可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『トリフォリウム 女子美術大学日本画修士在学生展』(2026)

展覧会『第47回大学日本画展 トリフォリウム 女子美術大学日本画修士在学生展』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2026年6月27日~7月12日。

女子美術大学日本画修士在学する櫻井梨乃、游可欣、郭語欣、宍戸ゆきみの絵画を展観する企画。

郭語欣の《花残月》(1455mm×1455mm)は花々に囲まれた女性像。淡いピンクのフリルのあるワンピースドレスの女性は、細かな模様のあるレースの日傘を差し、紫色の大きな花が咲き誇る中で、足元の花に手を伸ばす。傘や衣服の模様は胡粉(?)により盛り上げられ、落ち着いた色味ながらもゴージャスな印象を生む。傘の骨や中棒、女性の下への視線、降ろされた右腕、そして右手の人差指によって視線が下方へと誘導される。他方、茎と花が左右で上方に向かうことで、画面に動きが生じている。女性のいる場所は深い緑で、その外側に拡がるピンクの部分と、画面上方を走る水平線で別れている。水平線は右下に僅かに傾斜し、画面右端ではグッと下がる。色面に付けられた変化は、建築で言えば「アール」であり、演劇における抽象的な装置――例えば、場面によって石段にも車の運転席にも室内のソファにもなるような段差――のように、作品の舞台を草地にも水辺にも想像力次第で多様に変じさせる。
同じく郭語欣の《夜を連れて》(1720mm×2273mm)は坐る女性と黒豹を描いた作品。ウェーブのかかる髪を垂らす女性は刺繍の入れられたワンピースを着て木製の椅子に浅く腰掛ける。彼女の背後を黒豹が横切る。藍色の黒豹は夜の象徴だ。石を敷き詰めたテラスの先にはサボテンや棕櫚が植えられ、その隙間からヨーロッパ中世の都市を髣髴とさせる家並が覗く。さらには星や鳥をモティーフとしたモビール、レースのカーテンや傘、煙とも雲とも見分けの付かない流体が表わされる。《花残月》にも見られた「アール」を着けられた色面が、室内と屋外、現実と夢とを混淆させる世界の現出に一役買っている。実際、夢は現実を反映するだけでなく、夢もまた現実に影響する。現実と空想との境界は曖昧なもので、せいぜいすやり霞で仕切られているに過ぎないのだ。

游可欣の《Lamp Ⅰ》(1120mm×1620mm)は水辺に立つ巨木を描いた作品。右側に太い幹が直立し、左手の明るい池に枝を伸す。枝と重なる水面には夕陽が映り込み、樹木が街灯となる。ランプ=夕陽の朱、オレンジ、明るい水面の黄、葉の緑、水の青というように、虹色がランプの光の放散に合わせて配される。大樹の陰により強調される宵闇迫る暗がりと、夕陽や水面の明るさとが対照されている。同じく游可欣の《日曜日、曇り》(1620mm×1323mm)は木立の中の道を描いたと思しき作品。灌木と梢を天に伸す木々とは、暗緑色、緑、灰色、藍色などの鮮やかな葉叢を持つ。灰色の樹冠はどんよりとした空を想起させるとともに、木の間から覗くピンク色の空が日曜日の浮き立つ心を表わす。靄が立ち籠めたような石畳の道には十字が配される。安息日に教会に向かう道なのだろう。游可欣の《月と隠れん坊》(9100mm×727mm)は、欠けた月のような形の水辺の周囲に繁る草木を描いた作品。画面下部中央に下側に欠けた部分を持つ団扇絵の画面のような水面が覗く。水草が浮かぶほか、周囲の木々を映し出す。水の周囲を屈曲する力強い幹や、緑、紫、灰青など色取り取りの葉叢が飾る。画面の奥にには格子が覗く。温室のガラス壁面だろうか。灰白色の硝子に射し込むのは月明かりなのかもしれない。月は「ながむる人の心にぞすむ」。

宍戸ゆきみ《Luminous》(652mm×500mm)は、仰向けに眠る赤ん坊の顔を描いた作品。画面右上と左下との対角線の下側に横たわる赤ん坊の顔を対角線と平行に配する。見開いた眼に映るのは緑色の森の景観である。口にはおしゃぶりのような円があり。その円に向かって4つの紫の円の列と、7つの小さな円の列が直角を成すように並ぶ。赤ん坊の頭上には星が輝き、その星の緒が上に凸の弧を描き赤ん坊の胸元へと走る。鏤められる色取り取りの光の粒を含め、赤子の誕生を寿ぐ世界をステンドグラスのような青い画面が支える。水と光(エネルギー)とが植物(≒光合成)を介して生命を循環することを表わす。宍戸ゆきみ《そよ風に揺られて、雲に乗って》(2240mm×1455mm)は、農地の上空を飛ぶ鶴と飛行機とを上から描いた作品。地上には農地がパッチワークないしステンドグラスのような姿を見せる。浮かび上がる図は、(センターピポッドによる農場のような)緑の円から放射状に拡がる旭日旗である。その上空を5羽の鶴と共にオレンジ色の軍用機が飛ぶ。白い雲とともに見えるのは爆撃による煙のようだ。一見鮮やかな世界は、不穏な空気に包まれている。宍戸ゆきみ《太陽と月の待ち合わせ》(2273mm×1620mm)は、眠りに着く太陽と目覚めた月とを中心とした渦のイメージの作品。画面中央に、目を閉じ口を開いた太陽と目を開き口を閉じた月との組み合わせによる円が配される。その周囲にはピンクと青の波が渦を描くように拡がり、その波に呑み込まれた腕が5本ほど伸びる。左上には倒立した街並がメルヘンチックに描かれる。画面下部に散らされた色の粒の中には、認識票が紛れ込んでいる。戦争の歯車にいつの間にかの絡め取られてしまっていたのだ。太陽はアトミックサンシャインのメタファーであろうか。世界の静謐がいつ覆されるか分からない。平和な世界が戦争に転じる危険は常に孕まれている。核抑止論ではなく核兵器廃絶に向かわなければならない。

櫻井梨乃《乱して整えて》(1940mm×1303mm)は、タイルを敷き詰めた地面、マンホール、プランター、ホース、箒など庭の景観を真上から捉えた作品。数種のタイルによる格子模様となって画面を分割し、錆びたマンホールの蓋、羊歯の生えるプランター、ホース、箒、コンクリートブロック、水道管などが乱雑に置かれる。庭の手入れや清掃は、エントロピー増大に抗い新陳代謝を行う、生命自身の似姿だ。プランターとシダ植物が地球と植物、マンホールが太陽(放射)、ホースや水道管は水、格子は細胞である。《渦脱》(1818mm×2273mm)は、人とオオサンショウウオ(?)とを表わした作品。画面中央左側に頭部があり、その左下には肋骨のような形が、また頭部の上にはオオサンショウウオらしき生き物がいて、それらの周囲を霧が取り巻く。画面に亀裂を入れるような赤や白の震える線、折れる線は稲光のようだ。横倒しの頭部は五行山に封印された孫悟空を想起させる。画面右側には縦に線が走り、途中で一旦矩形状に折れ拡がる。その矩形部分から腕が突き出される。「オオサンショウウオ」は、会田誠の《大山椒魚》がそうであるように、鑑賞者にリビドーの発散を感じさせる。見通しの立たない世界で欲望に衝き動かされる人物を表わす作品と解される不穏な作品である。よく見ると、顔(頬)の上に恵比寿ないし雷神のような存在が載っている。「オオサンショウウオ」=リビドーとの解釈からすれば、むしろ『風流艶色真似ゑもん』の浮世之介が仙人の秘薬で変じる豆男となろうか。