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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 白簱花呼個展『私 呼吸し さめざめないてみる』

展覧会『白簱花呼「私 呼吸し さめざめないてみる」』を鑑賞しての備忘録
Yutaka Kikutake Gallery〔京橋〕にて、2026年5月30日~7月25日。

実寸よりも大きく表わされた女性の顔など女性の肖像画7点を中心に、欄を描いた作品1点を加えた、白簱花呼の個展。

《あせる》(460mm×380mm)は、頭頂と右耳が画面上端・左端から切れるほど画面一杯に表わされる、右向きの4分の3面観。ベージュの膚で頬にはピンクが差される。額を露わに豊かな金髪が左右に覗く。前方を見据える眼と閉じた唇が、頬や口元の水滴と相俟って必死さを感じさせる。泰西名画を参照しているようだが下敷きになる作品は判然としない。表情はかなり異なるが、《あせる》という画題からは、ヤコポ・ダ・ポントルモ[Jacopo da Pontormo]の《十字架降下[Deposizione]》でキリストの重い遺体を抱える中腰の青年の顔を想起させる。
《Untitled》(805mm×1005mm)は、右上に額、左下に首が来る位置で、仰向けの人物の顔を左側面からクローズアップして描いた作品。額から鼻、口から顎、そして首へと連なる線に沿ってレモン色が配されることで、ベージュの膚が暗く感じられる。それでもピンクが差す頬、見開かれた左目、顎の艶やかさなどに生命感が湛えられている。右下に配される左耳が、黒い髪に囲まれることもあって印象的である。
《はい……はい?》(1345mm×1000mm)には、右手の人差指を顎に当てた女性の顔が描かれる。右に向けられた顔には左からの光が当たり、左眼にハイライトとなる白い点が打たれ、赤味が差す頬や鼻は艶やかに輝く。露わな額の下、やや眼から離れた位置でアーチを描く眉が特徴的で、左頬には左眉に呼応するが如くほつれ毛が見える。右手の人差指が顎にかけられて曲がる形もまた、首を捻る動作をなぞるようである。岸田劉生《麗子肖像(麗子五歳之像)》を連想させるのは、暗めの灰青の背景だからというだけではなく、「デロリ」に通じる粘着質な雰囲気を纏っているためである。膚に見える赤い筋は何の疵痕なのか。
「デロリ」の雰囲気をより濃厚に漂わせるのは《さきにはいってや》(1345mm×1000mm)であろう。頭頂部が上端から切れるほどクローズアップして描かれた女性の右向きの4分の3面観の肖像である。細い弧状の眉の下の眠たげな眼は左右で開かれる程度が異なり、眼差しはやや低い位置に向けられている。目は笑っていないが口角が上がることで口元だけが微笑しているために、巨大な顔が鑑賞者の眼に煮え付くようである。どんよりとした暗い背景も妖しげな印象を高めている。
《FUMIKO》(380mm×270mm)には、左向きの4分の3面観で女性の笑顔が描かれる。画題からすれば具体的なモデルがいるのであろうか。輝く笑顔とは言えるのだが、塗り方に荒々しさがあり、眼の周りや頬、顎などに配されるピンクの描面はパッチワークのようで、女性の顔を解体するかのような印象さえ受ける。劉生流の「デロリ」ではなく、フランシス・ベーコン[Francis Bacon]まで極端に歪められてはいないとしても、ルシアン・フロイト[Lucian Freud]やミヒャエル・ボレマンス[Michaël Borremans]の作品に通じる不穏さを持つ。
《S.K》(363mm×1280mm)は、横長の画面に臙脂を背景に3人の微笑む女性の顔を描いた作品。左側に右に顔を向けた女性、中央にやや左を向いた女性、右側に左に顔を向けた女性を配する。3人の女性の組み合わせから、ルーカス・クラナッハ(父)[Lucas Cranach der Ältere]の《三美神[Drei Grazien]》など「三美神」を下敷きにしていると思しい。ヨーロッパの古画を連想させる《あせる》に比して現代的な女性のイメージであることに加え、鑑賞者に向けられた眼差しは、化粧品の広告ポスター――横長の画面は電車に掲出されるポスターを連想させる――のようである。
《そうね、そうなんだけどね》(200mm×135mm)には頬にかかる髪を中心に女性の左横顔が大きく表わされている。
《Pink Orchid》(665mm×665mm)は画面一杯に欄の5つ6つの花弁を描いた作品である。女性の顔が描かれた作品の中に何故蘭の花の絵画を忍び込ませたのであろうか。本作に描かれる蘭とは種類・形は異なるが、ヨーロッパの地生蘭オフリスは、蜂の雌に擬態するという。

 オフリスが相手にしてる蜂には、春先、まず雄の方が野外を飛び回るようになり、遅れて雌が現われる習性がある。雄は当然、早く雌が出てこないかと野原をあちこち探し回ることになる。オフリスはそれを見透かしたかのように、雄が現われた後、雌がまだ出て来ないうちに、雌の蜂そっくりの花を咲かせる。この擬態はとても凝っていて、唇弁の部分は蜂の腹そっくりの色と光沢をしているだけでなく、その他の花弁や萼片は蜂の足や触角に似せて毛を生やしている。しかも花の奥からは、雌蜂のフェロモンそっくりの成分を分泌するという念の入れようだ。雄蜂は生まれてこの方、本物の雌蜂をまだ見ていないということもあって、簡単にこのオフリスの擬態に引っかかり、花を雌蜂だと思って誘拐しようとする。その表紙に、例の花粉塊のあるところに頭をぶつけ、花粉をくっつけてしまうわけだ。そうしていくら羽ばたいても引っ張ってゆくことのできない花と格闘した後、あきらめて別の花のところに行く。ここでも同じことをして、こちらには先の花粉を柱頭になすりつけるという次第。雄蜂とすれば骨折り損のくたびれ儲けだが、オフリスの方はめでたく交配成功、種をつけるのである。興味深いことに、オフリスは種ごとに花の色や形が微妙に違っていて、それぞれ相手にする蜂の種類が違う。というより、相手にする蜂ごとに花の色形が違うのである。(塚谷裕一『蘭への招待――その不思議な形と生態』集英社〔集英社新書〕/2001/p.82-83)

ちょうどオフリスが受粉のために擬態するように、《Pink Orchid》は女性の生殖器を象徴するのではないか。女性の肌と並ぶ花弁の色は女性の器官を連想させる色味や形を持つ。すなわち、《Pink Orchid》は性器のメタファーなのである。

 (略)AI技術によって加工され、他者の欲望の対象としてネット空間で消費され続けるアイドル像を目にしたことを契機に、女性の表象を「見られる」存在から「見せる」主体へと転換する白簱の探究がはじまりました。既存のイメージの内部に自身が潜り込み、あるいは自己に既存の女性像を重ねて描くという彼女の実践は、「彼女達」が浴び続ける欲望の眼差しを自身に一部引き受けるという態度から始まった方法論です。白簱はこのようなイメージの再構築を意図したアプローチを、古代の呪術的身振り「アナ・スロマイ」的意味合いを持つ、女性像の拡張の試みと位置付けています。(本展解説文より)

アナスロマイ[ἀνασύρομαι]とは衣服を持ち上げる意味で、ヘロドトス[Ἡρόδοτος]が女性生殖器を見せる信仰に与えた名である。

 カタルーニャのことわざがある「女陰を見せれば海が鎮まる」。カタルーニャのこの信仰は、漁師の妻が夫を海に送りだすときに、縁起をかついで、海に向かって性器を見せるという習慣のもとになっている。(略)
 伝承や歴史によれば、女性がヴァギナを見せる行為は、自然の驚異を鎮める力を持つにとどまらない。多くの民族にとって、女性生殖器は強力な魔除けの力を秘めたものでもあった。つまり、女性がヴァギナを見せれば、悪いことが起きるのを防ぐことができると思われていたのである。悪魔を追い払い、悪霊をしりぞけ、鬼を脅し、敵を恐れさせ、神々を威嚇する――こうした英雄的で危険な行為のすべてが、女性生殖器の力を示すものとみなされている。その結果、さまざまな文化で女性がヴァギナを見せる勇敢な行為の物語が伝えられている。(C.ブラックリッジ〔藤田真利子〕『ヴァギナ 女性器の文化史』河出書房新社〔河出文庫〕/2011/p.21-22)

作家が描く女性像から受ける「デロリ」の印象の所以は、魔術にあったのである。ルネ・マグリット[René Magritte]の《凌辱[Le Viol]》が露わにする、女性に向けられた男性の性的な眼差しを跳ね返す。女性の眼は邪眼であり、性器としてアナ・スロマイを行う。「自然の驚異を鎮め」、「悪魔を追い払い、悪霊をしりぞけ、鬼を脅し、敵を恐れさせ、神々を威嚇する」ため、隠されてきた力を発揮する。天岩戸から天照大御神が再び姿を現わしたように。元始、女性は太陽であった。