可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 高橋遥個展『白い暗渠』

展覧会『高橋遥「白い暗渠」』を鑑賞しての備忘録
hide galleryにて、2026年7月11日~26日。

複数の油彩画を木片で接続した表題作《a white culvert》を中心とする、高橋遥の個展。

《a white culvert》(1270mm×600mm×48mm)は、小さな油彩画5つを、表面が半ば曇った金属板、木枠の中に木片を組んだものなどとともに、棒(細長い木片を組み合わせた直線的も造形物)で接続した作品。油彩を施した画布はいずれも長方形(直方体)だが、それぞれ縦横の長さ・比率が異なる。描かれるのは、灰色、茶、ベージュなどに白が重ねられた抽象的なイメージである。上下を木片で挟み、「棒」に取り付けてある。表面の曇った銀色の金属板は鏡のようであり、油彩画同様、木片で挟んで右側の縦の「棒」に設置されている。「鏡」と同じ縦の「棒」の上には、「鏡」を模したような板を貼り付けた板がある。左から2番目の「棒」の下端には木枠で囲んだ中に種々の木片を配したものがある。木片は同じ「棒」の上にある絵画に擬態する。油彩画・「鏡」・「木片絵画」を繋げる「棒」は縦に配したものを中心に、「棒」に添えるように、あるいは直交するように板を組んである。3箇所見られる十字は目を惹くが、格子を成してはおらず、むしろ系図や回路図に近い形状である。「棒」は額縁の変形物ではない。絵画を周囲から切断するものではなく接続するものだからである。
垂直構造が強調される《a white culvert》に対し、水平方向が印象的な《prehistoric river valley》(408mm×1010mm×50mm)には、6枚の絵画が取り付けられている。画布には色鉛筆により、印象派の絵画に見られるような模糊としたイメージが表わされるとともに、蛇のようにのたうつ線が見える。会場は渋谷氷川神社に接する地にある。氷川神社が見沼の水神を祀っていたと考えられるように、渋谷氷川神社も水神信仰との関連が容易に想像される。渋谷氷川神社に結び付くのは渋谷川である。会場周辺では水面を眺めることができるが、渋谷駅以北では暗渠となっている。護岸される以前は流路も様々に変じただろう。都市に伏流する存在、その人々への影響に作家は思いを馳せるのだろう。

 〔引用者補記:『美術手帖』1962年4月増刊号〕誌面6ページに亘るこの作品〔引用者註:磯崎新「孵化過程」〕は、家屋の密集した都市の空撮写真(撮影は二川幸夫)から始まる。磯崎によるテクストはそこに「生成の過程の終点」としての「均質化した空間」「閉塞の秩序」を唐突にこう宣言する――「破壊をともなわない都市計画は養老院のなかでつくればいい」。この挑発的な言辞のページを捲ると、先ほどの写真の街区があたかも爆撃されたかのように変化したイメージが現われ、その中央を縦に亀裂がはしっている。「大地から湧出するどろどろの不定型な物質」が都市を飲み尽くし破壊するとき、「あたらしい孵化がはじまる」と磯崎は書く。不定型化した大地にはすでに、ジョイント・コア・システムの巨大なシャフトの開口部を表わすと思われる円が数多く散在している。見開きの右ページで示された計画図では、先ほどの亀裂部に太い道路が敷かれ、そこから脇道が幾重にも分岐している。ジョイント・コアはすでに大スパンの構造体で縦横に連結されているようだ。磯崎のテクストはこうした都市計画を「不定形な物質に運動の秩序をあたえること」と呼ぶ。孵化のプロセスは「運動と成長の原則にもとず(ママ)いたシステム」を要求するのである。
 これに続く見開きの上部は新宿計画のドローイングである。下部はその平面図で、自動車によるアプローチ部分を青く、低層部のショッピング・エリアや広場をピンク色で示している。磯崎によれば、ここで描かれたような都市は限定し陥穽された全体像として固定化したものではなく、あくまで「部分の機構」、つまりシステムであり、そのシステムは自己増殖し変化するという。それに伴って都市の全体像はつねに崩壊し続ける。都市とはそのようなプロセスそのものにほかならない。そのためのシステム(機構)は自由に成長する空間を共存あっせつつ連結するものでなければならない。そうした意味で、ジョイント・コアという「《柱》」は「都市空間の発生する原点」なのだ。これに続くのが「孵化過程」の最終ページである。テクストを引こう――
「かくして孵化された都市は、崩壊する宿命にある。廃墟は、わわわれの都市の未来の姿であり、未来都市は廃墟そのものである。われわれの現代都市は、それ故にわずかな《時間》を生き、エネルギーを発散させ、再び物質と化すであろう。われわれのあらゆる提案と努力はそこに埋め込まれて、そしてふたたび孵化培養器が建設される。それが未来だ」。
 このページに掲げられたのは、ジョイント・コア・システムからなる未来都市のドローイングと廃墟化した古代ギリシア神殿の写真とのモンタージュである。(略)
 都市を廃墟と見なすという視点は、同じ1962年1月に発表された論文「現代都市における空間の性格」ですでに表明されていたものだった。そこで磯崎は、ここで言う「廃墟」にノスタルジーや古代への憧憬、「廃墟の美」といった意味づけはいっさいないことを強調している。「廃墟」とは徹底して物理的・物質的な崩壊過程のプロセスを指し、そこで重要なのは、廃墟化をもたらす破壊や風化といった事件の偶発性である。都市空間は「突発事件の互いに無関係に独立した連続的発生によってつぎつぎとかたちづくられる」のだ。この点で都市の成長と廃墟かは時間の向きが逆転する点のみが異なる同種の「プロセス」である。それゆえに磯崎は「プロセスだけが具体的事実であり、プロセスだけが信じられるのである」と断言する。
 (略)
 (略)新しい都市の「孵化」は「美徳と安逸にみちた都市」が閉塞し、そこで蓄積・抑圧されたエネルギーが不定形な物質化して噴出し、都市を覆い破壊するときに起きる。「孵化」とはいわば都市の「卵殻」に破壊による「亀裂」が生じることにほかなるまい――「その変動は狂暴であり、みさかいなく、あなたをおびやかし、殺すだろう」。磯崎の作品「孵化過程の核心をなしているのはこの「亀裂」を生む破壊なのであり、それに対応ないし対抗して都市につかの間の「運動の秩序」を与えるジョイント・コア・システムはそこで、じつは幕間狂言に過ぎぬものと化しているのではないか。(田中純『磯崎新論』講談社/2024/p.136-140)

都市は生活環境であるとともに、人々の似姿でもあろう。一見、静謐は作品は、その実、「みさかいなく、あなたをおびやかし、殺す」、「蓄積・抑圧されたエネルギー」が暗渠といて伏流することを暴き立てるのである。