可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 新海友樹子個展『誰でもない身体』

展覧会『新海友樹子個展「誰でもない身体」』を鑑賞しての備忘録
日本橋N11ギャラリーにて、2026年7月25日~8月9日。

突起や穴の開いたサンゴを連想させる形に樹木や人の手や耳などを組み合わせた陶器を中心に、作品を焼成した穴窯の記録写真・映像、皿やカップなど普段遣いの食器などを取り合わせた、新海友樹子の個展。比較的高い展示台に置かれた陶器が、鑑賞者と対峙する存在となっている。

 (略)メタモルフォーゼとは、生をさまざまな世界、さまざまな形態へと散布させることである。これら世界や形態は生によって統一的な枠組みのなかで結びあわされるのだ。メタモルフォーゼは、それぞれに一揃いの形態が住み着いているさまざまな世界の連なりを分節する天井のないアトラスとしてしか表わすことのができない。メタモルフォーゼの力である限りで、あらゆる生は展開されつつあるアトラスである。この力は1つの領土に宿っているようなものではない。その肉体において領土の地図であるのだ。空間はもはや生の容れ物ではない。生はそれ自体複数の形態や世界をただ1つの身体から展開させる。この身体はみずからのうちにコスモス(宇宙)の地図作成法――それは通時的なものであり、その完成は先延ばしされ続ける――を受肉させるのである。あらゆるメタモルフォーゼは生に1つの場となることを強いる。それは住まわれる空間であり、探査され展開されるべき領土である。つまり解剖学と地理学が合致するのだ。
 こうも言えるだろう。メタモルフォーゼとは、さまざまな世界や形態のちぐはぐな連なりを生といううただ1つの線において構成可能にするものである。これらの形態を辻手ただ1つの自我が表現されるのだ。あらゆる形態は、その最も私的で個人的な厚みにおいて、伝達の純然たる現実であるように見える。したがって自我の仕事とはなによりもまず、1つの懈怠を別の形態へと伝達し、みずからを身体から身体へと、世界から世界へと伝達する仕事である。メタモルフォーゼは生を自己伝達の一形態とする。妊娠の運動に近いと同時にこれと相反する運動が問題となっている。妊娠というものはすべてただ1つの身体が2つの生と2つの世界の仮の宿となることだとすれば、メタモルフォーゼにおいてはただ1つの生が2つの身体、2つの世界のあいだで分有されているのである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.64-65)

《考える身体》(360mm×370mm×380mm)は、植物と手とが融合した形の陶器。クリーム色を基調に淡い赤茶色を呈する。光沢は釉薬を掛け流したものと自然釉によるものとの両者であろう。作品の背後の壁には素焼き(焼成前?)の白い姿が展示されている。全体の所々に突起がある、サボテンのような肉厚の茎が4つ5つ、うねりながら上や横へ伸びる。そのうち3つの先端には手が生える。植物が象徴する自然と手が象徴する人間とが一体的であることを表わす。また、外へ向かい突き出された手は、手の目(手目坊主の手)に通じる。手で見る。見るとは考えることであるから、手で考えることを表わすのではないか。視覚の優位に対する、触覚の復権を訴える。
《生きていること、そして還ってゆくこと》(130mm×90mm×220mm)は茶色の線で表面を覆い尽くした右足を模した作品である。ところで、「生きていること、そして還ってゆくこと」シリーズは他に3点が展示されている。《生きていること、そして還ってゆくこと》(530mm×310mm×220mm)は茎ないし幹の伸びる土台となるような根の塊の側面に1対の耳が付いている。《生きていること、そして還ってゆくこと》(550mm×440mm×480mm)は三つ足の壺であるが、フジツボのようにも見える無数の瘤のある膨らんだ胴、顔や耳の見える頸を持つ人物のように表わされる。同題の《生きていること、そして還ってゆくこと》(400mm×260mm×330mm)もまた三つ足で、サボテンのような肉厚の茎が絡み合い、先端に穴を覗かせる。これら以上の3点は《考える身体》同様、複数の生物が融合した形態を取る。それに対して、足の作品は趣が異なると思われるかもしれないが、そんなことはない。こここで、クリーム色に青い点が打たれた、甲に穴の開いた右足の焼物を草地に置いて撮影した写真作品「STEP INTO THE EARTH」シリーズ(各420mm×297mm)を眺めて見よう。陶器が陶土から焼成されたものであることを活かし、人間が大地と一体的な存在であることを表現している。実際、聖書ではアダムが土から創られたのであり、土と人間とは一体的である。大地を踏みしめる足は、人間がその起源を再確認することを可能にする。穿たれた穴は、人間が不変の存在ではなく、メタモルフォーゼする。このように作家にとって足は、その踏みしめる大地のメタモルフォーゼであり、あらゆる形態へと変じるものである。世界に対して開かれているのだ。