可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『急に具合が悪くなる』

映画『急に具合が悪くなる』を鑑賞しての備忘録
2026年、フランス・日本・ドイツ・ベルギー合作。
196分。
監督は、濱口竜介[Ryūsuke Hamaguchi]。
原作は、宮野真生子[Maoko Miyano]・磯野真穂[Maho Isono]の書籍『急に具合が悪くなる』。
脚本は、濱口竜介[Ryūsuke Hamaguchi]とルディムナ玲亜[Léa Le Dimna]。
撮影は、アラン・ギシャウア[Alan Guichaoua]。
美術は、ミラ・プレリ[Mila Preli]。
衣装は、カロリーヌ・シュピート[Caroline Spieth]。
編集は、山崎梓[Azuza Yamakazi]。
音楽は、サミュエル・アンドレイエフ[Samuel Andreyev]。
フランス語題は、"Soudain"。

 

2025年6月6日。パリにある老人介護施設「自由の庭」。庭の片隅で施設長のマリー=ルー・フォンテーヌ(Virginie Efira)が椅子に坐ったまま眠っている。隣では車椅子のミレイユ(Evelyne Istria)が煙草を吸っている。スマートフォンのアラームが鳴り、マリー=ルーが目覚める。眠れた? 15分。マリー=ルーがミレイユから煙草をもらい、一服すると、向こうから声がする。見てくる。マリー=ルーが向かうと、ジブリル(Gabriel Dahmani)がシモーヌの抵抗に合い、力尽くで対処しようとしていた。こうするのよ。マリー=ルーは、シモーヌの顔の近くに自らの顔を寄せる。シモーヌ、マリー=ルーよ。あたなに会えて嬉しいわ。今日も綺麗ね。足元に落ちていた指人形を拾い上げる。あなたのコレクションね。可愛いわ。マリー=ルーはジブリルに自分と同じようにシモーヌの視界に入って接するよう促す。良い天気ね。散歩したくなる。マリー=ルーはジブリルにシモーヌの手を掌を上にして摑ませる。シモーヌを間にマリー=ルーとジブリルとで支えて歩く。
まだだ。ノックした介護士がすぐ部屋に入ろうとするのをクロード(Lazare Gousseau)が止める。さっき何て言った? 3回ノックして待つ。それからまた3回ノックする。それから1回。居室はその人の家だと思うんだ。それなら無闇と入れないだろう? マリー=ルーがクロードに見学の許可をもらう。ユマニチュード研修は入浴介助に移る。老女の前後に1人ずつスタッフが付き、声を掛けながら身体を洗わせてもらう。いい写真ですね。パイロットなんて素敵。部屋に飾られた若い頃の写真を話題にもする。左腕を挙げてもらえます? そうです。もっと上に挙げられます? えらく素直だ。時間をかけてるからよ。毎日は無理。選挙前の政治家と同じ。こんなの研修だけよ。アディジャ(Séphora Pondi)が溢す。
14時。ミーティングのためにスタッフが食堂に集まった。副施設長のオリヴァー(Jean-Charles Clichet)が、旧管理人棟を予告通り独身寮に転用すると伝える。4部屋が職員で埋まらなければ、インターンや学生から希望者を募ること、地元の相場より安く貸し出すことを言い添える。プライヴェートが無くなるのでは? スタッフの疑念にマリー=ルーが答える。仕事とプライヴェートを分けたくない人のためのもので残業を強いることはありません。夜勤も偏らないように配慮します。但し、緊急時には声を掛けます。恋人を連れ込むのは? 節度を守って利用してもらいます。希望者を募ると、立候補するのはマリー=ルーだけだった。続いて4ヶ月後のユマニチュード研修が議題となる。少し早めに参加者を募りたい。研修の4日間は人手が不足するためヴァカンスや有給がとりづらくなる。スタッフは120人。研修は1度に10人。60人がまだ研修を受けていなません。年3回、4ヶ月に1回だとすると、今年度はあと2回。マリー=ルーの説明に対し、最古参の看護師ソフィー(Marie Bunel)がユマニチュード研修によって仕事の早いスタッフが見下される傾向にあると批判する。マリー=ルーは全員が学び実践すれば時短になると訴えるが、ソフィーはその話は聞き飽きたと受け付けない。オリヴァーが次回のミーティングで詳細を詰めると引き取り、今週中に評価報告書を提出すること、15時からヴァネッサ(Héloïse Janjaud)の入居者インタヴュー企画に手の空いたスタッフは顔を出すように告げて終了する。
ヴァネッサの司会進行でルイーズとファルコン一家の話を聞く。子供たちによればルイーズは厳格な元体育教師で恐れられたと言う。ルイーズは認知症が進行しているが、自身の体操選手として平均台に立つ写真がモニターに映し出されると、美しいと呟いた。会場から笑いが起こる。ヴァネッサが締めの挨拶をして来週はフィリップ(Jérôme Chappatte)とムラーノ一家を迎えるとアナウンスする。
施設長室。マリー=ルーがラップトップに向かいヴィデオ会議に臨んでいる。人材確保のため4%のベースアップを訴えるが、理事長はグループの利益を減らすことになる、管理人棟の改装にも使ったと述べると退出してしまった。理事のケヴィン(Jean-Louis Garçon)は味方するが「自由の庭」をユマニチュード実践のモデルにしたいならやり過ぎないようにと忠告されて会議は終了。今し方現われたオリヴァーが耳にして、ケヴィンが味方と言うのは信頼に足るのか尋ねられると、マリー=ルーは演じてるだけかもと溢す。ベア3%を再度要求して2.5%を勝ち取りたいと言う。オリヴァーからドリスが母親の病気でまた夜勤に入れないと告げられた。マリー=ルーは私が入ると言うが、昨日も夜勤だったとオリヴァーが止める。施設長室を訪れたマリオン(Heidi Becker-Babel)が2人の話を耳にして自分が入ると申し出てくれた。オリヴァーが甘えなさいとマリー=ルーを帰らせる。
マリー=ルーが施設を出ようとした所で、女性介護士から呼び止められる。月末で退職する件だった。彼女は、マリー=ルーが施設長になって代わったが、介護士を見下す文化は変わらないと吐露した。マリー=ルーが退職してどうするのか尋ねると、自宅で小さな介護施設を開くと言う。看護師のアンナも辞めて一緒に働く構想らしい。マリー=ルーは、戻りたくなったらいつでも戻りなさいと彼女に告げた。
マリー=ルーが洗面所で睡眠薬を飲む。ベッドに入り消灯したところでスマートフォンが鳴る。シモーヌの急変の連絡だった。睡眠薬を飲んでしまったから起きたらすぐに向かうとテキストメッセージを送る。

 

2025年6月。パリにある老人介護施設「自由の庭」。マリー=ルー・フォンテーヌ(Virginie Efira)が施設長に就任して2年。ユマニチュードを実践するモデル施設とするべく休み無く働いてきた。文化人類学を研究していたが、若年性アルツハイマーを患った母親が高級老人介護施設入所後見る見る衰え67歳で失った経験から、介護士資格を取り、老人介護を根本的に変革したいという熱意に衝き動かされてきた。だがユマニチュード実践のための改革を焦るあまり、古参の看護師ソフィー(Marie Bunel)を初め現場の負担が過重になると反撥を受ける。マリー=ルー自身が燃え尽き症候群寸前にあり、副施設長のオリヴァー(Jean-Charles Clichet)からは仕事をセーヴするよう忠告されている。久々の休日に路面電車に乗っているとき、自閉症の青年・窪寺智樹(黒崎煌代)が車体に触れんばかりに走ってきた。心配したマリー=ルーがすぐに下車してビュット・デュ・シャポー・ルージュ公園で青年を捜す。唸り声をあげる青年を見付けたところで俄雨に。マリー=ルーが落ち着かせ2人で雨宿りしていると、GPS発信器の信号で祖父・清宮吾朗(長塚京三)と森崎真理(岡本多緒)が智樹を迎えに来た。マリー=ルーは礼を言われるとともに真理から舞台"Da Vicino Nessuno è Normale."のフライヤーを手渡される。吾朗は役者で、真理は演出家だった。後日、マリー=ルーは、テアトル13に芝居を見に行く。

(以下では、全篇についても言及する。)

ユマニチュードの理想を実現したい、老人介護施設の責任者マリー=ルーは、燃え尽き症候群寸前。ある日、自閉症の青年・智樹に遭遇し、保護する。2人でする驟雨の雨宿り。智樹は、過熱するマリー=ルーに降り注ぐ慈雨となるだろう。
智樹を介し、マリー=ルーは智樹の祖父・吾朗と、役者である吾朗とタッグを組む演出家・真理に出会う。2人の芝居"Da Vicino Nessuno è Normale."は、イタリアで精神病院を廃止したフランコ・バザリア[Franco Basaglia]に纏わる物語だ。その芝居では観客に打楽器が手渡され、ステージには智樹が時に叫び声、唸り声を上げながら出入りする。舞台=役者と客席=観客との間に境はない。同様に、精神病者と健常者との間にもまた境は無い。間近で見ればまともな者などいない[Da vicino nessuno è normale]ことを構造として訴える。そして、上演後の質疑応答では、マリー=ルーの質問に真理が進行性の癌で余命幾ばくも無いことが打ち明けられる。
真理は癌のステージ4で余命宣告を受けている。だが、死に至るのは癌患者だけではない。離れて見れば誰もが死に至る[Da lontano, tutti sono fatali]。私は、そして世界は有限である。
真理は、マリー=ルーの理想とするユマニチュードの介護施設が何故実現しないのかを考え、有限な世界において無限(の資本の拡大)を前提とする資本主義のシステムに絡め取られているからだと洞察する。破綻は不可避である。抜け道があるか。どこにもない[nowhere]。確かに不可能は不可能である。しかし、不可能であるのは飽くまでも不可能が可能とされるまでだ。では不可能が可能となる不確定な未来の到来にリスクを見るのかそれとも希望を見出すのか。思考の壁を打ち破るのは、今・ここ[now/here]の捉え方次第だ。それは、余命宣告を受けいつ急に具合が悪くなる――そして死に至る――か知れない真理が希望を持って生きることとパラレルである。そんな真理にマリー=ルーは共鳴するのだ。
冒頭、パリの街並を捉えたカメラは、かつて精神病院であった老人介護施設「自由の庭」の煉瓦塀を映す。塀=壁は精神病者と健常者との境界であり、断絶である。「間近で見ればまともな者などいない[Da vicino nessuno è normale]」が、壁により精神病者を間近で見ることは叶わなかった。抜け道はあるのか。ない。だが、鳥を見よ。あるいは猫――アディジャの飼い猫レオは真理の部屋に入り込む――を見よ。壁など何でも無い。鳥や猫にとっては世界は庭――自由の庭[Le Jardin de la liberté]――なのだ。だから、真理とマリー=ルーには鳥の糞が落ちる。気付きを与えるためだ。そして、真理の部屋には鳩が飛び込んでくるだろう。それは真理が魂となってこの世を去ることを伝えるためだけではない。鳩となり壁を越えられることもまた報せるのだ。ならば、もう1人のマリであるマリー=ルーもまた、壁を越えられるだろう。だからラストシーンでは、カメラは上昇していく。鳥のように。

 病は時代が生む。男性もまた時代によって狂気に陥るだろう。が、なぜとりわけ女性の狂気について考えたのか。
 男性や女性自身でさえ、「皆が女性になればいい」と語った人がいることが念頭にあった。ジル・ドゥルーズと共に大著を書いた精神科医フェリックス・ガタリだ。(略)
 (略)
 このときの「女性」とは、「この世界の別の可能性」くらいの意味を持つ。
 (略)
 「女性になる」ことを媒介にして、あらゆる世界へと変容する可能性。ここまで大きな意味を「女性」に仮託するのはなぜなのか。
 思考の補助線となるのが、ジャック・ラカンの有名な「女は存在しない」という概念である。いま生きている女性は、現在の言語および社会システムをインストールされている時点で、本質的に「女性」ではない。つまり、これまで1度も、女性自身の声によって作り上げた言語システムや、その上で築かれる社会を、女性自身が生きたことがない。(略)つまり女性は、女性自身としてこれでで存在したことがない――。
 女性は必然的にいつでも狂う潜在性をもっているだろう、と思わされる。ガタリは「分裂病」の分析を、政治闘争であり、革命であり、「資本主義の止め金」だと考えていた。病のなかに見える、日常に即した絶え間ない分子的な革命。(略)
 自らの身体が国家の領土のように隷属させられることから逃れるため、官僚的社会機構が自分の要望をコード化してくる圧力から自由でいるために、外部への生成変化が必要だ。その思考の延長線上でガタリは「皆が女になれ」と言った。病者も何らかの形で社会秩序をおよびやかすからこそ、人々は介入する。つまり「女になる」ことと、分裂病を分析することはガタリのなかで同義だった。
 女性も男性もみな「女になる」ことによって、男権的社会を脱却、解体、崩壊させ、逃げ道を作り、微分的な予兆を感じながら、日常の生活のなかから革命を起こしたい。『分子革命』には、ガタリのそうした思想が描かれている。(中村佑子「女が狂うとき24:狂うことの革命―みな女になれ」(『図書』第930号〔2026年6月〕/岩波書店/p.39-40)

自閉症の智樹は、舞台と観客を自由に往き来する。マリー=ルーに発見される場面では、路面電車を追って駆けていた。飛翔する鳥のようであった。何より、言葉の壁を易々と越えていく。唸りとも叫びとも区別のつかない素っ頓狂な声で、周囲を捲き込んでいく。「自由の庭」の庭で上演される"Da Vicino Nessuno è Normale."では、ケアする者とケアされる者とがまぜこぜとなるだろう。
そもそも庭とは内部であり外部でもあり、同時に内部でなく外部でもない。
パリの街を歩き廻るマリー=ルーと真理。そして、日本でともに眺める日の出。映画『恋人までの距離[Before Sunrise]』(1995)の向こうを張って、"After Sunrise"を強く意識させる作品である。