可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 吉田茉莉子個展(2026)

展覧会『新世代への視点2026 吉田茉莉子展』を鑑賞しての備忘録
コバヤシ画廊にて、2026年7月20日~8月1日。

太陽の下、人間が植物と大地や水辺で混淆する姿を表わした絵画で構成される、吉田茉莉子の個展。木枠に画布を包む形で張った作品と、画布に開けた穴にハトメを取り付け流木を組んだ外枠に紐で張った作品とがある。

《美しいものが滅びてしまっても》(1830mm×1350mm)は、画布の端に約10cmごとにハトメを取り付け、樹皮を剝がした粗い仕上げの木材を組んだ枠に紐で結わえ付けた作品。最下段には雷が落ちる都市の建物群が描かれ、覆うように青白い人物が斃れている。その身体は水(=黄泉)であり、肋骨の浮いた赤い肌の女性が浸っていて、長い腕を支えに起き上がろうとしている。彼女の傍には彼女と同じ色をした木肌の幹があり、枝を上方や左右に伸す。木の脇からは女性の光輪のように長い脚が伸びる。また、中央の樹の左右には、サンドロ・ボッティチェリ[Sandro Botticelli]の《春[Primavera]》に登場するゼピュロスのような頭部がそれぞれ下向きに覗く。但し、風ではなく循環する太陽を象徴するようである。ゼピュロス=西風は来迎図を連想させもする。その余は植物が埋め尽くす密林が如くである。雷は稲妻とも言われるとおり、落雷によるエネルギーは、恰も切断された茎や幹からまた葉や枝が伸びるように、遺体を再生させるのだろう。生から死、死から生という循環が、黄泉、緩やかな弧の脚、異時同図法的な頭部=ゼピュロスなどが構成する輪・渦により暗示される。
《Luminance》(790mm×850m)は4本の流木を組み合わせた枠に引っ掛けた紐をハトメに通すことで画布を張った作品。画布と木枠との間の隙間が大きく、宙空に浮く印象を強める。淀む暗い水面に人物が浮いている。左右の腕はゆるやかな弧を描くように曲げられ、円を形作る。無人の一艘の小舟が接岸する池畔には裸木が何本も立っている。空は所々で渦を巻き、光を恰も漏斗雲のように地表に放つ。そのうちの1つが水面に浮く人物の胸を貫く。光エネルギーの循環により活かされる生命を描く作品である。
《無限》(1940mm×3240m)は水と木々とに覆われた沼地を舞台とする作品で、中央左下には女性が左向きに膝を突き坐り、鑑賞者の方を振り返る。彼女の身体を、長い腕が蛇の蜷局のように取り巻く。また、画面右側から、相馬の古内裏の骸骨――むしろボッティチェリなら《ヴィーナスの誕生[La Nascita di Venere]》のゼピュロスに擬えるべきか――のように身を乗り出す精霊(?)が腕を差し伸べる。のみならず天からも無数の腕が伸びている。腕は光を象徴する。《美しいものが滅びてしまっても》にも登場する頭部が画面右上から覗く。右手前では、骨が透けて見える半透明の人物が女性を眺めている。
《Stratum》(サイズ可変)は左右2本の流木による支柱の間に、ハトメを通した紐で張った画布5枚を張った作品。最下段には丸々胎児を骨となった魚やハサミムシとヒトとの間の子のような存在が取り巻く。2枚目には最下段の胎から伸びた植物の世話をするハサミムシのようなヒトが描かれる。2枚目から3枚目の左側、3枚目から4枚目の右側では、ハサミムシのようなヒトが両腕、両脚を開き躍動する。祈願のために舞踊を奉納しているようである。3枚目から最上段の画面の左側には茎と葉を内部に育てる人物が背筋を伸し立つ。その頭部は最上段の太陽の陽射しを浴びる。ハサミムシのヒトはいつしか脚の代わりに尾羽を手に入れ、太陽に向かって飛翔する。
《Dancing with the Moon》(1303mm×1620mm)の中央には、緑の葉を繁らせる低木が取り巻く池に潜り空を見るために顔だけ水面から出した人物が描かれる。空では三日月が煌々と照る。画面下半分の左側には、左側に向かう女性と男性との上半身が半ば融合したように
描かれる。男性が鑑賞者を向くのが、青木繁《海の幸》を連想させる。画面右側からは男性が大きく前に倒れる形で現われる。2本の水辺の植物に身体を貫かれるようでもある。面全体に滴る絵具が、空と沼と人物の一体感を強める。
流木に画布を張った《Look at me》(860mm×900mm)には、沼地で倒れる女性と、彼女を抱き抱えようとする男性、2人を取り巻く大蛇とが描かれる。画面中央の沼に半ば沈み込む女性は弧を描く左腕を池畔に伸す。彼女に覆い被さるように現われた男性が左腕を池畔で支えつつ、右腕を女性の背に廻して抱えようとする。岸辺の樹木に巻き付いた大蛇がみをくねらせつつ、男女の顔の近くに頭を擡げる。他の作品が赤と緑とを基調とするのに対し、本作は主に緑を用いて描かれているために、静寂さと一体感とが強調される。

 (略)自分の生の一部がノンヒューマンたちのそれと同一であることを発見するなら、わたしたちは人類の特徴をノンヒューマンたちにも認めることができる。逆に、人間の特徴を植物や動物に付与するたびに、わたしたちはまた、純粋に人間的な本性を持っていない何かが自身のうちにあることを認める。そしてこれらの2つの道行きは構造的に必然的である。いかなる種もそれに先立っていた種を最小限に修正したものとして規定されるなら、ただ1つの種についての知識はすべて、その成り立ちからして種をまたいだものであるということだ。ある観点からすれば、あらゆる知識はトーテム的である。なぜなら、他の生きものから得られたのではない知というのはありえないのだから。そしてその逆に、あらゆる自己理解はつねに他の形態の生についての認識である。なぜなら、いかなる形態の生も多数の種かならなるコラージュなのだから。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗・〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.185)