可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 宮山香和個展『しせん』

展覧会『宮山香和「しせん」』を鑑賞しての備忘録
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2026年6月27日~7月12日。

「見る/見られる」をテーマとした絵画で構成される、宮山香和の個展。

《サマーゴースト》(1303mm×1940mm)は山を背に立つ住宅の庭を描いた作品。玄関ポーチのアーチや緑色の外壁、ベランダや出窓が印象的な住居が中景左側に配される。夏の盛りの庭は、花を付けた樹木を始め様々な草木が葉叢を勢いよく繁らせる。緑に呼応するように入道組みが湧き立ち家を呑み込もうとする。右側奥には別の家が立ち、針葉樹林が背後に拡がる。遠景には水平の稜線を持つ塀のように走る。覆わんばかりに立ちはだかるモティーフに対し、前景は開けている。強い陽射しを虹色に照り返す地面には、少年が腹這いになって手にした何かに夢中になっている。その少年の前に静かに坐る犬が見守っている。少年と犬とは光により周囲に融け込む。少年、犬、家、草木、森、山、雲、空といったモティーフは見ると同時に見られもする。眼差しは双方向だ。そして、それを可能にするのは同じ陽光である。
同様に、《White Sphere》(530mm×410mm)では、青空を背に白い雲と融け合うガスホルダーを後景に、植栽と金網フェンスとに融け込む青緑のTシャツの青年を前景に描く。ここでも青年が何かを目にし、ガスホルダーが見張るような関係が示される。
会場に設置されたカメラで撮影されたデータから来場者の画像データを抽出し、立体データに加工した上で3Dプリンタで出力した作品を床に盛るインスタレーション《わたしがあなたを定義する//あなたはわたしを定義する》では、「見る/見られる」(眼差しの双方向性)とともに、ベージュの「鑑賞者たち」が撒かれた砂に融け込むことで、世界との一体化が表現される。

 見えるものがわたしを満たし、わたしを占有するのは、それを見ているわたしが無の底からそれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、見るものとしてのわたしもまた見えるものだからにほかならない。1つ1つの色や音、肌ざわり、現在と世界の重み、厚み、肉をなしtるのは、それらを把握している当の人間が、自分をそれらから一種の巻きつき(enroulement)ないし重複(redoublement)によって出現していあもので、それらと根底では同質だと感ずることであり、かれが自分に立ち返った見えるものそのものであり、その引きかえに見えるものがかれの眼にとってかれの写しないしかれの肉の延長のごときものとなることなのである。(VI〔引用者註:『見えるものと見えないもの』〕 158)
 ここでわれわれは、自分で見ているものを「おのれの見る能力の裏面」として認めている。その意味で、わたしの身体と世界はおなじ〈肉〉でできているといわれるわkであり、両者が越境と跨ぎ越しの関係といわれるわけである(VI 364)。あるいはまt、わたし自身の可視性が見えるものすべてにまで延長されてゆくこのような出来事を、あらゆる視覚のもつ根元的な〈ナルシシスム〉であると規定している。こうした反転、自分を見つめる自分を見るナルシシスムは、〈鏡〉の現象としても規定される。「肉とは鏡の現象であり、鏡とはわたしの身体にたいするわたしの関係の拡張なのである」、と。
 見る身体と見られる身体、触れる身体と触れられる身体へと切開され、さらに重ねあわされ、反転させられるこのプロセスを、メルロ=ポンティは「裂開」(déhiscence)とよんでいる。このような裂開のなかで、われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである(VI 171)。とすれば、みるのはわれわれ主体だけではない。すべての見られるものはまた見るものでもあることになる。(鷲田清一『現代思想の冒険者たち Select メルロ=ポンティ―可逆性』講談社/2003/p.270-272)

《ヘミングウェイと南国の島》(1620mm×1120mm)には、木漏れ日の射し込む室内に立つ裸体人物が描かれる。奥の部屋に鉢植えの観葉植物とともに着衣の無い人物が背を向けて立つ。その姿は手前の部屋との出入り口により縁取られる。手前の部屋の奥側の壁面にかかる、熱帯の森の鳥を描いた絵画と呼応して、絵画の中に封じ込まれたようだ。一般的には見るものとされる人物が、見られるものとされる絵画より奥に配されることで、「見る/見られる」関係の反転が象徴されている。さらに屋内全体に木洩れが射し込むことで建物の外に立つ樹木の存在が暗示されることで、室内の観葉植物と(さらには絵画内の森)と入れ籠の関係が重ねて強調される。手前の部屋の左壁面には、アーネスト・ヘミングウェイ[Ernest Hemingway]の『日はまた昇る[The Sun Also Rises]』の一節、"You can't get away from yourself by moving from one place to another"が引用されている。ところえ本作の人物は、奥の部屋の奥側にも同じ出入り口を鏡に見立てれば、鏡に向かって立つ人物でありながら鏡の中にも背中を見せる人物が映り込む、ルネ・マグリット[René Magritte]の《不許複製[La reproduction interdite]》を髣髴とさせもする。そして、奥にある「鏡」的出入り口に何も映らないことが、「不許複製」をより徹底させているようでもある。何故か。(鏡に)「映る」ことの不可能性とは、「写る」こと(複製)の不可能性に他ならないからである。そして、延いては「移る」ことの不可能性を通じ、ヘミングウェイの引用――自分から逃げることはできない――を反転させた形で示すのだ。
《#Scene 1 海岸線》(910mm×727mm)では、砂浜で背景幕を垂らし、花瓶の花を前にした女性モデルが描かれる。女性の衣装はピンクなどで花の同系色を中心にまとめられている。カメラ及びカメラマンこそ不在だが、照明と撮影用の傘がモデルに向けられる。他方、女性モデルもまたヴィデオカメラを手にしている。ここでも見るものと見られるものとは反転することが表現されている。なおかつ、わざわざ海辺を撮影地にしたにも拘わらず、海を覆い隠す背景幕は、やはり「移る」ことの不可能性を象徴していよう。