展覧会『諏訪未知「PANTALOON」』を鑑賞しての備忘録
KAYOKOYUKIにて、2026年5月23日~6月27日。
幾何学図形を主たるモティーフとしつつ意図的に筆跡を残し手業であることを訴える絵画で構成される、諏訪未知の個展。
入口傍の床には、スウェットのパンツを履いた人物の膝の写真の上に、モーリス・サンド[Maurice Sand]が描く、コンメーディア・デラルテに登場するヴェネツィアの老商人パンタローネ[Pantalone]の下半身のイメージを重ねた写真《PANTALOON》(728mm×515mm)が置かれている。題名はパンツを意味する英語"pantaloon"に因む。イタリア語ではパンツもその由来であるパンタローネも同じ"pantalone"である。
《Lifter》(1167mm×1167mm)は、縦4個×横4個の16個の矩形に等分した画面を群青、桃色、黄緑、オレンジのいずれかに塗り、黒い点で構成される円か、白い点に構成される円のいずれかをそれぞれ1つずつ配した、明るい抽象絵画である。幅数cmの角材が水平方向に仕切りのように3つ取り付けられているため、矩形は正方形ではない各色に2個ずつ白い「円」・黒い「円」が描き入れられ、その配置には対称性が認められる。矩形、「円」、配置の規則的な繰り返しとは対照的に、着彩・描画における手業の不均一さが浮き立つ。そこにコンメーディア・デラルテにおける筋書きと即興とを看取することは可能だろう。
(略)コンメーディア・デラルテは記録に残っている16世紀のものでも即興的なものと記されているからであり、ちょうど天正本狂言に見られるように、日常の訓練によって、さまざまなシテュエーションと結びついた言葉のストックのなかから舞台の展開に合わせて自由に言葉の綾をつくり出す術を身上とする俳優には、台本はシナリオというより、筋書きとして渡されたものであることによるのである。アルレッキーノをはじめ商人パンタローネ、医者、旅籠の亭主ブリゲルラ等、いずれも類型化された登場人物である。ということは、それぞれの役にある程度固定した演技の型があったということである。(山口昌男『道化の民俗学』岩波書店〔岩波現代文庫〕/2007/p.14)
藍色の画面に緑の縦縞を入れ、下端に3本の弧を配する《PIN》(910mm×910mm)は同題・同サイズの3点が並び、弧の形、配置が異なる。梅雨でもあり、雨と地面で撥ねる水とを表わした作品にも見えなくもない。もっとも、無機質で感触の画面からはレーダーのような機械的、電子的な印象も受ける。
《Suspender》(440mm×380mm×380mm)は木製の三脚の丸椅子の座面に扇形や直線を表わした作品である。大小2つの扇形があり、大きい方には両脇に直線、小さい方には片側だけに直線を配する。座面の脇の部部には茶色い絵の具が垂らされる。
《Card》(652mm×652mm)は塗り斑のある赤い画面の4隅に、黄土色の長方形に内接するレモン色の楕円形と、黒い十字とがそれぞれ配される。長方形のプレイングカードが天地を反転させてもイメージが変わらないのに対し、本作は上下左右反転させても、すなわち回転させてもイメージが変わることはない。但し、機械的でない筆触の露わな画面は、実際は微妙な変化をもたらすだろう。
《Interval》(273mm×273mm)は、ペールオレンジの画面の4隅に藍色または紫色の四分円を配した作品。塗り斑だけでなく、四分円同士の間隔があるものとないものとがある。
《Alert》(273mm×273mm)は、緑の画面に藍色と赤との塗り籠めたものを5つ配し、その周囲を黄の短い線を数本ずつ並べて埋めている。葉叢の中の花を描くようでもある。青と赤とが混ざり合う暗い色の「花」も黄色い線の連続も、いずれも規則性があるようで、敢て同一にならないよう形や本数、長さなどが違えられている。志野茶碗の植物文様のような味わいを表わそうとしているようでもある。
《Retreat》(273mm×273mm)は、青、レモン色、灰色、ピンクの順で塗り重ねた作品。左右の縁にはレモン色の弧の連なりの脇に青色が覗く。中央には下地のレモン色を所々露出させつつ灰色が塗られ、さらにピンクの絵の具が重ねられている。塗り重ねられる色により、先に塗られた色が奥へ遠ざかる。
《4、3、2、1》(180mm×180mm)は、5点ある。いずれも4つ、3つ、2つ、1つの色と形とで構成される点で共通する。色も形も異なるものを数という抽象性で括ることができるという認識の在り方に着目した作品である。ここに展示作品のヒントがあるように思われる。数値化である。
本展の表題作にはヴェネツィア商人パンタローネのイメージが登場する。パンタローネが象徴するのは貨幣である。貨幣という数値に換算することで、商人は所在を異にする存在同士を繋ぎ合わせる。その連繋に際しては、具体的な差異を捨象する暴力が伴う。貨幣同様言語もまた媒介の手段である。言語が異なる場合は元より、個々の話者の発する言葉は、それぞれ含意されるものが異なる。コミュニケーションの成立に差異の捨象は不可避である。作家が表現しようとするのは、類型化が可能にするコミュニケーションに対する期待と、ニュアンスを切り捨てる暴力という二面性であり、そのこと自体を画面に表わしているのではないか。作家によるマイムとしての絵画である。