可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 竹谷出個展『よみびとしらず』

展覧会『竹谷出写真展「よみびとしらず」』を鑑賞しての備忘録
禅フォトギャラリーにて、2026年6月26日~8月8日。

街の片隅に存在する生活の痕跡を恰も作者不詳のヴィジュアルアートのように切り取ったイメージを、ゼラチン溶液に重クロム酸塩と墨汁ないし煤を混ぜて塗布して制作した感光紙にネガを密着して露光させ、ゼラチンを洗い流すことで定着させたカーボンプリントで構成される、竹谷出の個展。

 マルティニックのクレオール社会における語り部の機能を、グリッサンの小説をも参照しながら分析するパトリック・シャモワゾーとラファエル・コンフィアンは、この「語り部」の無人称のポジションを次のように説明している。
語り部たちはだから、いつもことばを残して、自分は忘れられようとしてきた。(……)語り部の匿名の戦略は、はじめに物語のテーマを供給した集団に、物語が再び取り込まれるのを容易にする。この再取り込みによってメッセージは永続化されるのだ。(……)語り部の隠された自由は、集団的かつ精神的なこの積極性の場にあった。
 ここでいう「匿名の戦略」とは、すなわち集団に統一的な「声」を与えるための方法論である。集団が共有する心性が、ひとつの響きを与えられ、語り部の声のなかに谺するのである。その声をふたたび聞き手が、こんどは自らの身体を媒介にして周囲に谺させる。この鳴り響きの連鎖こそが、「語り部」が生きつづける場であった。(今福龍太『群島‐世界論[パルティータⅡ]』水声社/2017/p.183-184)

クラックガラスを捉えた写真。ガラス壁面の無数の罅を眺めていると、左側には縦に"3000円"との記載が、下部には横に電話番号が、紛れ込んでいるのに気が付く。世界の片隅に密やかに残されたメッセージを読み解くよう促される。
縦や横に走る鉄骨。ピート・モンドリアン[Piet Mondrian]の「コンポジション」シリーズのように、精緻に空間が分割されている。
護岸であろうかコンクリートの傷んだ壁面には引っ掻くようにハートマークが表わされる。ブラッサイ[Brassaï]の「グラフィティ」シリーズを想起させる。壁の疵は経年により意図せず生まれたものだが、意図的に刻まれたハートマークによって、カーボンプリントによる印画紙の柔らかな印象と相俟って、俄に身体的な感覚が呼び覚まされる。ドアや排気口が覗く建物の壁面は長年の使用により様々な汚れがこびり付いている。縦の線は刃物による裂傷のようであるのに対し、排気口の上に拡がるもやっとした汚れは、建物の呼吸を感じさせる。上方に吊り下げられたランプから辿々しく左右に揺れながら流れ落ちる線は涙のようでもある。
正方形のタイルを敷いた床に浮かぶ人影は、肩から胸、両腕の途中までで途切れる。中途から消え、あるいは切り替わるイメージは、ルネ・マグリット[René Magritte]の山高帽の男のシリーズを連想させる。潮が引いた海岸に立つ奇岩は、波蝕により括れて頸が出来、頂部に生えた草木は髪のようで、人頭に見える。同時に、マグリットの《ピレネーの城[Le Château des Pyrénées]》のように浮遊しているように錯覚してしまう。シュルレアリスムを連想させる作品としては、壁に立て掛けられた下半身だけのマネキンを被写体にしたものがある。ハンス・ベルメール[Hans Bellmer]の作品に見られるようなオブジェと化した身体である。切断された腰に取り付けられた鉄鎖により柱に結び付けられている。床を走るチューブが壁の奥に覗くマンホールの蓋に視線を誘導され、恰もマネキンが下水に流れ落ちないよう縛り付けてあるような印象を受ける。
1点だけ身体を捉えた作品がある。トルソのように頸から腹部にかけてが画面に大写しになっている。皮膚には幾何学的な線(傷)が残されるとともに、"MEMENTO MORI"と刻み込まれている。身体へのグラフィティにより、人間も物体もともに画布――原初では壁――であることが明らかにされる。みずから(人工)とおのずから(自然)との差異が消失する。作家はおのずから生まれた影を自ら映す。その影を印画紙に写す。影=イメージの谺が連鎖する。無論、鑑賞者にもまた響き亘るだろう。