展覧会『江口枝里「青磁から森」』を鑑賞しての備忘録
Bambinart Galleryにて、2026年6月26日~7月18日。
人間や動物の体の断片が果物や草木などとともに青空や広漠な地に配される、日本で受容されたシュルレアリスムを髣髴とさせる絵画で構成される、江口枝里の個展。
《赤の辺》(318mm×410mm)は、赤い背景に大小の蛇4匹がシルエットとして描かれ、その上にタッセルで縛られた紫色のカーテンと青空に湧く雲を背景に溶けた犬を表わす画中画とが配される。正体不明のクリーム色の断片も転がる。画面の右側には半円に近い形で赤い地の部分が引っ込み、草叢と暗い空とを覗かせる。赤の地は、右側の「半円」を開口部とした円筒の内部を表わす。円筒は洞窟に比せられる。プラトン[Πλάτων]の洞窟の比喩だ。洞窟の外に拡がる世界ではなく「洞窟」内の「影」を認識していることを画中画により示す。タッセルにより纏められたカーテンは脚を模している。蛇と相俟って、蛇足となる。洞窟の中で目にしているのは実体の影などではなく捏造されたイメージである。蛇の知恵を借りなければならない。
《東京》(654mm×532mm)は、塗り斑のあるレモン色ないし山吹色の画面に、複数伸びる草葉、無数の側根、腕とがU字に描かれた作品。草の中には2つの眼が浮かび上がり、合掌する手と合わせ、祈りを捧げる人物のようにも見える。画題に引き付けて解釈すれば、根を蔓延らせて青々とした葉を繁らせる草は、地方からの収奪による繁栄する東京であろう。脚がないのは自らは動く必要がないためであり、成果を受け取るための手ばかりが発達するのである。下に転がる断片は、死にゆく地方のメタファーだろう。搾取する地方を失った中央もまた枯死の命運を避けられない。
《愛犬を想う》(333mm×242mm)には、サッシ(窓枠)越しに見える青空に浮かぶ脚、手、薔薇、林檎、そして断片化された犬が描かれる。下段中央に林檎、その上にスラックスの男性の右脚と何かを受け取るような手、画面右端には犬の頭部や脚など断片が並び、左上には逆様に薔薇の花が落下する。林檎や薔薇は、死した犬に対する供物である。幽霊に脚が無いのなら、自ら脚を切り離すことで幽霊と化すことが叶うだろう。霊に擬態することで、愛犬の霊との交信を可能にしようとするのではないか。窓枠は遺影の額だ。肉体に囚われなくなった世界では、複数の時間が交錯し、断片的なイメージが止めどなく湧き出す。
《海鳴り》(242mm×333mm)は、青空を背にした壊れた看板のようなものに騎馬人物や馬のシルエットが描かれた作品。上端に右から突き出すバーがあり、そこには歩く馬の脚が覗く。そのバーの先からは壊れた看板らしきものが吊り下がり、騎乗の人物と、別の馬の姿が表わされる。その下に青い欠片が2つほど浮かぶ。馬が駆ける際に響く音と海鳴りとの類似から発想されたイメージであろうか。押し寄せる波は砕けるが、再び波が押し寄せる。生と死との繰り返しが止むことなく繰り返される。
《丸みのある透明》(333mm×455mm)には、花をデザインした革、牛、花や松などを水平線とともに表わされる。左下から右端中段にかけて水平線(あるいは地平線)がゆるやかな弧を描いて走り、その上には青空が拡がる。左手前から右奥へ牛が画面から切れるほど大きく表わされる。背には花を描いた革が掛けられ、牛の体が消えている。奥には牛の頭部あるいはそのように見える花が覗く。画面右下には大きな花が配され、牛の尻や脚からは松のような木が伸びる。革は画布として、恰もマジックショーのように、あらゆるイメージを出して見せる。水平線=海は水として変幻自在である。主題は万物斉同ではなかろうか。
《日曜日》(455mm×608mm)は沙漠に立ち尽くす人物を描いた作品。画面左側に太腿まで砂に埋まった白ブリーフの男性が背を向けて立つ。頭部は無く、背には2枚の葉が付着している。彼の目の前には道が二手に分かれて延び、その先にそれぞれ色の異なる卵が立つ。左側には植物が繁茂するイメージが表わされた壁、正面奥にはコンクリート剥き出しの壁が立ち、壁の上半分には青空のイメージが描かれる。壁のアーチ型の開口部からは揚羽蝶が舞うのが見える。壁の途切れた場所に太い幹の樹木が立つ。最前面左側には柱が、右側には翼が覗く。二股に分かれた道は選択肢が与えられているように見えるが、どちらに進んでも同じことだ。卵は男が歩みを進める度に遠のくだろうが、そもそも彼が一歩でも進むことはない。脚は砂に埋まり、翼は打ち棄ててしまったからだ。前進にせよ飛翔にせよ始めから自分次第であったのに、彼にはどこにも行く気がないのである。フランツ・カフカ[Franz Kafka]の「掟の門[Vor dem Gesetz]」に通じる主題であろう。
《レモンの庭》(727mm×530mm)の水色の画面には果実と葉、赤いマフラーをした灰色のジャケットの人物の上半身が表わされる。中心には灰色のジャケットを羽織り、赤いマフラーをした人物が4分の3面観で描かれている。人物と言っても、頭部に当たる部分にはクリーム色の不定形の塊があるに過ぎない。その頭に当たる部分は俯いている。右腕は黒いアームカヴァーらしきものに覆われているが、ナメクジのような形をしている。「人物」の背後にはレモンの木の葉だろうか、複数の葉が散り拡がる。左上には「頭部」と同じほどの大きさのレモンが浮かぶ。ヨーゼフ・ボイス[Joseph Beuys]の《カプリ・バッテリー[Capri Battery]》よろしく、レモンは電池である。接続すれば「人物」は動き出す。またレモンは光であり、言葉である。人間を人間たらしめるものである。
《わたし》(606mm×909mm)は、球体を覆う砂漠を取り除こうとする人物を描く作品。砂漠に女性が仰向けで倒れている。頭部から血が流れている。その砂漠は球体を布のように覆う。画面手前の人物がその布の一部を右手で摘まみ上げ、引き剥がそうとしている。その人物の顔からは黒い犬が顔を伸す。その首には牛や猫の姿も見える。犬の先には木(あるいは板塀)が立ち、その洞(あるいは破れ)から雲が湧き立ち、遠く球体の先に立つ建物へと流れていく。生成変化[devenir]が主題であろう。《丸みのある透明》の万物斉同と同趣旨ではないか。作家の作品はシュルレアリスムを髣髴とさせるが、本作は最もサルバドール・ダリ[Salvador Dalí]の影響を感じさせる。
《水平飛行》(410mm×532mm)は、花柄など複数の布を被った人物頭像と砂丘や貝殻などを表した作品。画面左側に右向きの石膏でできた頭部が配される。花柄の山吹やピンクの布を被り、額や鼻や口が覗き、また耳が出ている。画面右側には砂丘と貝殻が見える。砂丘の中は空洞で、奥にミサイルが飛翔する海岸が覗く。貝殻の中にも同じミサイルが飛翔するのが見える。砂丘の洞窟は、《赤の辺》同様、洞窟の比喩のメタファーだろう。洞窟の外に視線を向けようとしている。貝殻は「洞窟」であり、「わたし」である。マクロコスモスに対するミクロコスモスであり、入れ籠の世界である。
《置き土産》(318mm×410mm)は、複数の赤紫色の身体が埋まった地面を背景に、ナナホシテントウを描いた画中画3点を配した作品。画中画はいずれも、大地・植物・青空の雲・天道虫を構成要素とし、植物や雲の大きさと、天道虫の現われとが異なる。6本の足だけを描いたもの、縮み潰れたもの、足のない天道虫がそれぞれ表わされる。《わたし》同様、生成変化が主題と見られる。
《見られている》(270mm×220mm)は葉や茎など繁茂する植物に一面覆われた作品。右上から伸びる茎の先に咲く赤い花が アクセントである。画面中央右上に僅かに隙間があり、青空が覗く。それは眼のメタファーである。モーリス・メルロー=ポンティ[Maurice Merleau-Ponty]が引用する、森を見ているのではなく森に見られているのだという画家の言葉が想起される。
森のなかで、わたしは幾度もわたしが森を見ているのではないと感じた。樹がわたしを見つめ、わたしに語りかけているように感じた日もある……。わたしは、といえば、わたしはそこにいた、耳を傾けながら……。画家は世界によって貫かれるべきなのであって、世界を貫こうなどと望むべきではないと思う……。わたしは内から浸され、すっぽり埋没されるのを待つのだ。おそらくわたしは、浮かび上がろうとして描くわけだろう。(OE〔引用者註:『眼と精神』〕 266)
自分がふと物によって見つめられていると感じるとき、わたしは能動性と受動性の深い交叉を経験しているのだ。能動性と受動性との、内と外とのたえざる反転。わたしの視覚は、そういう〈肉〉のなかに縫合されている。
このように、わたしの身体は内と外とに二重化される。その鏡として、その裏面として物もまた内と外とに二重化される。わたしの二重化された身体、見える身体と見るしんたいのあいだには、相互の挿入と絡み合いの関係がある(VI〔引用者註:『見えるものと見えない物』〕 192)。「世界がわたしの身体の双葉のあいだに挿しこまれたり、わたしの身体がもろもろの物や世界の双葉のあいだに挿しこまれたりする』(VI 239)。
身体の「双葉」と世界の「双葉」がたがいい挿しこみあっているさま、それをメルロ=ポンティは「二つの唇」のそれとして言い換えもする。この「双葉」がたがいに絡みあうことそのことが、身体と世界がおなじ〈肉〉からできていることいわれたことの意味なのである。(鷲田清一『現代思想の冒険者たち Select メルロ=ポンティ――可逆性』講談社/2003/p.272-273)