展覧会『五十嵐大地個展「蝕像」』を鑑賞しての備忘録
MITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYにて、2026年6月24日~7月6日。
グラス、カトラリー、皿などをシリコンで型取りし、乳白色の樹脂で複製した後、台上に並べて撮影したイメージをキャンヴァスに油絵具で描き出した作品で構成される、五十嵐大地の個展。
《Burgundy Glass #2》(273mm×410mm)には、樹脂により複製したワイングラス2脚がベージュで描かれる。グラスは逆さの釣鐘状のボウルが大きく欠け、また突起のあるステムの周囲などにバリが残る。プレートの部分も架けている。接する2脚のうち右側の方がやや傾いでいるためにリムが上により高く持ち上がり、また若干大きく見える。《Burgundy Glass #1》(455mm×530mm)では3脚が接するように並べられるが、向きを違えてあるため、ボウルの欠損の大きさが3点で異なって見える。
《Plate and knives #1》(500mm×606mm)は、折り目の残るクロスを敷いた上に1枚の皿と9本のナイフを雑然と並べたイメージが灰白色で表わされる。皿は歪み、ナイフはには欠損が見られバリが残る。《Plate and knives #2》(318mm×410mm)は同じモティーフを描くが、若干配置を異にする。《Plate and knives #3》(220mm×273mm)は、《Plate and knives #2》のうち、皿の左側が入る形でナイフの部分をクローズアップして描く。支持体に厚みがある。
《Plate and Forks #3》(727mm×910mm)には、2枚の皿を僅かに重なるように並べた上や周囲に9本のフォークを鏤めたイメージが灰白色で描かれる。右側の皿の縁に左側の皿の縁が載る形で、それぞれにフォークが三角形状に置かれ、さらにそれぞれの皿の脇にフォークが配される。同じ配置の繰り返しは、リズミカルで、ペアによるダンスのようである。
《Plate and Oyster Shells #1》(606mm×727mm)は、クロスの上の1枚の皿と4個の牡蠣殻とを灰白色で表わした作品。皺の寄るクロスの上に歪な皿が載り、そこに2つ、さらにクロスの上に直に2個の牡蠣がある。《Plate and Oyster Shells #2》(500mm×727mm)は、皿の牡蠣が2個に加え、クロスの上の牡蠣が左に1つ、右に3つの4個となっている。
《Cloth and Apples #1》(500mm×606mm)は、布の中に8個ほどのリンゴが並ぶ。赤い画面で表わされているのが目を惹く。
《Marbles and Cigarettes #5》(273mm×220mm)は大理石の板を3枚重ねた上で煙を上げる煙草を描いた作品。《Marbles and Cigarettes #4》(220mm×273mm)は横構図、《Marbles and Cigarettes #3》(273mm×220mm)は煙の形が異なるが、同じモティーフを扱いつつ、画面に厚みが持たせてある。モノクロームに近い色味だが、樹脂の複製品によるためではなくモティーフ自体の色に基づくもので、他のシリーズとは趣を異にする。
《Cut Glass #1》(220mm×273mm)では、グラスそのものとその樹脂による複製品とが並べて描かれている。透明であるとともに光を反射するグラスと、バリが目立つクリーム色の複製品との対照が際立つ。
シリコン型を用いた樹脂による複製、写真、絵画と3度に渡ってモティーフが複製される。言わば絵画の中の絵画が繰り返されている。劇中劇のある映画を撮る物語の映画にも擬えられよう。画中画や劇中劇は、虚構の中の虚構により、虚構のリアリティを高める効果がある。のみならず、日々、メディアを介して情報を受け取っている現実の似姿でもある。一次情報に接する機会はどれほどあるだろうか。描き出される入れ籠の世界こそ、実は現実そのものという諷刺がある。
もう1つの主題は、生命そのものではないか。生命を支えるシステムが複製だからである。そして複製の際の誤りは、多様性を生み出す。だから作家は欠損したモティーフを肯定的に描き出すのである。崩れたモティーフに廃墟を見出すなら、それもまた世界のアナロジーである。
均衡をつくり出すのは、この宇宙自身にそなわっている基本的なベクトル(方向性をもった力)だ。クォークから原子、原子から分子、分子からDNA連鎖、単細胞から多細胞生物、生物から意識、意識から共同体の文化、民俗文化から世界文明へと、複雑さを増し相転移(氷が水に、水が水蒸気に一挙にその在り方を変えるような)を重ねながら、より高いレベルを段階的に生み出してゆく力。1匹の単細胞生物、1個の煉瓦はそれ事態はほとんど安定しているが、群として見ればほとんど無秩序のカオスである。それが集まってより大きな多細胞生物体、ひとつの建築物となればその機能はより複雑に高レベルになるが、より不安定に壊れ易くなる。この宇宙で複雑なものほど不安定で、その出現は稀な偶然、ほとんど恩寵の賜物だ。
廃墟はそんなこの宇宙の微妙な〝相転移のドラマ〟に深くかかわっている。(略)
つまり秩序とカオスの中間形態、というよりカオスへの還元過程の一時期の状態である。そこで秩序とカオスの双方が触れ合って見える場所である。壊れかけた建築物の高度の秩序形態が、より低い単純な建築物の中から作り出された自己形成力が感じられると同時に、いま廃物の散乱が一面の塵というカオスに帰りつつあるその恐るべき荒廃力も、いつか新たなより複雑な秩序ある形態を産み出すであろう、ということ――日常の都市や田園では通常見えないことが、ありありと見える貴重な場所である。(略)
廃墟が無常感の感傷に浸る場所では決してない、と先に私が書いたことの意味はそういうことである。鉱物の残骸物も、死んだ不動の、固定しきった存在のあり方を示すのではない。この宇宙のどんな小さなものにも、絶対の終局つまり死というものはない。死とはあるレベルでの秩序の弛緩ないし崩壊であって(何より意識という最高度に複雑精妙な機能の)、よりカオス的レベルに戻った構成要素たち(水、炭素、燐酸、カルシウムなど)は直ちにあの宇宙の方向性ある力に巻きこまれて動き始める。再びより複雑でより不安定な構成物を形づくるために。
(略)
かつてのより安定した在り方の記憶を深く留めながら、光背の威厳と美をいましばし虚無の只中に現出しているほとんど聖なる廃墟。懐かしく畏るべきもの。妖しく意識の最深部を魅惑してやまない不安なもの。その精妙に絡み合った陰影。
それはまさしく私たち自身の姿ではあるまいか。(日野啓三「廃墟」谷川渥編『廃墟大全』中央公論新社〔中公文庫〕/2003/p.274-276)