可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 金井瑞歩個展『なお在るもの』

展覧会『金井瑞歩「なお在るもの」』を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊〔スペースS〕にて、2026年6月26日~7月1日。

ホワイトキューブに穿たれた窓越しの景観をモティーフとした絵画で構成される、金井瑞歩の個展。

 約600年の昔、イタリア・ルネサンスの人文主義者、レオン・バッティスタ・アルベルティは、著書『絵画論』(1436)の中で、絵画と窓について次のように述べました。
 「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく〔方形〕を引く。これを私は、描こうとするものを通して見るために開いた窓であるとみなそう」
 窓は、室内にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた外の世界の眺めをもたらしてくれるもの。絵画もまた、「今ここ」にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた「ここではない世界」の眺めをもたらしてくれるもの。アルベルティが「絵画=窓」と簡潔に定義して以来、数えきれない画家たちが窓にインスピレーションを受けて作品を制作してきました。(東京国立近代美術館編『窓展:窓をめぐるアートと建築の旅』平凡社/2019/p.10〔蔵屋美香執筆〕)

《窓より(7)》は、ホワイトキューブの壁にある正方形の窓越しに見える樹木を描いた作品。窓外の中央には、中途で斜めに伸び、ヘアピンカーヴを描く幹を持つ樹木が立つ。幹の先端からは3方向にアンテナのような枝が伸びるが、その1本は幹に呼応するように一旦直角に曲がっている。恰も建造物の中に押し込めらていたかのような歪な姿を晒す。日本のシュルレアリスム絵画を代表する作家・北脇昇の《独活》のような雰囲気が漂う。窓外右手前にはほぼ真っ直ぐに伸びて二股に割れる木が、その奥に立つ木は低い位置で二股になり左右2本が同じようにくねり伸びる。3本は何れも裸木で、中央の木は赤味を、右手前の木は青みをそれぞれ帯びる。3本の木が立つ地面は手前から奥に向かい矩形の部分から構成され恰も濡れ縁の如くであり、なおかつ左上に反る。ベルトコンベアのように地面が動き出すなら、タイガー立石描くところのコマ割り漫画的絵画の向こうを張りそうだ。地平線には森が覗く。この謎めいた景観を見渡す窓に硝子板は嵌められていない(仮に硝子があるなら嵌め殺しの窓である)。窓の四周は白い壁を額装した絵画のマットのようだ。すなわち窓(窓外の景観)は絵画を装う。この窓はホワイトキューブの正面の壁面の中央にあり、天井、左右の壁、床を覗かせる。床を含め、全てが白で統一されている。その白が壁面を感じさせるように塗布されているのに対し、壁、天井、床を生み出す線は赤や緑などが食み出す。リアルな壁もまた描かれたものに過ぎないことを露悪的に表わす。左右2つのパネル(各894mm×2646mm)を接続せず敢て隙間を作り絵画の物としての性格を露わにするのも、イメージがフィクションであることを訴えるためであろう。他方、現実のホワイトキューブ(=展示室)とフィクション(=絵画)のホワイトキューブとは呼応する。絵画内に描かれた窓(=絵画)とも相俟って、入れ籠の世界が立ち現われる。

 (略)エレアのゼノンの有名な「アキレスと亀」のパラドックス(連続の無限可分性のパラドックス)も、この無限に繰り返されるイメージ〔引用者註:入れ子〕の抽象的な置き換えにほかなるまい。アキレスが亀に追いつくたびに、亀のリードする距離は少しずつ縮まるが、その距離は決して消滅することがなく、理論的には永遠に残存する。ちょうどココアの箱に書かれたオランダ娘が小さく小さく縮まっても、決して消え失せたりしないのと同様である。すなわち、ある意味で、亀はアキレスの「入れ子」になっているのである。
 このパラドックスの袋小路から脱出するために、デモクリトスなどの哲学者は、物質の最小単位としての原子なるものを考案した。しかしコクトーのような詩人の意見によると、ある物体を大きいとか小さいとか言うのは間違いで、近いとか遠いとか言うべきだ、ということになる。目に見えない微生物は小さいのではなく、コクトーによれば遠いのである。少なくとも、目に見える星よりも遠いのである。「距離の新しい概念が確立されれば、終りのある無限小とかいうような愚かな観念はなくなるだろうし、大小の肝炎もその意味を失って、極大とか極小とかいった幻想の壁にぶつかることもなくなるだろう」(『無名の男の日記』)とコクトーは言う。可視性をもっぱら距離の関数と考えることによって、大小の観念を絶滅しようというわけだ。(澁澤龍彦「胡桃の中の世界」澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社〔河出文庫〕/2007/p.264-265)

盆栽の如き歪な樹木は折り畳まれていた世界の展開を暗示していたのだ。樹木がその枝を拡げるとき、世界もまた奥に向かって拡張される。鑑賞者は奥へ奥へと呑み込まれていく。李禹煥の絵画の題名よろしく《窓より》と画題に格助詞「より」が付されているのは、鑑賞者を遠くへ送り出す装置として絵画を制作しているからであろう。展示空間の条件を取り込む絵画は、庭造りにおける借景に等しい。母袋俊也の探究する視覚装置として絵画にも通じると思しい、庭=空間としての絵画である。

《窓より(8)》の縦長の画面(910mm×455mm)には白い壁と床の空間の出入り口と仕切り壁とを描く。壁の輪郭線は茶である。画面前面にやや左側から仕切り壁(可動壁?)があり、画面のほとんどを覆い尽くす。右脇に腰壁の無い窓と白い壁が僅かに覗く。窓外には2本の木の姿が見える。1本は赤いシルエットのように表わされる。壁の圧迫感は、壁の下からは漏れ出す赤い液体と相俟って不穏な雰囲気を生む。
《窓より(9)》(727mm×530mm)は2つの窓を持つ部屋が描かれる。白い壁と床を切り分ける線は茶や緑を呈する。正面の壁面には左側に縦長の嵌め殺しの窓があり、向かって右の壁面にも窓がある。正面には1本の、右には3本の裸木が見え、右手前から光により出来た影が延びる。正面奥にはまた別の壁があるようだ。窓こそ2つ有するが裸木の殺風景な景観と迫る壁とは何もない狭い部屋を独房のようにも感じさせる。正面の壁の下からは何かが漏れ出す。
《窓より(10)》(727mm×530mm)はホワイトキューブの部屋の隅の2つの壁面を描く。天井と壁・床を区切る線は茶でエメラルドグリーンが差す。右側の壁面が7分の5ほどを占める。左側の壁面の窓が覗く。すぐ外には梢がぐにゃぐにゃと曲がる木が立ち、奥には山の影らしきものも見える。
ジョルジョ・デ・キリコ[Giorgio de Chirico]の形而上絵画から人物やマネキン、彫像などのモティーフを取り去り、歴史的な建造物をホワイトキューブに置き換えたような印象である。

《Ground 2》(各800mm×900mmで3枚組み)は、手前に矩形の白い板が並ぶ。板や石ではなくコンクリートで出来ているような風合いだ。その板は奥(上方)に行くにつれて窄まり、遠近感が強調される。その板の先からは森(木立)が覗く。木々には緑だけでなく青やピンク、赤などの色が差される。画題からすれば板は地面であるが、壁を低い位置から見上げた場面にも見える。
《Ground 1》(410mm×410mm)には、右奥に向かうピンクの地面が描かれる。地面は右奥に向かう3本の集中線によって遠近感が強調される。地平線には木立が覗く。

窓越しの、あるいは「地面」の先に広がる眺め[view]は、鑑賞者の考え[view]を浮き上がらせる装置ではないか。透視図法はルネ・デカルト[René Descartes]が思考の基礎に据える主体を象徴するが、同時に形而上絵画やそれに連なるシュルレアリスム的手法により絶対的である私[je]ないし理性に対する疑念が訴えられている。ホワイトキューブはモダニズム(に囚われること)を象徴し、近代的合理主義的な思考枠が「なお在る」こと――"Je" suis toujours là.["I"'m still here.]――を示しつつ、室内の漏出や窓外の寒々しい景観により、その劣化と歪みとを表わす。地面を動かすのは、その認識を更新せんがためである。