展覧会『奈良美智キュレーション展「地層の胎動」』を鑑賞しての備忘録
KOSAKU KANECHIKA〔天王洲〕にて、2026年6月27日~8月8日。
幾何学立体に自然を映す植松永次、キッチュにも見えるポップな色彩と造形の桑田卓郎、依代あるいは祠のような祈りの場を設える坂本紬野子、モザイクによる入れ籠の世界を起ち上げる安永正臣の4名の陶芸作家を取り上げる企画。キュレーションは、奈良美智。
【植松永次】
《深い眠りの中で星を抱く象》(235mm×265mm×275mm)は、明暗の灰色の全面に罅割れが入る立方体状の作品。皺の寄る象の皮膚に近しい陶片が内部を包み込む。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ[Antoine de Saint-Exupéry]の『星の王子さま[Le Petit Prince]』に登場する、象を呑み込んだ蛇の絵を想う。蛇に呑み込まれた象を反転させ、逆に象が蛇を包み込むとしたら? 象はまた星を、宇宙を呑み込むだろう。
《涸れ井戸》(175mm×295mm×300mm)は、クリーム色のザラザラとした表面に赤味が差し罅が全面に入る、正方形に近い底面を持つ直方体状の作品。中央に正方形が切られ井桁のようである。《深い眠りの中で星を抱く象》と同様、床に置かれており、穴を覗き込む誘惑に駆られる。深淵を長く覗き込む者はまた深淵に覗き込まれる[wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein]とは、フリードリヒ・ニーチェ[Friedrich Nietzsche]Jenseits von Gut und Böse)が記すところである(『善悪の彼岸[Jenseits von Gut und Böse])。
《夜の月》(372mm×264mm×57mm)は、不等辺四角形の灰色の陶板で、手付向付のような持ち手が中央やや下に斜めに付く。上端に覗く円(円弧)が月であり、持ち手の斜めの線により昇る動きが暗示される。下端左側にはぼんやりとした明るい部分がある。水面に映った月である。持ち手は池を渡す橋であり、天と地を繋ぐ阼である。
《巡る白》(135mm×137mm×133mm)は灰白色の球形の作品。部分的に墨色を呈する。月の満ち欠けであり、時間の表象である。月も地球も自転しながら、公転する。同じ事の繰り返しながら、実際には全く同じ事を繰り返せる訳ではない。
「そうか、自転しながら公転してるんだな」
「は?」
貫一はカウンター越しに自分と都の分の酒を頼んだ。
「なあ、おみや」
彼は顔を寄せて都に囁いた。
「地球はどのくらいの速さで、自転と公転してると思う?」
「そんなの知らないよ」
「地球は秒速465メートルで自転して、その勢いのまま秒速30キロで公転してる」
都がぽかんとする。
「地球はな、ものすごい勢いで回転しながら太陽のまわりを回ってるわけだけど、ただ円を描いて回ってるんじゃなくて、こうスパイラル状に宇宙を駆け抜けてるんだ」
貫一は炒め物の皿に残っていたうずら卵を楊枝で刺し、それを顔の前でぐるぐる回した。
「太陽だってじっとしてるわけじゃなくて天の川銀河に所属する2千億個の恒星のひとつで、渦巻状に回ってる。だからおれたちはぴったり同じ軌道には一瞬も戻れない」
「さっきから何言ってんの?」
「いや、面白いなと思って。おれたちはすごいスピードで回りながらどっか宇宙の果てに向かってるんだよ」
(山本文緒『自転しながら公転する』新潮社〔新潮文庫〕/2022/p.102-103)
《空へ》(201mm×195mm×195mm)は、墨色と灰色の円筒形状の作品。《涸れ井戸》とともにこの筒を見ると、「筒井筒」を連想せざるを得ない。「風吹けば沖つしら浪たつた山よはにや君がひとりこゆらむ」。現在推量「らむ」同様、作家は見えていないものをこそ推し量るよう鑑賞者に促す。だからやはり涸れ井戸の底を、深淵を覗き込んでしまう。
【桑田卓郎】
《Untitled》(1100mm×1100mm×75mm)は、黒・ピンク・金の3色に不均等に塗り分けた円形の陶板で、壁の高い位置に掛けられている。太陽だろうか。
《Untitled》(405mm×530mm×520mm)は床に置かれた丸みのあるでっぷりとした金色の塊で愛嬌がある。胴が張って肩・頸はないが頂部で窄まる。表面を金色の雫ないし粒がびっしりと覆う。地上に降ろした太陽のようだ。フィンセント・ファン・ゴッホ[Vincent van Gogh]なら粒々を渦状に配しただろう。
《Untitled》(545mm×430mm×300mm)は、楕円状の底面を持つ釣鐘のような形状の作品で、粘土を貼り付ける手の痕跡を残した水色の器面にピンクや銀などのパーツを貼り付け、さらに黄・金・銀の突起を無数に取り付けてある。薄紫に鮮やかなピンクを垂らした小型の《Untitled》(545mm×430mm×300mm)と隣同士の姿はケバケバしさと得体の知れ無さとで鑑賞者を惑乱させる。「芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という岡本太郎の言葉(『今日の芸術』)を地で行くような作品だ。フランツ・カフカ[Franz Kafka]の『変身[Die Verwandlung]』に登場するあの生き物を連想するかもしれない。
グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の氾濫の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど穢れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気が付いた。(フランツ・カフカ〔多和田葉子〕「かわりみ(変身)」多和田葉子編『ポケットマスターピース01 カフカ』集英社〔集英社文庫ヘリテージシリーズ〕/2015/p.9)
変わり果てたグレゴールを家族は疎んじる。
そのなかでただひとり、グレーゴルを人間として見ているのは、苦労に苦労を重ねてきたであろう年老いた、夫に先立たれた女性の手伝いだけである。「その長い一生涯、しっかりとした骨太の体で、ありとあらゆることを切りぬけてきたらしいこの後家婆さんは、グレーゴルをはじめからすこしもこわがらなかった」。
他の人から「そこに存在しない人」として扱われているこの女性だけが、「汚いもの」、「醜いもの」、「おぞましいもの」とさているグレーゴルを、「そこにいない人」とはせず、自分と同様、そこに「実在する人」とする注意力をもちえている。この人だけが、天才の道程にある。(今村純子『シモーヌ・ヴェイユ思想入門』光文社〔光文社新書〕/2026/p.60-61)
《Untitled》(1120mm×405mm×405mm)は、粘土を貼り付けた手跡の残る、頂部が窄まった白い円柱状の作品で、肩の辺りに茶、銀、赤などの粘土が垂れる。頸と言うのは躊躇せざるを得ない、輝く金の突起物が天を指して立つ。村上三郎の「紙破り」が水平方向の運動であったのに対し、床に置かれる本作が表現するのは大地から迸る上昇運動である。そのエネルギーはもともと宇宙に由来する。金の塊における太陽の下降に対し、再度太陽を上昇させる(打ち上げる)作品である。
【坂本紬野子】
《祈るための形》(320mm×230mm×32mm)は、6×4の正方形の穴の開いた長方形の陶板で、それぞれの穴に球が置かれている。区画蔟の繭のイメージである。
《落ちたどんぐりのレリーフ》(163mm×117mm×35mm)は、コンクリートの地面を想わせる灰色の陶板に緑、山吹、ピンク、紫などの穴の開いた半球が取り付けられた作品。樹に成るどんぐりではなく、地面に落ちたどんぐりである。地面への眼差しを象徴する。《椿の種のレリーフ》(192mm×144mm×60mm)は楕円形の陶板に、オフホワイトあるいは淡い青色の球をカットした形を並べた作品。花ではなく、花の散った後に現われる実に目を向ける。《皮剥きリンゴのレリーフ》(200mm×402mm×72mm)は、カットした林檎の実を盛り付けた陶板作品。灰褐色の器面にかかる茶色い釉により灰汁が出た林檎といった印象を受ける。兼好の「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」(『徒然草』)を想起させる。
《ほこら》(253mm×146mm×68mm)は直方体に切り出した石の上に石の柱を並べ、さらに石の梁を置いたような形。瑠璃色の細い直方体を横と縦に組んだ《積まれたもの》(146mm×86mm×80mm)も類例作品である。《ほこら》(253mm×162mm×93mm)では、板の上に卵のようなものを並べ、また板を置き、卵のような形を並べ、というように4枚の板で卵のような形を挟んである。《陶器の家》(116mm×128mm×113mm)は青色の不定形の形を組んだ作品。これらの作品は、祠であり、神殿であり、何かが宿る依代なのだろう。
《三つの柱》(290mm×145mm×143mm)は3本の茎が真っ直ぐに伸び、それぞれ先端に花ないし実を付ける、黒い陶彫である。比較的近い作品として、花のような切断面を持つクリーム色の柱《目印の石》(225mm×80mm×85mm)や、同じく花の形の断面を持つ淡い緑の列柱《陶器の家》(144mm×203mm×78mm)などがある。太陽の光を受ける植物に依代を見ている。植物の形は光を見るために産み出されたものに他ならない。
《光を見るための形》(280mm×172mm×170mm)は緑に黄が被さる不定形の形を板の上下に組んだ作品。不揃いな塊があちらこちらに向けられることで、眼差しがまたあらゆる方向に向けられることを暗示する。正しく、花瓶に活けられた向日葵[zonnebloem]が上下左右に向けられたゴッホ――彼は伝道を志していた――描く所の向日葵だ。光は神であり霊であり、遍く存在するからである。落ちた椿にも、落ちたどんぐりにもまた、光は宿るのだ。
【安永正臣】
《モザイク》(317mm×420mm×55mm)は、絵付けした壺をモザイクで表わした陶板。8つの円を周囲に配した中に壺の形と、壺の器面に舞台で対峙する2人の人物が表わされる。何に取材しているかは判然としないが、左の人物から右の人物がお告げを受けているようである。《モザイク》(593mm×294mm×50mm)は、人物や壺などが描かれた壺をモザイクで表わした陶板作品。でっぷりとした壺の口縁から底にかけて6段に亘って人物や壺などがシルエット状に表わされる。古代エジプトの壁画ないしヒエログリフを連想させる。《モザイク》(440mm×297mm×50mm)は、モザイクで壺を表わした陶板。凹凸のある石板のような器面に、口縁が張り、頸から肩がなく拡がり、胴の一番張った部分から一気に底に向かって窄まる壺が表わされている。淡い青味が赤味に映える。その壺の中に褐色の耳付きの壺がさらに表わされる。入れ籠の関係は正しく壺中の天である。合わせ鏡のように世界は天にも地にも無限に連なっている。
(略)後漢の時代に壺公という仙人が、昼間は市中で薬を売り、つねんい1個の空の壺を屋上に懸けておき、日が暮れると跳びあがって壺中に入る。これを見て、その秘密を知りたいと思った町役人の費長房が、苦心の末に仙人に許されて、ともに壺中に跳びこむと、そこはすでに小さな壺の内部ではなく、楼閣や門や長廊下などの立ちならぶ仙宮の世界だった、というのである。小宇宙はすべて、大宇宙の忠実な似姿なのであり、私たちの相対論的な思考は、そこに必ずミニアチュールの戯れを発見するのである。ニコラウス・クサーヌスは、これを無限という観点から見て、最大のものは最小のものと一致する、つまり「反対の一致」ということを唱えた。(澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社〔河出文庫〕/2007/p.262-263)