展覧会『青野文昭×南谷理加「群島」』を鑑賞しての備忘録
AWASE galleryにて、2026年7月4日~19日。
家具や段ボール箱に空き缶や靴、書籍など雑多な品々を組み合わせて人の姿を表わす青野文昭と、戯画的な人物が躍動する絵画と布を貼り合せた支持体に表わしたリズミカルなドローイングを提示する南谷理加の二人展。
【青野文昭】
《「死者と生者たち」―なおす・代用・合体・集積・立ち上げ 2026》(2300mm×1400mm×950mm)は、7段の箪笥の表面に複数の人物を彫り込んだ作品。一人は箪笥の先端に頭部が位置し、彼が被る帽子が箪笥の上に載せられ、あるいは箪笥から延長された手には空き缶が握られる。その他の人物達も腕や脚を箪笥から食み出して伸すように木材が津継ぎ足され、その先には軍手や手袋が嵌められ、靴やサンダルが履かされている。マルク・シャガール[Marc Chagall]で宙を浮くかのように表わされる人物よろしく、箪笥に浮き出した人物たちは必ずしも重力に囚われることはない。いくつかの突き出した足により支えられる箪笥は傾く。箪笥は死者の記憶装置であり、狭い世界に仕舞い込まれた者たちが現し世へと這い出そうと手を伸ばす。その情念によって傾ぐのであろう。付喪神の、作家による独自解釈とも評し得よう。《「家族たち」―なおす・代用・合体・集積・立ち上げ 2026》(2540mm×1000mm×700mm)は5段の箪笥に人物を組み合わせた作品。大きく手を振って歩き出す人物や、「板塔婆」を想起させる鋭く高く伸びた板、箪笥の上に積み重なった漫画本が眼を引く。スニーカーを履いた足、野球のバットを持つ手など、活気が感じられる。「板塔婆」は依代であるともに、積み上げた漫画本に積み石を連想させる効果を持つ。少年たちの姿は、賽の河原にいるのかもしれない。《「あなたとわたし」―なおす・代用・合体・集積・立ち上げ 2026》(1500mm×1100mm×550mm)は2人がかりで箪笥を運ぼうとする姿を表わした作品。ヘルメットを被った人物と文庫本の頭部を持つ人物とが向かい合って箪笥を支えている姿が表わされる。2人で小さな棺を運んでいるようにも見える。
《なおす・代用・合体・集積・立ち上げ(箱・複数の欠片)2026-3》(500mm×500mm×200mm)は、段ボール箱にピンクのスニーカーを履いた少女の脚などを表わした作品。《なおす・代用・合体・集積・立ち上げ(箱・複数の欠片)2026-7》(1400mm×350mm×250mm)は4つの段ボール箱を組み上げた中に樹が生育する様などを表わした作品。青野文昭《なおす・代用・合体・集積・立ち上げ(箱・複数の欠片)2026-5》(480mm×300mm×220mm)は段ボール箱にカップ麵の容器や紫色のサンダルが組み込まれている。
(略)商品=貨幣経済が発達してくると、自然はもはや恵みの母とはみなされず、たんなる物質的客体、純粋な素材的対象となり、そこから自然を加工した生産物も単なる利潤獲得のための手段となり、物の質的有用性は儲けのための必要悪にすぎず、質ではなく量が重視されるようになってくる。市場に次第に物が豊富に出回ってくるにつれ、消費者の方も見知らぬ他人から買った自分の所有物を自由に処分できるようになるだろう。人格的関係が断ち切られて物と物との関係に変質し、人格の物象化と物の人格化という、いわゆる物化(reificatio)現象が発生する。人間の価値が私有する貨幣量によって評価され、金銭という社会的な力の量的多寡が人格の力に代置される一方で、人々の意識面では「元本が利子を生む」とか「灯油が上がる」とか「足(銭)が逃げる」とかいった、生命のない物がまるで生きた物でもあるかのような比喩的表現が出現する。
(略)マルクスが『資本論』の有名な「商品の呪物的性格(Fetischcharakter)とその秘密」でのべたように、ごくありふれた机が商品として現われるや、「自分の足で床の上に立っているだけではなく、他のすべての商品にたいして頭で立っており、そしてその木頭からは、机が自分かってに踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げる」転倒した(Wuid pro quo)世界が現われるのである。
(略)
(略)有用物としての机は、有用物としての鏡同様、どういじくりまわしてみてもそこに「価値」の一片だに含まれていない。ところが、一定の政治的関係では鏡に王権が具現するように、意っての経済関係では商品=机が他の商品との関係の中で価値の万華鏡をくりひろげ、交換価値が生まれつき自分に備わった自然的属性であるかのような顔をして逆立ちして踊りだす。商品に体化された労働の社会的性格が、商品自体の幻影のような対象性として現われ、人と人との関係にとって代わった物と物との関係からなる全般的な物象的関連が、逆に人間を圧倒し、疎外し、支配しはじめるわけである。むろん単純商品経済ではこの物象関連が社会全体を覆いつくすことはないが、あの付喪神たちもアニミズムの基盤の上でこうした物神化現象を利用して妖怪に変化し、暴れ回ることができたのだった。古道具はもはや交換価値はなく、わずかな使用価値が残るのみだが、年経た人や物は魔物に化すというアニミズムと、商品の中の商品である「貨幣は魔物」といフェティシズムとを巧みに重ねて器物の物神に化けたのだろう。(山内昶『ものと人間の文化史 122-Ⅰ もののけⅠ』法政大学出版局/2004/p.290-294)
「年経た人や物は魔物に化すというアニミズムと、商品の中の商品である「貨幣は魔物」といフェティシズムとを巧みに重ねて」古い箪笥を生命を吹き込んだ作家は、さらにフェティシズムを徹底させ、商品の梱包材たる段ボール箱までを物神化させたのである。
【南谷理加】
《公園》(720mm×1125mm)の中央には深緑の段が聳える。背後には満月にも見える巨大な黄色い円が覗く。右側奥には脚榻のようなものがあり、緑や青の円、赤い四角形が浮かぶ。段の手前には、右手でボールを操りつつ、左手のデッキブラシで段を消去する人物がいる。傍らには小さな犬が坐る。段の中に人形が入り込んでいるのが分かる。左側には上半身裸の人物が倒れ込む。段や脚榻のようなものが遊具なのかどうかは判断がつかない。人物が何をしているのかも判然としない。円や四角形は具体的なモティーフを踏まえているのではなく、この場の雰囲気を示す記号なのかもしれない。1つだけ確かなのは、段の中に埋め込まれた人の姿が青野文昭の箪笥(の抽斗)に刻み込まれた人物とパラレルであることだ。
《影法師》(1830mm×1121mm)は中央に全裸の男性が立ち、背後に被さるように黒い人影が重なる。人影の左側には黒や青などで塗り潰された格子があり、その下に、急須、マグカップ、スプーン、庖丁などが見える。白い点(小さな円)が人物の腹の辺りから円弧を描き上方へと点々と連なる。右下には絵筆を手にした骸骨がいる。
《waiting room》(974mm×657mm)には、部屋の中の6人の人物がモノクロームに近い配色で描かれる。黒い壁には高い位置に時計があり、ポスターが2枚貼られている。談笑するような人物はいずれ裸体で、灰色に近い人物たちの中で日足だけが慌てて部屋を飛びそうとしている。スーツこそ着ていないが、ミヒャエル・エンデ[Michael Ende]の『モモ[Momo oder Die seltsame Geschichte von den Zeit-Dieben und von dem Kind, das den Menschen die gestohlene Zeit zurückbrachte]』に登場する灰色の男たちを連想してしまう。
《北風》(878mm×700mm)には、建築現場か工場か、支柱や梯子が並ぶ空間の奥で、黒と黄色の格子に向かう人物が描かれる。男の姿は床の水溜まりに映り込み、その脇には黒い犬が2匹見える。犬たちの傍にはヴァイオリンか落ちている。頭蓋骨を描いたポスターや、熊手のような器具も見える。筆記体の文字のような白い線が犬とヴァイオリンの傍に見えるのが、風の表現なのかもしれない。
《front end》(762mm×684mm)には、水色の上に赤い格子があり、鋏、螺旋、鉛筆が配される。画面右端の赤く塗り潰した部分には、人物の横顔が画中画のように表わされる。
《迷い犬》(723mm×503mm)には、ドアや壁のある屋内とも屋外とも判断の付かない場所に1匹の犬が描かれる。取り付く島も無い作品を前に途方に暮れる鑑賞者の似姿であるかもしれない。
ドローイング作品は、複数の布を貼り合せた支持体に、人物が描かれるとともに、文具・工具、あるいは楽器が鏤められている。切り貼りすなわち切断と接続がナイフや鋏、あるいは鎹や釘によって示されるとともに、音の途切れと連続とも響き合う。蝸牛はト音記号、オタマジャクシ(精子?)は音符に変じていく。ジャズの即興演奏のようでもある。それはまた、様々な廃棄物が組み合わされ人や植物と混淆する青野文昭の作品に通じる。
樹々が伝えようとしてるのは群島の声である。大陸の固着と所有の原理を自らの意思として放擲した樹々とその無数の種子によって結ばれた声。そして群島の人間たちは、ときにその声をよりよく聴き出すために樹々の内奥に隠されてある音の粒子をとりだそうと、樹の幹をくりぬいて素朴な楽器をつくった。樹々がつねに海流とともに長距離を移動し、ある日ふと波打ち際に寄り着く群島地帯では、群島世界をつくりなす他者たちの声は、すべてこれらの樹々の内奥に蓄えられた音の年輪に向けて聞き耳をたてることで受け取ることができたからだ。そしてその声=音を打ち出す者ら自身の体内の空洞が、他者の声と共振しあい、自己を脱中心化し、ゆたかで悲痛な倍音を自らの声に与えつづけた。(今福龍太『群島‐世界論[パルティータⅡ]』水声社/2017/p.435-436)
作家の許に漂着した物、あるいはモティーフから、それらが発する声を聞き出そうと組み立て、描き出した作品は、群島の人々が樹木から作った楽器に通じる。