展覧会『小久保タクミ+渡部真衣「SHOW WINDOW」』を鑑賞しての備忘録
KYOK art studio-galleryにて、2026年7月21日~30日。
自然物と人工物とを問わず珍品のコレクションのような絵画を提示する小久保タクミと、顔に他のイメージを重ねた絵画と切断された人魚の絵画とを出展する渡部真衣とによる、欲望/所有をテーマに掲げる二人展。
【小久保タクミ】
《WunderKammer(seed)》(1120mm×1620mm)には、コンクリート製と思しい部屋の中いっぱいに発芽したマゼンタの種が描かれている。手前側は開けていて光が射し込む、扉などの無いコンクリート打ちっぱなしの部屋は、遠近感が強調され、奥に向かい窄まっているように見える。床から天井までの高さで、壁に近い幅のある鮮やかなマゼンタを呈する種が鎮座している。左下からは根が生え、上側は割れ、右上からは双葉(ないし蔓)を覗かせる。類例作品の《WunderKammer(seed)》(652mm×652mm)では、木製の箱にアンモナイトらしき貝の化石が置かれている。灰色など岩石を思わせる色ではなく、鮮やかな青色をしているのが目を惹く。タイトルに冠された「驚異の部屋[WunderKammer]」は、博物館の祖型とされる、珍品の陳列室である。植物の種子や動物の化石をモティーフとするのは似つかわしい。他方、キッチュなマゼンタや青の色味は、自然の驚異を愛でる趣旨から外れている。ジョルジョ・デ・キリコ[Giorgio de Chirico]の描く室内の絵画などに通じる。
《普通のイコン》(272mm×190mm)の黒い画面には、絹のような光沢のある白い布による造形が浮かぶ。皺が寄り起ち上がる布には、画題にある「イコン」という言葉と相俟って、ヴェイルを被る人物、例えば聖母を看取することも可能である。《Violet Symbol》(727mm×530mm)は赤紫の画面に彫像を描いた作品。四角い台座に衣文のある胴が頂部に向かって窄まりながら伸びる。頸や頭部はなく、中途で断絶した両腕を持ち上げる。腕では無く翼の表現かもしれない。どことなく女性的であり、翼を持つ天使のようでもある。艶やかな表面は大理石のような石を連想させる。周囲の赤紫の光を浴びて紫色に見えているようだ。右奥に伸びる影が壁で折れる。《Silver Creature》(910mm×652mm)は、やや暗い水色の画面にメタリックなオブジェを表わした作品。アルミ箔のような薄い金属で古代魚ないし未知の生物を造形してある。笠のある頭部は亀頭のようであり、胴体を含め陰茎のような形状である。石棒のような呪具ならば、シンボル的、イコン的である。ビリヤードテーブル上の2つの球を摑もうとする黒い手の影を描く《Cel Vision #4》(340mm×800mm)もまた、キュー(=男根)やポケット(=女陰)こそ描かれていないが、2つの球を睾丸に見立て、性的なメタファーを読み取ることは不可能ではなかろう。
ヴンダーカンマーが誕生し、発展を遂げてきた過程の根底にあったのは、一切智を重んじる万能主義だった。森羅万象すべてを自らの手で扱おうとする考え方であって、典型的な人物が、たとえばキルヒャーだった。彼は1人で、この世界の、この宇宙のすべての情報を集めようとし、その情報で満たすべくヴンダーカンマーの設営に勤しんだ。
それにしてもなぜ、このような万能主義が成り立ちえたのか。万能主義が目指す究極の目的とは、宇宙を創った神の叡知を探ることにあった。聖職者だったキルヒャーであれば、なおさらその傾向が強かったことは想像に難くない。彼は聖書の記述に基づき、ノアの方舟やバベルの塔に関する研究を進め、神との関係において人類の歴史を明らかにし、さらには宇宙の真実を探ろうとした。
しかしそうした宇宙観は、ちょうどヴンダーカンマーの衰退と軌を一にするかのように、時代遅れと見なされてゆく。それを促したのが「聖俗革命」と呼ばれているもので、従来の神‐人間‐自然という図式から神を排除し、人間中心主義を標榜した。これをさらに推し進めれば、やがては啓蒙主義にまで行き着く。
「啓蒙」とは「蒙きを啓く」という意味である。王侯貴族によって牛耳られ、教会が背後で隠然たる影響力を保っているような社会を打ち破り、個人の復権を目指すものだった。(略)
キルヒャーのような神中心の姿勢は、旧世界の残滓として、否定されるしかなかった。そもそも、個人がすべての情報を集めるなど不可能というもの。仮に百歩譲って可能であったとしても、今度はそれを1つの空間に詰め込んでディスプレイするなど、およそ正気の沙汰とは見なされなくなった。
では、あえてすべての智を結集したような空間を作りたければ、どのようにすればよいのか。それは、近代的な知の代名詞ともいわれる百科全書を作ることである。百科全書は、この世界、この宇宙の森羅万象を網羅することを意図しながら、もはや神のごとき万能の存在を必要としない。むしろ、それぞれの専門分野を極めた個々人が、分業体制で各々の研究成果を持ち寄り、最終的に1つの知的世界を築き上げる。
(略)
神の後退という現象は、ヴンダーカンマーのコレクションにも大きな影響を与えた。具体的にいえば、「竜」や「人魚」のミイラ、あるいは「アルラウネ」〔引用者註:マンドラゴラ。絞首刑になった罪人の精子から生える植物〕といったまがい物、これら、ヴンダーカンマーに不可欠の品々が、徐々に無用のレッテルを貼られていったのである。(小宮正安『愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎』集英社〔集英社新書〕/2007/p.198-202)
【渡部真衣】
《Sold by weight》は横たわる人魚を左側面から漆黒の画面に描いた5点組の作品。人魚はヨーロッパ中世においてキリスト教会が女性らしさを貶めるべく利用したものの、却って人々に実在を強く印象づけることになったという経緯がある(ヴォーン・スクリブナー〔川副智子・肱岡千泰〕『図説 人魚の文化史 神話・科学・マーメイド伝説』原書房/2021/第1章参照)。
とはいえ、20世紀にはいると、西洋文化における人魚の実在に対する信仰はほぼ消え去った。だが、マーメイドやトリトンへの関心が薄れたわけではない。むしろ、(略)人魚、なかでもマーメイドは、性、メディア、資本主義、利益をあらわす重要なシンボルになっていった。不信の時代へ移行してもなお、面白いことに(ある意味では皮肉なことに)、人々はマーメイドにあの官能的なセイレンとしては最高の人気を与えたのである。
マーメイドが商業面で人気を獲得できたのは、性や欲情や不思議な事象との長い関係のおかげだった。初期や中世のキリスト教会が、欲望に対する警告のために利用したこのマーメイドの性的なイメージを、20世紀のメディアは市場獲得の目的に利用した。とりわけアメリカの資本主義社会の未来が最高に輝いていた第二次世界大戦後、マーメイドは利益を生み出す広告塔として、広告主から映画制作者、興行師に芸術家までをも虜にした。キリスト教会が貶めるためにつくりだした危険な存在を、アメリカのメディアはまさに欲していた。何世紀もかけてはぐくまれた人魚の性的イメージをメディアが商業的に利用する一方、マーメイドはポストモダンのフェミニストの言説に於ける、ある種のアイコンにもなった。(ヴォーン・スクリブナー〔川副智子・肱岡千泰〕『図説 人魚の文化史 神話・科学・マーメイド伝説』原書房/2021/p.23)
《Sold by weight 1/5》(965mm×1000mm)には腹這いになり肘を突いて頭を持ち上げた人魚の頭部から腹部までが描かれる。輪郭の周囲は暈かされ鱗の部分も含めた裸身が闇に浮かび上がる。輝くよ右腕は胸を支え、肘を突く左腕は折り曲げられて手で左肩に触れる。人魚は奥を見ていて、ショートボブの艶やかな黒髪に覆われた後頭部を見せる。《Sold by weight 2/5》(965mm×250mm)には背鰭だけの魚の胴が切断された形で描かれる。同様に、《Sold by weight 3/5》(965mm×280mm)、《Sold by weight 3/5》(965mm×400mm)にはそれぞれ背鰭と腹鰭の胴を、《Sold by weight 5/5》(965mm×380mm)には尾鰭の胴を表わしてある。何より目を惹くのは、人魚が切断されて描かれている点である。量り売りとは、かつて人魚の肉が長寿に効果があるとの俗説を踏まえたものであろうか。人魚が顔を見せず、鑑賞者を見詰め返すことはない点に、人魚は一方的な欲望の対象とされていることが示される。なおかつ左手の薬指に嵌められた指輪は、婚姻による男性による支配を暗示する。欲望が所有と不可分であること、なおかつ物理的存在の所有には限界があり、対象の分割が不可避であることが訴えられる。眼差しが象徴する欲望/所有とは、対象を破壊する暴力たり得る。
眼差しが主題であることは、画面に大きく顔を表わした「Passing Portrait」シリーズ3点からも窺える。例えば、《Passing Portrait 04(Narcissus)》は、画面一杯に女性の顔を表わし、レジンを塗った上にカラヴァッジョ[Caravaggio]の《ナルキッソス[Narciso]》のイメージ――ナルキッソスが自らの映った水面に見蕩れる――を重ねた作品である。レジンに縦線を連ねて水面の漣を表わし、イメージの揺らぎを暗示する。ナルキッソスの膝頭は頭蓋骨のようにも見える。映像の揺らぎは固定したイメージを捉えることができないことを、また、水鏡を眺めるナルキッソスを介して自らの顔を自ら見ることはできないことを訴える。自らの身体でさえ眼差す=所有することは不可能である。欲望/所有の概念を再考せねばなるまい。欲望/所有の可能性を拓くのが、エッフェル塔について大著『エッフェル塔試論』を物した松浦寿輝の流儀である。
(略)その後も仕事でしばしば行くが、視界の隅をエッフェル塔が掠めるたび、あれはわたしの塔だ、わたしのものだという密かな思いが胸の中に昂まるのを抑えきれない。この奇妙な建築物の生成過程と意味についてこれほどの労力と時間を注いで考えつめようとした変人など、かつても今も、世界中のどこにも出現していないからである。(松浦寿輝『エッフェル塔試論』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2000/p.540〔文庫版のためのあとがき」)
作家の言葉を捩れば、"passing/property"。
(略)「もつ」の対象は、孤立的なモノではないし、特定の人に匿し持たれるものではないし、だれかが溜め込むものでもない。モノはそれよりもむしろ、他者に分け与えたり、共有したり、譲り渡したりというぐあいに、人のあいだを巡るものである。そういう視点からあらためて《所有》という関係を考えなおそうと提案する論攷がある。文化人類学者・小川さやかの「手放すことで自己を打ち立てる――タンザニアのインフォーマル経済における所有・贈与・人格」(2023年)である。
何かを「持つ」ことと「手放す」こととを対立するものとしてしか見ない考え方、つまり「所有」を「帰属」と同一視する考え方が普通だと人は言うが、ほんとうは逆で、「所有」と他者への「分配」もしくは「贈与」とがそこでは対立するものではないような社会が現にあって、それらを対立的に見る考え方のほうが限定的であると、小川はいう。(鷲田清一『所有論』講談社/2024/p.510-511)