って資源回収の袋に入れる。水色でコーディネイトされたパン屋が目の前に。「ベーカリー・チョンサン 近日開店」とある。
部屋にいたギルグが母親からの電話に応答する。…宅配業者に頼ってないよ。…きちんと食事してる。…掃除もしてるよ。…蒲団だって干してる。…写真送る必要なんてある? 信用してないの? 通話中から部屋のゴミを拾い集め、部屋を清掃し、溜まった洗濯物を処理し、蒲団を干す。夜、蒲団を取り込む際、ベランダから首枕を落としてしまう。
集合住宅の前の植え込みでギルグは首枕を見付ける。そのとき、通路から女性の声が聞えた。チョン・ソンジ(임윤아)がベンチに1人坐り、缶ビールのプルトップを開けようとしていた。缶を開けた彼女は一口飲む。げっぷが出る。誰かに見られていないかと周囲を気にする。ギルグが見蕩れる。
居酒屋。ぐつぐつ煮えるカムジャタンとヒボンを前にギルグが美しい女性を回想する。…天使がいるなら彼女みたいな姿をしているはずだ…。エゴマは? それが人生最大の悩みか? 天使のような美しい女性に出会ったんだろ? 彼女に話しかけるとか、何か展開があるだろ? エゴマをかけるぞ。
ヒボンとゲームセンターに出かけてクレーンゲームを行う。
酔ったギルグが景品の人形を抱えてアパルトマンのエレベーターに乗る。隅に蹲る。エレベーターが13階で停まる。開いた闇から不気味な笑い声がする。締まりかけたドアに手が挟まれ、再び開く。抜かった! 急がねば売り切れてしまう! お主は一体何者だ? 狂気の形相を浮かべているものの昨晩の美しい女性その人だった。彼女に突然襲いかかられたギルグは反射的にぬいぐるみで防禦する。私に触れるとは! 激昂した彼女はギルグの首を絞める。ギルグは逃れようとして石頭を女にぶつけてしまう。
自室のベッドでギルグが目覚める。竹刀を手に恐る恐るドアの外を確認する。ピラティスのビラが貼られていたものの、異常は無い。
ギルグは階下に引っ越してきた一家が開いたパン屋を訪れる。店内の様子を入口から探っていると、引越しを仕切っていたショートカットの女性がいつの間にか隣にいた。…あ、こんな所にパン屋が出来たんだな。
パンを1つカウンターに差し出す。ここの住人でしょ。何で? 住人向けの開店記念割引を実施してるの。123号棟1401です。あら、私たち真下に住んでるの。123号棟1301。昨日越してきたの。ご近所さんよ、ソンジ! 天使のような女性がカウンターに姿を現わした。その額には絆創膏が貼ってある。やはり天使は昨晩の悪魔だった。昨日は騒がしくてごめんなさい。ギルグは逃げ帰る。ちょっと待って。ソンジがギルグに声をかける。ギルグは走り出す。ソンジは追いかけて来て、開店記念の品をギルグに手渡した。
ギルグは記念品を開ける。店舗と同じ水色のタオルだった。ギルグは天使のような女性と悪魔のような女性が同じ人物とは思えず考え込む。
午前2時。少女の姿を夢に見たソンジは目覚める。
洗濯物を取り込んでいたギルグはソンジが外にいるのに気が付く。冷蔵庫から牛乳を取り出し飲み干すと、外へ向かう。ああ、牛乳を切らしちゃったなあ。わざと声に出して歩きソンジを捜す。コンビニエンスストアに向かったところ、車道でソンジが男(성동일)に羽交い締めにされソンジが悲鳴を上げていた。ギルグはソンジの救出に駆け付ける。

 

イ・ギルグ[안보현]は大学でスポーツ科学を専攻した後に就職したが会社に馴染めず退職する。母親と姉とともにアメリカに滞在している教育家の父親のお蔭で暮らしには困らない。友人のヒボン(고건한)とつるみ、得意のクレーンゲームで景品を集めるだけの無為な日々を過ごしている。ある晩、天使のように美しい女性チョン・ソンジ(임윤아)を見かける。ソンジは父親チョン・ジャンス(성동일)と従妹チョン・アラ(주현영)とともにギルグの階下の部屋に引っ越してきて、1階に瀟洒なパン屋を開いた。ところがソンジには午前2時からの3時間、悪魔が憑依する。その秘密を知ったギルグは、腰を痛めて入院したジャンスから父親から、自分に代わり真夜中の3時間に悪魔の暴走を食い止めるよう頼まれる。

(以下では、全篇に言及する。)

ドタバタのロマンティックコメディ(ラブコメ)を装いつつ、男性の支配する社会における女性の救済を訴える芯のある作品である。
ソンジに悪魔が取り憑くとは、すなわちソンジが狂うことである。ソンジが狂う前に見る夢には必ず暗闇に監禁された少女が現われる。
ソンジに取り憑くのは実は悪魔ではない。雑鬼である。疫病や旱魃に見舞われたチェジュ島の村で生贄に捧げられた身寄りの無い少女ムニャンの霊であった。ある一家によってムニャンの遺灰が丁寧に弔われていたが、50年が経過した頃、ソンジの曾祖母が骨壺を漬物のために用いてしまい、行き場を失った少女の霊がソンジの祖母ウネに取り憑いたのだった。そして、ソンジの母ヒョンファ、ソンジと。

 狂うことのなかには解放がある。狂うことにはおそらく自由がある。自分を抑圧するもの、自分を閉じ込めるものの支配から逃れ、広大な無の領域に繰り出すのだ。(中村佑子「女が狂うとき 12 世界がはっきり見える デュラスを巡って」『図書』第918号[2025年6月]/岩波書店/p.63)

女性が狂うのは何故か。悪魔が取り憑いたからではない。男性中心の社会において、女性が家に縛り付けて身動きが取れないからである。

 出光真子は、出光興産の創業家に根づいた強烈な家父長制の犠牲になった母が抱えていた無念を、怨念のようにして深く内在させている。出光真子の兄や弟と、その子どもたちは、死に臨んだ母の病室にさえ来なかった。母の葬儀には母を知らない人ばかりが来て涙を流した。母は英語を習ってみたいという希望さえ夫に反対され、無為な午後をリビングの片隅に座って過ごした。ただ庭を見つめて。母の死を描いた作品《ざわめきの下で》は、出光の家族に向けた痛切な怒りに満ちている。
 (略)
 なぜ世界中の女性たちが同じように封じ込められているのか。それは私たちが同じシステムの下に暮らしているからだろう。
 シルヴィア・フェデリーチの『キャリバンと魔女』は究極的には、資本主義は魔女を殺し、主婦を生み出したという主訴をもつ書だった。女性たちは身体の自治を失い、資本の奴隷である夫と、いずれそうなる子どもをケアするために、家に閉じ込められる。家が狂気を孕むのは、女性たちの自然な呼吸が、そこに折り畳まれ、押し込まれてるからだ。(中村佑子「女が狂うとき 11 部屋の中の狂気 アケルマン、葛原妙子、ミエヴィル、デュラス」『図書』第917号[2025年5月]/岩波書店/p.61-62)

ギルグは無職となり、家で無為な時間を過ごすことが多い。ギルグには家庭に押し込められた女性の気持ちが分かる。しかもギルグの特技は話を聞くことであり、ソンジに取り憑いた悪魔≒雑鬼の声でさえも丁寧に聴き取ろうとする。悪魔≒雑鬼の示す優しさ――例えば、ギルグが疲れれば眠ったふりをし、枯木には水を与える――も決して見逃さない。
そして、ギルグの何よりの特技はクレーンゲームである。ケースに閉じ込められた人形を取り出す。それは、監禁された女性を救い出すこととアナロジーであった。
ギルグはムニャンが50年を過ごした壺を探し出し、再びムニャンを祀る。クレーンゲームの景品で一杯の部屋の一角にムニャンの壺を安置する。「悪魔が引っ越してきた[악마가 이사왔다]」とは、怨念に駆られ彷徨い続ける魂に安住の場所を与えることであった。
監督は儒教道徳に基づく男性支配の社会において自由を奪われてきた女性たちの救済を、クレーンゲームの得意なギルグに託して描いて見せたのである。

 私が信じていた人は皆狂っていた。大好きだったひとは、皆狂っていった。狂うことでこそ、この世界がはっきりと見渡せる。私はいつでも狂っていくひとと共にありたい。一緒にはっきりとこの世界を感じたい。私がいまいる世界を、あきらめたくないから。(中村佑子「女が狂うとき 12 世界がはっきり見える デュラスを巡って」『図書』第918号[2025年6月]/岩波書店/p.63)