可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 前畑裕司個展『東京某所』

展覧会『前畑裕司「東京某所」』を鑑賞しての備忘録
gallery N 神田社宅にて、2026年6月6日~20日。

昭和の東京土産である「東京」と題した絵葉書セットをモティーフとした絵画と関連グッズとで構成される、前畑裕司の個展。

昭和時代に東京観光の土産物として制作された、二重橋の写真に赤い文字で「東京」とロゴの入った絵葉書セットが展示されている。パッケージには焼けや傷みがある。背面には住所記入欄や切手貼付欄が印刷されており、1枚1枚ではなくパッケージごとの郵送が想定されている。
《postcard-18》(1455mm×1120mm)は、絵葉書セット「東京」のパッケージ背面(宛名面)を拡大して描いた作品である。STAMP、第五種郵便、COLORなどの文字、届先や差出人の枠、紙の重なりやその作る影、表紙から続く二重橋の写真、日焼けや汚れまでが忠実に再現されている。歌枕が典型的であるが、観光地は記号に過ぎない。絵葉書により複製され、世界中に流通する。観光地は実際に訪れることなく眼にされる。新聞・テレビといったマスメディアによる伝播やインターネットを介した拡散とパラレルである。絵葉書セットの表紙を飾る赤い文字「東京」をプリントしたマグカップやマッチ箱は、白の無地である。二重橋の景色は合わせて転写されない。絵葉書セット=実物から切り離され、文字通り記号として東京は漂流する。時代を感じさせない秀逸なデザインは、インターネット上に歴史が存在しないこととパラレルである。さらにパッケージの背面(宛名面)の絵画は、絵画がイデアを顕現させる試みであるなら、風景はイデアの影に過ぎず、寧ろ背後にこそイデアの実体があるとの諧謔を認めることもできる。ところで、届け先も差出人も空欄のままであるのは何故であろうか。差出人が空欄なのは、イメージの機械的複製自体には作家の独創性が介在せず、作家が匿名の存在たらんとしているからである。また、届け先が記入されないのは、鑑賞者を選ばないからである。観光地があらゆる人々を受け容れる器であることを示す。同時に表から続く、皇居の換喩である二重橋と相俟って、政治権力を保持しない天皇制、皇居前広場など空白を喚起させる。皇居は山手線が円を描く渦の中心であり、颱風の目である。東京には真空があるが故にあらゆるものを吸収するのだ。
《details-9》(297mm×210mm)は木立の背後に立つ霞が関ビルを、《details-10》(297mm×210mm)は緑を帯びた水色の海面を、《details-11》(297mm×210mm)は山と背後の富士をそれぞれ捉えている。絵葉書の写真の一部がトリミングされている。いずれも十字の擦れが画面に描き入れられ、恰も照準を定めるかの如くである。それは都合良く切り取られた情報が輾転流通するネット上の情報の似姿である。
《details-12》(257mm×182mm)は敢てマゼンタ、シアン、イエローの3色に分解されて描かれる。下段に水平に走る傷と相俟って印刷物であることが示される。東京タワーが情報の伝播・拡散のメタファーであることは言うまでも無い。《details-13》(257mm×182mm)には高層ビルと首都高の照明を、《details-14》(257mm×182mm)には首都高の一部(?)が、やはり水平に走る傷とともに描かれる。首都高は速度のイメージを喚起させるとともに、東京に渦を発生させる。《details-14》に到っては灰色、水色、ピンクなどの帯が並ぶ半ば抽象絵画と化している。遠心分離機によりバラバラになるのは色だけではなく、人々もまた、そうである。
「details」シリーズから浮かび上がるのは、富士山、東京タワー、霞が関ビルなど一番高い山や構造物である。それらは人間にとってのランドマークであるのみならず、神にとっての依代ともなる。東京を某所に解体する試みにより、却って首都の性格が露呈する。