可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 利部志穂個展『Symbiotic 亀の涙を飲む蝶』

展覧会『利部志穂「Symbiotic 亀の涙を飲む蝶」』を鑑賞しての備忘録
HIGURE 17-15 casにて、2026年6月19日~30日。

映像作品とインスタレーションとで構成される利部志穂の個展。

映像作品では、日本やタイの風景の断片が、川や花といった繰り返し登場するモティーフにより繋ぎ合わされる。とりわけ橋を渡る場面、あるいはサッカーと月とからボールが転がっていく連想によって、バラバラのイメージが架橋されることで、お互いがコミュニケーションを取っていく。

針金に取り付けた青い紙片、粘土製(?)の自立する棘皮動物、粘土(?)で出来た黄色い軟体動物、棒を挿した紫の粘土(?)の球、白地にピンクのハートを表わした粘土(?)など掌に載るほどのサイズのオブジェが金属部品、セロファンやセロファンの欠片とともに床に散らばる。青い紙片のオブジェの蝶など判別できるものもあるが、抽象度の高いオブジェが何を表わしているのかは判然としない。壁にもいくつか得体の知れないオブジェが取り付けられている。オブジェ群の上方には赤・青・白の糸を撚った紐が渡され、色付きのアクリル板(?)の断片がぶら下がる。3色の糸は糸玉から繰り出され、あるいはその糸玉に収斂する。垂直に垂れる灰色のワイヤーには亀や蝶を描いたドローイングが穴を開けて通される。さらに折り曲げた針金を絡ませることで繋いだ飾りが壁から壁へと渡される。
ドローイングの亀や蝶はもとより、オブジェもまた蝶やヒトデ木の実などの動植物であり、生命である。生命たちの上方に架かる赤、青、白の糸はそれぞれ血、水、空気であり、様々な形を取る生命の中を循環する。銀色に輝く針金は光であり、植物を介して生命間でやり取りされる光エネルギーである。宙空の光はまた天の川や天の階を連想させる。川は水の循環の一部を構成し繋ぎ合わせの性格を持つのみならず、両岸に分断しもする。川による分断は架橋を促す。分化は接続を冀求させる。蝶たちは橋を必要とせず、飛翔して渡る。尤もオブジェ群の青い蝶には羽が1枚しかない。1枚では飛翔することは叶わない。果たしてもう1枚の羽はどこにあるのか。失われた羽は、断片化された個々が他者の存在を求めることで現われるのではないか。相互に異なる歪なオブジェたちが補い合う。相利共生的[Symbiotic]な世界が暗示される。
蝶が渡り、オブジェという孤島は群島として姿を現わす。

どこか市街の一地区のそちこちに投げ棄てられた燃えがらの山を25ほど取りあげ、そのなかのいくつかが大きくなって山になり、そのうつろなところが海になったと想像してみるがよい。そうすればエンカンターダス、つまり魔の群島の大体の姿を適切に思い浮かべることができるだろう。群島というよりは死滅した火山の集まりである。そして神の罰の大火をうけた後のこの世界が、おおかたはこうもなろうかと思われるのだ。

ダーウィンからわずかに6年ほど遅れて、1841年、捕鯨船員の1人としてガラパゴスの土を踏んだハーマン・メルヴィルの、この群島を描いた作品『エンカンターダス、あるいは魔の島々』(1854)の冒頭はこう始まる。(略)
 (略)
 すでに引用した冒頭の、冥府を想像させる荒れ果てた火山島の特異な比喩的描写によっても示されるように、ここでのガラパゴスの島々は「魔の群島」と呼ぶにふさわしい不毛で呪われた地勢として強調されている。住人がスペイン語で「エンカンターダス」encantadas、すなわち「魔法にかけられた」「化け物がでてきそうな」、と呼び習わすこの群島を、メルヴィルは「ガラパゴス」という正式の名称をただの1度も使用することなく、ひたすら「エンカンターダス」という名に込められた民衆的想像力を媒介にして描き出してゆく。「ガラパゴス」という歴史的・科学的名辞の不在は、メルヴィルの明らかな意図として、このテクストの寓意性・象徴性の射程を測るための重要な指標のひとつといえるだろう。
 (略)
 (略)『エンカンターダス』のつぎのようなガラパゴスゾウガメをめぐる記述は、特別の寓意と暗示とを分泌することになる。

しかもそのかめさえもが、たとえその背が黒ずんだ悲しげなものであっても、なお、明るい腹面を持っている。そのカラピー、即ち胸板は、ときにかすかな黄色か金色を帯びているのだ。更に海がめはもちろんとして陸がめも、ただ彼らを逆さまにすれば、自分でもと通りになって別面を見せることができずに、そのあかるい腹面をさらすことになるという体のつくりであることは誰も知っていることだろう。けれども、そういうことをしたあとで、そしてまた、そういうことをしたからと言って、かめには暗い面がないとは言うべきではない。その明るい色をたのしむも結構、そしてもしできるものなら、いつまでもそうやってひっくりかえしたままでいても結構であるが、素直に、暗い面のあることを否定してはいけない。また、暗い方の面を隠して、陽光のなかにころがる十月の大南瓜のように、その明るい面をさらさせるために、かめをその自然の姿勢からひっくりかえすことのできぬ人は、それだからといって、この動物は全体が真っ黒なものであるなとどは言うべきではない。かめは黒くもあり明るくもあるのだ。

 なんとも不思議な文章ではないだろうか。亀の甲羅のおもてとうらをめぐる、奇妙に繰り返しの多い、逡巡するかのような表現。誰に向けて語っているのかもわからない、あるいはみずからに諭すかのようにも読める忠告。それが亀の甲羅の反転にともなう、暗さと明るさの単純な指摘にすぎないことが明白であるからこそ、私はこうした記述の背後にある不気味な予言的想像力の発動に、かえってある種の畏怖をおぼえることになる。「かめは黒くもあり明るくもあるのだ」The tortoise is both black and bright.――この奇妙なテーゼにおける"tortoise"の部分に、いったいいかなる語を代入すべきなのだろうか? 亀を反転させえぬままにその暗い面だけを言い募る者、とは何者の謂なのか? あるいは誰が、ひっくり返して明るい腹をさらけだしたまま起き上がれずに悶える亀をもって暗部を隠蔽しようとたくらんでいるというのだろうか?(今福龍太『パルティータⅡ 群島‐世界論』水声社/2017/p.146-152)

「かめは黒くもあり明るくもあるのだ[The tortoise is both black and bright]」の「かめ[the tortoise]」に代入されるのは、月であり、そして、蝶である。月の満ち欠けと蝶の完全変態[Holometabolism]と。異質の他者との共生を可能にする発想の転換だ。エンカンターダス[The Encantadas]は、群島を架橋する始まりの挨拶[Encantado/Encantada]へと変貌する。